鎌倉時代、執権を握っていた北条氏と有力御家人の三浦氏の対立『宝治合戦』が起こりました。

 

北条氏と三浦氏、そして安達氏という当時力を持っていた三つの家の間で起きた合戦でした。

 

今回はそんな『宝治合戦(ほうじがっせん)』についてわかりやすく解説していきます。

 

宝治合戦とは

 

 

宝治合戦とは、1247年(宝治元)7月8日、鎌倉幕府の執権を握っていた北条氏、外戚関係にあった安達氏と有力御家人の三浦氏の間で起きた内乱のことを言います。

 

この合戦により、敗北してしまった三浦氏の一族は滅亡し、鎌倉幕府における北条氏の独裁体制が出来上がりました。

 

また、この宝治合戦について書かれた書物は、鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡』しか現存していません。

 

宝治合戦が起きるまで【背景や原因】

 

 

 

宝治合戦が起きるに至ったのは、鎌倉幕府の実権を握っていた執権職の北条氏と対立する勢力との争いが原因でした。

 

①宮騒動

鎌倉幕府の第3代執権、北条泰時が亡くなると、第4代執権は泰時の孫にあたる北条経時が継ぐことになります。

 

ですが、このとき北条家は大きな一族となって分家が多く分かれており、経時が執権職に就くことを嫌がる人も多くいました。

 

第3代執権の泰時は正室の子ではい家系のため、正室の子の家系である名越家の名越光時は、泰時の家系(得宗)に対抗心を持っていました。

 

一方で、執権を握る北条氏の言いなりになっていた鎌倉幕府 第4代将軍藤原頼経は、大人になって自分で政治を執り行おうという意志を持ちます。

 

(藤原頼経 出典:Wikipedia

 

 

頼経が反執権の考えを持つ勢力と組もうとしていたことを知って、経時は頼経に将軍を辞めさせました。

 

しかし、頼経は将軍を辞めさせられたあとも鎌倉に留まり、幕府内で力を持ち続けていました。

 

そして、第4代執権を握っていた北条経時は病のため、弟の北条時頼に執権職を譲ったあと、死去してしまいます。

 

(北条時頼 出典:Wikipedia)

 

 

経時の死を「チャンスだ!」と思った名越光時は、同じ反執権派の頼経らと協力して、時頼を倒そうします。

 

しかし、時頼はすぐさまその動きを察知し、先手を打たれた光時・頼経らは敗れてしまいました。この騒動を「宮騒動」といいます。

 

頼経派の御家人は処分されましたが、有力御家人の三浦氏は特にそのような動きはなかったので、処分は免れました。

 

当主の三浦泰村は北条氏に対して敵対心はありませんでしたが、弟の三浦光村は反北条派だったため、騒動を起こした頼経が京都へ送り返されたとき、頼経に涙ながら「いつか必ず、再び鎌倉へお迎えいたします」と語ったとされています。

 

そして、このときの様子は北条時頼に報告されてしまったといいます。

 

②不吉な前兆

頼経派の弟、三浦光村のせいで「三浦氏は北条氏を滅ぼそうとしているんじゃないか?」という噂が広まってしまいます。

 

しかし、当主の三浦泰村は北条氏との和睦に努めました。

 

北条時頼も泰村の姿勢を信じ、平和に問題を収めようとしていたのです。

 

しかし、1247年(宝治元)になると、

✓ 羽蟻が鎌倉を埋め尽くしたり…

✓ 北条時盛の屋敷の上空を光る物体が飛行したり…

✓ 由比ヶ浜の潮が赤く血のように染まったり(赤潮だったとされている)…

✓ 黄色の蝶が飛び回ったり…

✓ 津軽の海辺に人間の死体のような魚が漂着したり…

と様々な不吉の前兆が起こったとされています。

 

この現象により、人々は「三浦氏と北条氏の戦いが今にも始まるのでは?」と考え、そういった噂が流れたといいます。

 

③安達氏の暗躍

不吉な噂が流れる中、北条時頼と三浦泰村は泰村の息子を時頼の養子にする約束をとりつけ、和談を成立させていました。

 

そんなとき、出家して高野山にいた安達景盛が25年ぶりに鎌倉へ戻ってきます。

 

そして景盛は外孫にあたる時頼に三浦氏を討つよう説得したり、息子の安達義景や孫の安達泰盛に「お前たちがしっかりしないから三浦に好き勝手されるのだ!」と叱ったりしました。

 

ある日、鎌倉にある鶴岡八幡宮に「三浦泰村は将軍家に背いて好き勝手なことを繰り返しているので、近いうちに討伐されるだろう」という札が立てられます。

 

