江戸時代の中期、宝暦に起きた初めての尊皇論者弾圧事件である宝暦事件の後に、再び尊皇論者を弾圧する事件『明和事件』が起きました。
今回は、そんな『明和事件』についてわかりやすく解説していきます。
目次
明和事件とは?
(山県大弐銅像 出典:Wikipedia)
儒教者・思想家である山県大弐が、尊皇論を唱え幕府に謀反を働いたとして、1767年(明和4年)に逮捕。また、大弐の家に寄宿していた藤井右門も同じ罪で逮捕されます。こういった幕府の尊皇論者への一連の弾圧を明和事件と呼びます。
最初の弾圧事件は宝暦事件と言い、1785年に起こっています。
藤井右門は、宝暦事件の時には逮捕を逃れて、山県大弐の家に身を寄せていたのです。さらに、宝暦事件で処罰された竹内式部にも弾圧の手は伸びました。
明和事件の背景
こうした弾圧が起こった背景には、何があったのでしょうか?順を追ってみていきましょう。
①江戸時代の思想
江戸時代には、その前の戦乱の時代と違い平和安定が訪れたため、仏教よりも儒教が広まっていきます。仏教は死後の世界での救いを説く宗教でしたが、儒教は生きていくための道徳を説く宗教です。
幕府が体制を保つために、忠孝を説く儒教を取り入れ身分の上下関係を思想の面から支えたのでした。特に、儒教の一つである朱子学は幕府が認める正式な学問となりました。
この思想を広めるのに大いに影響を与えたのは、朱子学者の林羅山でした。
(林羅山 出典:Wikipedia)
幕府に仕えた時、自然界に天と地があるように、人間界にも上下が存在するという主張をしたのです。
②尊皇論
ところが、同じ朱子学者の中でも林羅山を批判するものもいました。
山崎闇斎は、幕府が喜ぶような林羅山の主張をよく思わず、朱子の書のみを研究し、大義名分論を展開します。
大義名分論とは、簡単に言えばそれぞれの身分や地位にはそれぞれの本分(名分)があり、その本分を実践する道があるというものです。
その後、朱子学に神道を取り込む独自の説「垂加神道」の創始者となります。
垂加神道は天照大神に対する信仰を基本として、その系統である天皇が日本を治める道が神道であるという教えです。そのため、尊皇論の基となる思想となりました。
③将軍と天皇の関係
尊皇論は、日本においては天皇を尊び、天皇が国を治める者という考えになります。
そのため、将軍家が国を治める江戸時代には、尊皇論を唱える者は幕府に反対する者となりました。
鎌倉時代から武士が国を治める流れがありますが、天皇家はいつの時代も大きな影響力を持っていました。江戸時代になっても、その影響力は無視することはできませんでした。
そのため、幕府は天皇の力を統制する必要があったのです。
そこで、1615年に作られたのが禁中並公家諸法度という法令です。この法令で、初めて武士が天皇の行動を制限することができるようになったのです。
明和事件の内容
武士が天皇をコントロールする時代に、明和事件は起きました。
この明和事件とはどのうような事件だったのか詳しく見ていきましょう。
①宝暦事件の発生
明和事件に先立ち、1758年に宝暦事件という江戸時代に初めて尊皇論者を弾圧する事件が起きます。
宝暦事件では、公家である徳大寺家の家臣、竹内式部が山崎闇斎の大義名分論を天皇の側近たちと天皇に講義したという罪で追放されます。そのほか講義を受けた天皇の側近たちも追放されました。
幕府がこの出来事を重大視したのには、公家の中に時の将軍、徳川家重を将軍職から外して追放し、幕府を倒そうと計画する者が現れたからです。
②明和事件の発生
明和事件は、甲斐国(かいのくに・現在の山梨県)出身である山県大弐と宝暦事件に関わった藤井右門が逮捕された事件です。
山県大弐は京都で医術と儒教を学び、尊皇論の思想を持つようになります。
その後、江戸に出て私塾を開き、そこで大義名分論や兵学を教えていました。
さらに、宝暦事件で竹内式部と一緒に尊皇論を説いていた藤井右門が京都を逃れ、大弐のもとに身を寄せていました。
幕府は、大弐が多くの弟子たちを持つ小幡藩(現在の群馬県甘楽郡)の内紛に乗じて、大弐と右門を逮捕します。
③幕府の弾圧
宝暦事件では、尊皇論の講義をした竹内式部と講義を受けた公家たちが追放されました。
明和事件では尊皇論を教えたとして、山県大弐と藤井右門は処刑されるという重罰が科されたのです。
そして、宝暦事件で京都を追放された竹内式部は、明和事件でさらに八丈島へ流されるということになりました(つまり流刑)。
山県大弐は尊皇論を唱えるだけでなく、幕府の腐敗や官僚を批判する説も展開していました。
明治和事件は、尊皇論だけでなく、幕府に反対する者への重い処罰でもあったのです。
明和事件の影響
山県大弐の思想は、後の時代にどのような影響を与えたのでしょうか?
①山県大弐と倒幕思想
山県大弐が尊皇論を説いて、幕府を批判したことから、山県大弐の思想は倒幕思想の先駆けとも言われています。
明和事件から約100年後に幕府は倒れ、明治維新が始まりますが、倒幕思想を思想の面から支えた吉田松陰は、山県大弐の本「柳子新論」を読んで倒幕思想に目覚めたという人もいます。
(吉田松陰 出典:Wikipedia)
また、山梨県には山県大弐を祀る山県神社もあります。山県大弐が医学や儒学、兵学など多くの学問を伝えたことから「学問の神様」として崇められているのです。
②明和事件と小説
明和事件をベースにした小説もあります。諸田玲子作の「氷葬」です。
内紛が起こった小幡藩の隣にある岩槻藩の下級武士の主婦が主人公で、内紛や明和事件を背景に話が進みます。
この本は、兵学を教えていた山県大弐と藤井右門が江戸城と甲府城を攻撃するという計画を練っていたのではないかという一説をベースに書かれています。
「氷葬」では、山県大弐が記したと思われる軍略書や幕府転覆の誓約書が出てきます。実際に存在したかどうかは、今となってはわかりませんが、明和事件の時代背景を感じることのできる作品と言えます。
明和事件の語呂合わせ
宝暦事件は1758年、明和事件は1767年に起こりました。関連のある事件ですので、一緒に覚えておきましょう。
「イナゴは、放れ!」
(イ(1)ナ(7)ゴ(5)は(8)、放れ(宝暦))
「それは迷惑、ろくでなし!!」
(それは迷惑(明和)、ろく(6)でな(7)し)
一人の人が「イナゴは、放れ!」と言います。そして、相手の人が「それは迷惑、ろくでなし!!」と言い返すのです。
まとめ
・明和事件とは、1767年に幕府が尊皇論を説く山県大弐と藤井右門を逮捕し、処罰した事件である。
・宝暦事件で追放された竹内式部も八丈島に流される刑を受ける。
・山県大弐の思想は、尊皇攘夷のみでなく幕府の腐敗を批判していた。
・そのため、幕末の倒幕思想に影響を与えたと言われる。
・語呂合わせは、「イナゴは放れ!」「それは迷惑、ろくでなし!」