【オランダ国王の開国勧告とは】簡単にわかりやすく解説!!内容や目的など

 

1844年5月 オランダ国王ウィレム2世は、徳川幕府に開国を勧告する新書を届けます。

 

‥が幕府はこの勧告を拒絶します。

 

今回は、「なぜオランダ国王が開国を勧告したのか?」その背景や目的について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

オランダ国王の開国通知とは?

ウィレム2世 出典:Wikipedia

 

 

オランダ国王の開国通知とは、1844年にオランダ国王 ウィレム2世が12代将軍徳川家慶に宛てた新書のことです。

 

18世紀ごろから、ヨーロッパ各地で戦争が起こるようになり、オランダも巻き込まれていきます。この新書が届く前にアヘン戦争(1840〜1842年)が起こり、清が惨敗。

 

オランダ国王は日本が清の二の舞になる事を危惧し、オランダの指導の元で開国する事を勧めます。

 

日本はアヘン戦争の事は知ってはいましたが、開国を勧めるこの提案を拒絶します。

 

それから約10年後ペリー提督が日本を開国させる事になります。

 

日本にオランダの親書が届いた背景

①オランダの隆盛と没落

江戸時代初期は航海術が未熟で、ヨーロッパから日本まで来て貿易をできるだけの国力を持っていたのは、スペイン、ポルトガル、オランダくらいでした。

 

オランダはキリスト教の布教は行わない方針だったため、幕府はオランダとの貿易を続けていました。

 

しかし、江戸時代初期に世界の覇権を握っていたオランダは徐々に没落。1700年代後半にイギリスとフランスが台頭してきます

 

オランダは1793年のフランス革命の際にフランスに国を占領され、国王のウィレム5世が亡命する事態が起きていました。

 

占領後の1806年にはナポレオンの弟が国王となったホラント王国が樹立。オランダの植民地も全てフランスのものとなります。

 

こうしてオランダは消滅し、出島のみがオランダと名乗っていました。

 

元オランダ国王のウィレム5世はイギリスに亡命した縁もあり、イギリスには友好的でした。

 

イギリスは東アジア全体の貿易独占を狙っていましたが、出島との貿易拠点の土地であった植民地バタヴィアはフランスの領土となっており、ややこしい事態となっていたのです。

 

そんな渦中、1808年にイギリス船フェートン号がオランダ船を名乗って出島に出現。オランダ商館員を拉致し、 幕府に水や食料を要求する事件が起きてしまいます(フェートン号事件)。

 

 

その後のオランダですが、ナポレオンは失脚後に開催されたウィーン会議(1815年開催)の中で、南ネーデルラントを合わせた立憲君主国オランダ王国が樹立し、復活を果たします。

 

ただかつての栄光とは程遠いものでした。

 

※オランダ王国の初代国王はウィレム1世。ウィレム5世→ウィレム1世と名前が遡っていますが、フランス革命時のオランダとウィーン会議後のオランダは別物なのでこれで良いのです。

 

②異国船に対する日本の対応

その後もイギリスは日本に度々出現。幕府は危機感を持つようになり、1825年に異国船打払令を発令します。

 

 

1837年にアメリカ船のモリソン号が漂流民を送り届けようとした時も、イギリス船と勘違いし、話も聞かずに追い返してしまいます(モリソン号事件)。

 

 

モリソン号は漂流民を送り届ける為に来航した事は1年後に判明。幕府は内外から批判を受けます。

 

幕府も国防に力を入れるようになりますが、防衛の為であり、開国をするという発想はありませんでした。

 

③アヘン戦争と日本の対応

それから間もなくイギリスと清の間でアヘン戦争(1840年〜1842年)が勃発し、清は惨敗。南京条約を締結します。

 

この条約の内容は、清にとってかなり不平等なものでした。

 

清はヨーロッパでも一目置かれる存在だったのですが、アヘン戦争をきっかけにヨーロッパは東アジアに目をつけるようになります。

 

このアヘン戦争の結果は日本に大きな衝撃を与えました。

 

これを受け、当時の老中の水野忠邦は1842年に異国船打払令を廃止。

 

異国船が来たら、食料や燃料を与えて穏便に帰ってもらう薪水給与令を発令します。

 

 

オランダ国王が、幕府に新書を渡すのはそれから2年後の1844年になります。

 

開国通知の内容とその目的

 

 

当時のオランダ国王はウィレム2世です。通知の内容はざっくりとまとめるとこんな感じです。

 

  • オランダと日本は200年来の付き合いがある。友好国として心配な事があるので新書を送る。
  • 最近イギリスと清(中国)が戦争を行い、清がボロ負けした。清はイギリスの植民地となっている。
  • 日本も同じような事になりかねない。最近は異国の船も日本の周りに出没する事が増えている。
  • 異国船打払令を止めたのは良いけど、日本に来た船を排除し続けると、戦争の火種になる。
  • 蒸気船が出来てから、国と国の距離は格段に近くなっている。日本だけが交流を閉ざしているのはあまり良くない。
  • もし私の忠告を聞いてくれるなら、部下を送ります(開国の窓口になる)
  • 私は遠く離れた日本の事をとても心配に思っている。
  • 軍艦を使ってまで新書を届けたのは、幕府の返書を大切にオランダまで届ける為(それだけの覚悟を持ってる)

 

以上になります。

 

オランダは日本が開国させられるのは時間の問題も考えていたようです。

 

他の国よりも優位に立ち、日本との関わりを密にする事で他の国よりも日本での立場を優位にしたかったと思われます。

 

勿論、自国の今までの境遇から、友好国としての心配もあったと思いますが…。

 

開国勧告を受け取った日本の対応

(当時の将軍徳川家慶 出典:Wikipedia)

 

 

当時その新書を受け取ったのは12代将軍の徳川家慶と、老中の水野忠邦です。

 

補足しておくと、水野忠邦は少し前の天保の改革(1840〜1842年)で大ポカをやらかし、失脚していましたが、江戸の大火や今回の新書をどうするか等の問題から老中に復帰しています。

 

水野忠邦が3か月かけて作成した返事は一言で表すなら「正式な返答は後日行うので、今回は帰ってください」でした。

 

あまりに失礼ですし、返答になっていないというか、後回しにしているだけというか、のらりくらりと返答を遅らせるのは、今後の幕府の常套手段となります。

 

その後の正式な返答は次の老中首座である阿部正弘が作成しましたが、家慶の指示を受けて、正式にお断りをしています。

 

 

(阿部正弘 出典:Wikipedia)

 

 

内容も「オランダとはあくまで貿易での関係なので、政治にまで口出しはしないで欲しい」とかなり失礼な内容だったのです。

 

その後の日本

 

この後も数え切れないくらいの異国船が通商を求めて日本に現れますが、幕府はどれも断っています。

 

その頃の異国船は割と紳士的な対応を心がけていましたが、幕府は下手に出る国に対しては割と強気だったようですね。

 

開国はペリー提督の砲艦外交まで待たないといけません。

 

阿部正弘は幕府に海防掛という役職を設ける等、最初は主に国内の防衛に意識を向けた取り組みを行っていきます。

 

 

まとめ

 オランダ国王の開国通知とは1844年にオランダ国王 ウィレム2世が12代将軍徳川家慶に宛てた新書の事。

 オランダは1800年代には没落し、イギリスフランスが台頭。オランダは日本が清のようにならないか心配していたので、新書を宛てた。

 1842年にアヘン戦争で清が敗北してから、日本は薪水給与令を発令し、異国船への対応を軟化する。

 幕府はオランダの通知を謝絶する。その後も数え切れないくらいの異国船が日本に出現する。