江戸幕府には設置された寺社奉行、町奉行、勘定奉行という3つの役職「三奉行」がありました。

 

寺社奉行、町奉行、勘定奉行は一体、江戸幕府においてどのような役割を担っていたのでしょうか?

 

今回はこの「三奉行(さんぶぎょう)」について簡単にわかりやすくご紹介していきます。

 

三奉行とは?

 

三奉行とは江戸幕府の役職で寺社奉行、町奉行、勘定奉行、この3つを総称したものです。

 

1603年(慶長8年)に徳川家康が開いた江戸幕府は将軍(幕府)と大名(藩)という主従関係を基礎としていました。

 

この体制は幕藩体制と呼ばれ約200年もの間続くこととなります。

 

 

江戸幕府を開いた徳川家康や、3代将軍・徳川家光、5代将軍・徳川綱吉、8代将軍・徳川吉宗、11代将軍・徳川家斉などは自らが政治(親政)を行っていましたが、その他の多くの将軍は親政をせず、基本的に大老や老中といった江戸幕府の閣僚たちが政治を行っていました。

 

権力の集中を避けるために基本的に重要な役職は複数の人が配置される、政務を1か月交代で行う、幕府にとって大きな決断は話し合いで決めるなど様々な工夫がなされていたとされています。

 

約200年も続いた江戸幕府の幕府組織には様々な役職が存在しました。

 

その中でも三奉行と呼ばれたのが寺社奉行、町奉行、勘定奉行なのです。

 

寺社奉行の役割

 

三奉行のうちの1つである寺社奉行は、三奉行の中で最も格式の高い役職となっています。

 

そのため、将軍直属で一万石以上の譜代大名が寺社奉行として選ばれ、寺社奉行となった大名はその後、重役である大阪城代京都所司代になることができました。

 

最終的には幕府組織の中でも常置の最高位である老中になる大名もいたため、寺社奉行になるということはエリートの証でもあったのです。

 

寺社奉行の定員は4名から5とされ、権力の集中を避けるため1か月交代の月番制となっていました。

 

寺社奉行は江戸幕府が開かれ作られた役職ではありません。

 

実は鎌倉幕府の時代からあった役職なのです。鎌倉幕府の時代からできた寺社奉行は主に寺社から受けた訴訟を処理することを仕事としていました。

 

この役職は室町幕府にも継承されることとなります。

 

鎌倉幕府、室町幕府における寺社奉行の役割と江戸幕府における寺社奉行の役割は少し違います。

 

江戸幕府における寺社奉行の主な役割は全国にある寺社の統制の他、雅楽演奏者や陰陽師、囲碁将棋師、社寺領民など管理するといったものでした。

 

また当時の庶民の戸籍でもある宗門人別改帳は寺社が管理を行っていました。

 

そのため結婚や離婚、通行手形の発行や移住といった、現在の法務省が行うような仕事も寺社奉行は行っていました。

 

町奉行の役割

 

三奉行のうちの1つである町奉行領内の行政や司法を担当する役職です。

 

江戸幕府初期は大名が町奉行に任命されていましたが、以降は旗本(徳川家に仕える家臣団のうち石高が1万石未満の武士)が町奉行に任命されるようになりました。

 

旗本が就くことのできる役職としては町奉行が最高職であるため遠国奉行、勘定奉行などを経験し、司法や財政、民政に詳しい者が任命されました。

 

定員は2であったとされていますが、1人または3の時期もありました。

 

町奉行の主な仕事は領内の決裁や裁判、町人の調査といった領内の治安維持です。

 

簡単に言ってしまえば現代でいう警察や裁判所のような役割を担っていました。

 

多忙を極める役職であったため通勤時間短縮のため奉行所内に自宅があったとされています。また激務のため町奉行在任中に亡くなる者も多くいました。

 

①「北町奉行」と「南町奉行」

奉行所は「北町奉行」「南町奉行」の2か所あり、この2か所が1か月交代で政務を行っていました。

 

つまり寺社奉行と同じく町奉行も月番制だったのです。

 

北町奉行、南町奉行2か所の奉行所がありましたが、江戸の町を2つに分けて、それぞれが担当していたというわけではありません。

 

1702年(元禄15年)の8月から1719年(享保4年)の1月まで短期間ではありますが「北町奉行」「南町奉行」の他に「中町奉行所」が設置されました。

 

設置された理由などは詳しく分かっていませんが、「北町奉行」「南町奉行」の補佐を行っていたとされています。

 

明治以降、奉行所は取り壊されましたが、「北町奉行」「南町奉行」があったとされる場所には現在、石碑が建てられています。

 

②与力と同心との関係性

江戸全体の治安維持を担う役職であったため多忙を極める役職で、そのため定員2の他に、与力同心といった部下を従えていました。

 

この部下である与力や同心は将軍家の家臣であり、町奉行とは直接的な主従関係はありませんでした

 

そのため町奉行は自腹で将軍と直接の主従関係のある与力たちに食事を提供したり、呉服を贈ったりし、与力や同心たちから好かれようとしていたという記録が残されています。

 

町奉行と直接の主従関係がある与力は内与力と呼ばれ、一般的な与力とは区別されていました。

 

本来、内与力は将軍と直接的な主従関係はないため、与力よりも格下ではありましたが、実際は町奉行の側近として町奉行から厚い待遇を受けていたとされています。

 

勘定奉行の役割

 

三奉行のうちの1つである勘定奉行江戸幕府の財政を管理、監視する役職です。

 

幕府組織の中でも常置の最高位である老中の下についた役職で、旗本(徳川家に仕える家臣団のうち石高が1万石未満の武士)が就任することができました。

 

江戸幕府の財政全般を扱い、全国の郡代(徴税、司法、軍事などの職務を担当する地方行政官)、代官(領主に代わって事務を行っていた者)、蔵奉行(幕府の米蔵の管理を担当していた者)などを支配していました。

 

勝手方勘定奉行と公事方勘定奉行

定員は4で主に幕府の財政全般を扱っていました。

 

しかし、財政に関わる犯罪や訴訟などの問題が増えたため、1721年(享保6年)になると幕府直轄領の租税の徴収といった主に幕府の財政を管理する勝手方勘定奉行と、主に訴訟事務を担当する公事方勘定奉行に分けられました。

 

翌年の1722年(享保7年)も2人ずつ勝手方勘定奉行、公事方勘定奉行に分かれ、1年交代で政務を行ったとされています。

 

まとめ

 三奉行とは江戸幕府の役職である寺社奉行、町奉行、勘定奉行を総称したもの。

 寺社奉行は主に全国にある寺社の統制や陰陽師、囲碁将棋師などを担当していた。

 町奉行は領内の行政や司法を担当していた。

 勘定奉行は主に江戸幕府の財政を管理していた。

 三奉行の中で寺社奉行が最も格式の高い役職である。

 町奉行、勘定奉行が旗本(徳川家に仕える家臣団のうち石高が1万石未満の武士)から選ばれるのに対し、三奉行の中で最も格式の高い寺社奉行は石高一万石以上の譜代大名から選ばれた。

 寺社奉行に任命された者はその後、重役である大阪城代や京都所司代や老中になることができ、寺社奉行はいわばエリートの証であった。

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