国の体制って世界ではいろんな種類があり、ややこしいと思うことがしばしばあります。

 

今回ご紹介する中央集権国家もそんな国の体制の代表的なものの一つであり、日本もかつてこの中央集権国家だったこともあったのです。

 

今回はそんな『中央集権国家』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

中央集権国家とは?

 

中央集権国家とは、国の全ての政治を中央省庁が丸ごと管轄する政治体制のことです。

 

ちなみに、今ではフランスがこの中央集権国家の代表例として知られており、その姿は『セーヌ川の右側にフランスの権力が集まっている』と揶揄されているんだとか。

 

ちなみに、日本では公地公民制の時代や明治時代から敗戦までがこの体制でした。

 

中央集権国家のメリットとデメリット

①中央集権国家のメリット

中央集権国家のメリットと言えばなんといっても国全体に何が起こっているのかが直ぐに把握することが可能となり、スピーディーに決定する事が出来る事だも思います

 

さらに、トラブルが起こった時も誰に責任があるのかが明確に出るため対処がしやすいのです。

 

また、国のトップである大統領や首相とかがとんでもなく有能な人であればその人が治める国は一気に発展するという効果もあり、トルコやシンガポールなどがその代表的な例として知られています。

 

②中央集権国家のデメリット

これだけみると「中央集権国家は素晴らしい!」と思うかもしれませんが、何事にもメリットがあればデメリットが確実にあります。

 

確かに、中央集権国家は決断が早くでに、責任が明確に出ますが、その一方で中央省庁が置かれている首都と置かれていない地方の対応の差か明確に浮き彫りとなってしまいます。

 

残念なことに政治家の人には思いやりのない人が沢山いるそうで、「地方のこと?自分で解決しろ」と突き放すこともしばしば。

 

そのため地方の意見が聞き取られにくく、上だけで勝手に政治が動いてしまうという決定的なデメリットがあるのです。

 

また、中央集権国家は有能な人が国のトップになったら国は大きく発展すると書きましたが、そのかわり、その人がとんでもなく無能であればその国は一気に最悪な独裁政治となり挙げ句の果てには国自体が崩壊します。

 

ジンバブエなどがこれに当たりますね。

 

このように、中央集権国家はメリットは多くあるものの、首都と地方の格差や独裁になりやすいなどのデメリットも数多くあったのでした。

 

日本における中央集権国家

①大化の改新と日本における中央集権国家の芽生え

日本における最初の中央集権国家のケースは大化の改新から墾田永年私財法が制定されるまで日本で行われていた公地公民制の頃の朝廷です。

 

 

もともと日本では、朝廷という国をまとめる組織はいたものの、物部氏や蘇我氏などに代表される豪族たちが地域を支配したり、さらに蘇我氏が勢力を伸ばすと朝廷を脅かすほどの権力を持ったりしていました。

 

それに危機感を抱いていた中大兄皇子(後の天智天皇)は仲間である中臣鎌足と共謀して蘇我入鹿を殺害(乙巳の変)

 

 

これ以降朝廷では中大兄皇子を主導とした大化の改新が行われ始めたのでした。

 

②公地公民の時代

こうして大化の改新が行われ始められた日本でしたが、日本が新羅・唐連合軍に負けた白村江の戦いや中大兄皇子の死後に起こった壬申の乱に勝利した大海人皇子が天武天皇として即位すると、一気に日本は律令制と呼ばれる地方の行政地区を作成し始め、朝廷中心の国家を建設していきます。

 

さらに、天武天皇は国民の数をきっちりと把握するために日本初の戸籍である庚午年籍を作成。全ての土地と国民を天皇のものにする公地公民がこうして誕生したのです。

 

そして、さらに701年に大宝律令が制定されるとついに日本は中央集権国家として成立したのでした。

 

 

③中央集権国家の崩壊

しかし、この奈良時代における中央集権的な政治は長くは続きませんでした。

 

743年、大宝律令が制定されてから42年後のこと。この当時日本では重税から逃れるために天皇から与えられた口分田から逃亡するという事態が後を絶ちませんでした。

 

そこで朝廷は土地を開墾したらその土地の所有を認めるという墾田永年私財法を制定。この法律を制定する事で税収をさらに増やそうとしたのです。

 

 

しかし、これが原因となり日本では権力があった貴族や大寺院の僧侶たちがこぞって土地を開墾して自分の領地にする荘園が誕生。公地公民制が崩壊して朝廷の権力が弱まってしまいます。

 

 

さらに平安時代に入るとその荘園が地方にも広まっていき、もはや朝廷の権力が届かなくなってしまう事も起き始め、律令制自体も崩壊してしまいます。

 

こうして大化の改新から始まって大宝律令の制定によって完成された日本における中央集権は終焉を迎えたのでした。

 

④明治時代における廃藩置県

日本における中央集権が崩壊してからの日本は武士が政治を指揮していき、幕府が御家人の武士に対して領地を与え統治を任せて、そのかわり幕府の下で働き忠誠を誓うという御恩と奉公と呼ばれる地方分権的な考えが誕生しました。

 

そしてさらに時が流れて江戸時代に入ると幕藩体制と呼ばれる幕府が大名を統治しているものの、大名が治めている藩では幕府の指示を受けずに独自の政治を行うという地方分権のモデルケースとも呼べる政治体制となっていきます。

 

しかし、明治時代に入るとこの幕藩体制という地方分権の考え方は邪魔でしか無くなってしまいます。

 

そこで明治政府は明治4年に廃藩置県と呼ばれる藩を廃止して、そのかわり新政府から送られた県令と呼ばれる人が地方を治めるという形に変更されます。

 

 

ちなみに、この時の県令と呼ばれる人は中央省庁から命令を受けて地方の運営をしている立場であり、今のような県の権利は全くありませんでした。

 

つまり、明治政府はこの廃藩置県によってこれまで地方分権だった日本の政治システムを一気に中央集権国家に変えたのです。

 

そしてその体制は戦後まで変わることはなく、戦後に突入するとある程度の権利を地方に譲るという形となり今に至っています。

 

中央集権国家の対義語「地方分権について」

 

 

中央集権国家と反対の政治体制として上にもちょこちょこ出ていましたが、地方分権というものがあります。

 

地方分権というのは簡単に言うと政治の権力を中央省庁だけではなく、地方の自治団体にも与えることで地方の政治を良くするという考え方のことを言います。

 

代表的な例といえばアメリカ合衆国

 

アメリカ合衆国の場合だと一応中央省庁はワシントンにあるものの、アメリカの州ごとに法律があり、さらには税も違うし、さらには州によって軍隊も異なるというまさに国が合衆しているようなシステムとなっています。

 

そして日本においては鎌倉時代における御恩と奉公の関係や江戸時代における幕藩体制がこれに当たりますね。

 

まとめ

 中央集権国家とは政治の権限を中央省庁にまとめる政治体制のこと。

 中央集権国家は物事がスピーディーに決まったり、政治の責任が明確に現れるというメリットがあるものの、一方で地方との格差や上だけで政治が行われるというデメリットもあった。

 中央集権国家の反対語は地方分権。

 日本の場合だと大化の改新から墾田永年私財法が制定されるまでと、廃藩置県から戦後までがこれに当たる。

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