一般的に「米騒動」といえば、何かしらの原因で私達日本人の主食である米の流通量が減少し、その価格が高騰することで、入手困難になった際に起こる騒ぎのことです。
江戸期以降、凶作などの影響で度々発生していたようですが、歴史上「米騒動」といえば1918年(大正7年)の米騒動を示すことが多いです。
ここでは、この最も有名な米騒動について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
米騒動とは?
(魚津での米騒動を報じた『富山日報』 出典:Wikipedia)
米騒動とは、1918年(大正7年)米価格の引き下げや安売りを要求した民衆による暴動のことです。
富山県魚津漁村の女性たちを中心とした米価高騰に対する抗議からの騒動をきっかけにして、全国に広まっていきました。
この騒ぎでは主に米問屋などが襲われました。
米騒動が起こった背景や原因
①社会の変化
第一次世界大戦の好景気(大戦景気)による都市部での人口増加および工業労働者の増加は、地方での人口減少と農業界からの人材流出をまねき、米の生産量は減少する傾向にありました。
またこの頃、食生活にも変化がみられるようになります。
農家でも、養蚕等による収入増を期に、今までのムギやヒエなどの雑穀食中心から、米食中心へと変わってゆきました。
また、当時は今のように肉や魚が多くあったわけでは無いため、主食である米を多く食べおかずを少なめしていました。
米が今以上に食の中心になっていたわけです。
②米の価格上昇
米の生産量の減少に加え、高い利益を見越した地主や商人によって、売り惜しみや買い占めなどもおこったため、米の価格は徐々に上昇していきました。
同時に大戦景気は米以外の物価上昇も引き起こしましたので、庶民の生活はますます苦しくなっていきます。
その為、政府は暴利取締令(ぼうりとりしまりれい)を出し、米などの8品目(米・鉄・石炭・綿糸(綿布)・紙・染料・薬品・肥料)の買い占めや売り惜しみを処罰するようにしたのですが、価格の上昇を抑えることは出来ず、大した効果を得られませんでした。
ちなみに、この【暴利】という言葉が、現在も使われている「ぼる」「ぼられる」「ぼったくり」の由来となっております。
※参考 『米価の上昇』
※平均的な月収18~25円の時代 ◇米1石(150㎏:米俵2俵+30㎏)の価格
1918.1月:15円
→ 6月:20円
→ 7月:30円
→ 8/1:35円
→ 8/5:40円
→ 8/9:50円
これだけの価格上昇は異常としか言いようがなく、マスコミ(新聞)も大いに煽っていったため、社会不安はますます高まっていったのです。
③シベリア出兵
第一次世界大戦終盤、ロシア革命が起こります。
この革命へ武力干渉する目的で、連合国側(イギリス・フランス・イタリア・アメリカ・日本)から共同出兵をした出来事をシベリア出兵と言います。
この出兵の情報をいち早く入手した流通業者や商人が戦争特需における物資高騰を狙い、売り惜しみをさらに加速させてしまいます。
出兵に伴う食糧は政府が買い取りをしてくれるので、それを利用して儲けようとしたのです。
米騒動の発生
当時、富山県魚津港では、北海道への輸送船「伊吹丸」が寄港しており、その移送を何とかしようと住民らが米商店などに何度か足を運んでおりましたが、警官に止められていました。
同年7月、ついに住民の怒りは爆発、特に家計を預かる主婦たちが決起し、「越中の女一揆」などと呼ばれますが、米の移出を力づくで止めるべく、騒動が勃発したのです。
この騒動では、当時1升40~50銭だった米を35銭で販売させることができたそうです。
米騒動のその後の影響
(神戸で行われた騒動 焼き払われた鈴木商店本社 出典:Wikipedia)
富山での騒動が新聞などで掲載されると、それをきっかけにして全国各地で暴動が発生していきました。
元々は米の移出の取り止めや安売りを哀願していた騒動は、寄付の要求や打ちこわしにまで発展していきます。
政府は米価引き下げのための資金投入や、暴動鎮圧のための軍隊派遣など対策を講じます。
その結果、同年末までにはある程度騒動も落ち着いていくのですが、一般人の暴動を警官ではなく、軍隊をもって止めるしかなかったということからも暴動の凄さが伺えます。
これら一連の騒動の責任をとる形で、当時の寺内内閣は世論をうけ退陣となります。
寺内内閣の退陣後、初の政党内閣となる原内閣が誕生します。原敬首相は、爵位をもたない「平民宰相」として大いに期待されることになります。
平成の米騒動
(新元号の発表 画像引用元:naver)
近年の出来事になりますが、1993年にも「米騒動」は起こりました。
1918年「大正の米騒動」に対して、「平成の米騒動」とも言われますが、暴動などは起こっていません。簡単に概要を説明しておきます。
①原因
その年の冷夏とやませなどの天候の影響から米の収穫高が著しく低下します。
1000万トンの需要に対して800万トン以下の量だったそうです。
当時はブランド米志向で冷害に弱いけど質が良い品種が多かった点と、減反政策による労農意欲の低下という点も追い打ちをかける形となり、国内流通量が激減したのです。
②政府の対策
政府が緊急輸入による対応をとりますが、日本人の味覚に合わなかった点や、食の安全を求めるがゆえに農薬などを警戒した点などで、輸入米は非常に不評でした。
また、日本の緊急輸入処置により、国際的に米の流通量が減少し米価の高騰をまねき、他国の流通にも混乱を起こしました。
自国の備蓄米を優先して輸出し、援助してくれたタイの米を日本国内で不法投棄してしまうなどあまりに酷い対応が問題にもなったのです。
③その後と影響
翌年の豊作により、事態は解消されていきますが、この騒動により国際的な混乱をまねいたために、今まで固辞していた米の輸入自由化を解禁せざるを得なくなります。
また、国内の米の品種もササニシキなどから、冷害対策でひとめぼれなどの品種が出てきます。
そして、タイ米などを上手に利用して外食産業ではアジアンブームなどもおこりました。
騒動の語呂合わせ
お米の価格は「いくらでもいやよ(1918)で米騒動」と覚えるとよいでしょう。
まとめ
✔ 米騒動とは、1918年に富山から始まり全国に広まった米の安売りを求めた一連の暴動を指す。
✔ 米騒動の背景には、大戦景気による物価上昇等から庶民の生活苦を招いた影響もある。
✔ 一連の騒動の結果、当時の内閣は退陣、初の政党内閣誕生へと繋がる。