また、泰村の家の前に「最近不吉なことが続いているのは三浦泰村が討たれるからだ」という内容の落書きされてしまいます。

 

これらは和談を成立した三浦氏をよく思わない安達氏の仕業ではないかといわれています。

 

不穏な噂や空気が流れるなか、時頼は最後まで泰村に和談を持ちかけ、泰村もそれに応じました。

 

泰村はこのとき心労で、食事が喉を通らなかったといいます。

 

宝治合戦の始まりと経過

 

 

平和に事を収めようと努力した北条時頼と三浦泰村でしたが、安達景盛率いる安達氏の奇襲がきっかけで、宝治合戦は起きてしまいます。

 

①安達氏の奇襲

北条時頼と三浦泰村の努力で事態が収束していくのを良く思わなかった安達景盛は、一族に三浦氏への攻撃を命じます。

 

武装した安達氏の軍は泰村の屋敷に奇襲を仕掛けます。

 

突然の奇襲に驚いた泰村でしたが、この奇襲は時頼によるものだと判断すると、すぐに攻撃を迎え撃つ準備を整えます。

 

こうして合戦が始まると、安達氏と三浦氏それぞれに味方する御家人が鎌倉に集結し、鎌倉は大混乱に陥ります。

 

合戦が始まってしまっては、せっかく結んだ和談も意味はありません。時頼は仕方なく、弟の北条時定に泰村を討つよう命じました。

 

②三浦氏の最期

1247年(宝治元)7月8日、泰村の屋敷への攻撃は明け方に始められましたが、昼を過ぎると風向きが変わり屋敷に火が放たれました。

 

泰村は他の一族と一緒に鎌倉幕府初代将軍『源頼朝』が眠る法華堂(頼朝のお墓)に向かいました。そこに弟の光村も合流し、法華堂には500人余りの将軍派の御家人が集まりました。

 

弟の光村は自害しか選択肢が残されていない状況を悔やみながら、太刀で自分の顔を削って「この顔は私とわかるか?」と兄の泰村に尋ねたといいます。

 

泰村は「お前の血で亡き頼朝公の墓前が汚れてしまうからやめなさい」と光村を諌めました。血気盛んだった弟の光村に対して、兄の泰村は最期まで穏便な姿勢でした。

 

そして泰村は「長年北条氏の外戚として補佐をしてきたのに、自分たちを陥れる噂によって罪人として攻め滅ぼされる恥を与えられて、恨みと悲しみが深い。しかし、父の義村は多くの他の一族を滅ぼしたのでこれはその報いだろう。もうすでに冥土へいく身なので今更北条氏に恨みはない」と涙しました。

 

その後、泰村と光村は法華堂に集まった三浦一族たち500人余りとともに自害しました。

 

また、妹婿だった千葉氏も戦いに敗れ、同じく一族で自害しました。

 

宝治合戦のその後

 

 

壮絶な最期を経た三浦氏と、戦いに勝利した北条氏はその後どうなったのでしょうか。

 

①三浦氏の滅亡

三浦泰村の妻は夫から合戦前に受け取った北条時頼からの和談に関する書状を失くさないように大切に持っていましたが、鎌倉から退去するよう命じられるとそれを北条氏に返却しました。

 

三浦氏は、初代将軍の源頼朝の代から支えていた有力御家人でした。

 

頼朝とその後の幕府を支え続けた一族でしたが、結局この宝治合戦で滅亡に追い込まれました。

 

②北条氏の独裁

鎌倉幕府が創り上げられたときからの有力御家人、三浦氏の滅亡によって、将軍派の勢力はいなくなります。

 

今まで話し合いを設けて執権政治を執り行っていましたが、北条得宗家が政治の権力を独占し、執権職をもつ北条氏の独裁体制が確かなものとなりました。

 

まとめ

・1247年(宝治元)、鎌倉幕府の執権職北条氏・外戚関係の安達氏と有力御家人の三浦氏の間で起きた内乱を「宝治合戦」という。

・北条氏分家の名越光時と前将軍藤原頼経が、執権の北条時頼から地位を奪おうとした騒動を「宮騒動」という。

・宮騒動に関わった三浦氏と北条氏が和談を結んだことに、安達氏はよく思っていなかった。

・安達氏が奇襲を仕掛けたのをきっかけに、宝治合戦は開幕した。

・三浦氏は源頼朝の法華堂の前で一族と一緒に自害した。

・宝治合戦で鎌倉幕府初期から将軍家に仕えていた三浦氏は滅亡した。

・三浦氏が滅亡したことで、北条氏の独裁体制が確立した。

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