八色の姓は古代の天武天皇の時代に作られた制度です。
しかしどういう理由で作られたのか理解しにくく、「冠位十二階」などと混同することも多いのではないかと思います。
そこで今回は、『八色の姓(やくさのかばね)』についてわかりやく解説していきます。
目次
八色の姓とは?
(天武天皇 出典:Wikipedia)
八色の姓とは、684年に天武天皇が再編した「姓(かばね)」の制度のことです。
従来あった「姓」を統合して、真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の8級を新たに設けました。
これによって、家柄の上下をはっきりと区分したわけです。
八色の姓を制定した背景・目的
①「氏」と「姓(かばね)」の違い
「姓(せい)」というと、現代の私たちは「鈴木さん」とか「田中さん」とかいう姓を思い浮かべますよね。
でも、これは古代の姓(かばね)とは違います。大和の王権が勢力を伸ばしていく中で、豪族たちは「氏(うじ)」を名乗りました。
氏というのは一族の名をあらわすもので、「蘇我氏」「物部氏」「大伴氏」などというのがその一例です。
ちなみに、氏の後ろには「の」をつけるのが決まりです。例えば「大伴家持」は「おおとも“の”やかもち」と読みます。
②「姓」は古代の豪族の称号
これに対して、「姓(かばね)」は大王(天皇)から一族に与えられた称号でした。
例をあげると、蘇我氏などには「臣(おみ)」、物部氏や中臣氏などには「連(むらじ)」といった姓が与えられています。
臣は大王の子孫を意味していて、連は神々の子孫を意味すると言われ、そのトップである大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)が政治のリーダーとなりました。
この「姓」と「氏」の二つを合わせて「氏姓制度」と言います。
③氏姓制度の再編成
674年に壬申の乱(じんしんのらん)で権力を握った天武天皇は、強力なリーダーシップで新しい国の制度作りを進めていきます。
ちなみに、「天皇」の称号を初めて名乗ったのも天武天皇だと言われていますし、「日本」という国号を採用したのもこのころだという説が有力です(それまでは「大王」、「倭」でした)。
天皇を中心とした中央集権国家を建設する中で、姓の再編成が行われました。それが「八色の姓」の制定だったのです。
天武天皇は従来の姓の秩序を廃止して、自分の望み通りに身分の秩序を作ろうとしました。
これまでとは違う新しい国家を作るために、自分と近い血筋の者や功績があった者に高い地位を与えようという狙いがあったわけです。
八色の姓の内容
①8つの姓の新設
最初にも書いたように、真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の8つの姓が作られました。
中でも、真人は天皇の一族にだけ与えられ、最高位と位置付けられています。このことからも天武天皇が自分の親族を中心とした政治(皇親政治)を進めようとしていたことがうかがえます。
二番目に高いのが朝臣でした。これは壬申の乱で特に功績があり、主に古い時代(景行天皇以前)の天皇の血筋にあると称する一族に与えられました。従来の臣の中でも有力な者に与えられたようです。また、宿禰は従来の連の中の有力者に与えられました。
なお、八色の姓は豪族に与えられたもので、庶民には与えられません。
ただ、天武の前の天智天皇の時代に庚午年籍(こうごねんじやく)とよばれる戸籍が作られると、一般庶民にも「姓(せい)」が与えられるようになります。
②八色の姓の実際の運用
ところが、8つの姓を作ったものの、実際に新たに与えられたのは「真人・朝臣・宿禰・忌寸」の4つだけでした。
「臣、連」はもともと臣、連だったものの新姓を与えられなかった氏に引き続き与えられたものです。つまり、天武天皇との関係が遠い旧勢力の豪族が格下げされたものだと言えるでしょう。
また、「道師、稲置」は実際には授与されず、どういった意味があったのかはわかっていません。
全ての豪族がこの8つに位置付けられたのかというと、必ずしもそうではなく、「伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)」といった姓も残されていました。
③「冠位十二階」との違い
さて、ここで似たような制度に見える「冠位十二階」と「八色の姓」の違いについて見ていきましょう。
冠位十二階というのは603年に厩戸王(聖徳太子)が作ったとされる制度でしたね。
これは朝廷に仕える官僚を12の位に分けて、それぞれ色の違う冠を与えるという制度です。
つまり、冠位十二階は個人に与えられる位だったんです。現代でいえば、「係長」とか「課長」みたいなものですね。
一方、八色の姓は氏に与えられたもの。家柄を示すものでした。
八色の姓の制度が作られた頃には、冠位十二階をさらに細かく分けた「冠位二十六階」という制度が導入されていました。
八色の姓というのは「冠位」と並行して存在した制度だったんです。
八色の姓のその後
①「朝臣」だけが使われるように
その後、奈良・平安時代になると朝臣の権威が高まり、「臣下」になった天皇の一族まで与えられる最上位の姓になりました。
それどころか、ほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになり、それ以外の姓は特別な一族以外は使わなくなっていきます。
さらに武士の時代になると、有力な貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣の一族がほとんどを占めるようになり、姓はただ昔から続いているだけの形式的なものになってしまいました。
ただ、公文書に名前を書く時に「朝臣」とつける習慣は江戸時代まで残りました。
②苗字の使用が一般的に
鎌倉時代以降になると、氏はほとんど「源平藤橘(源・平・藤原・橘)」だけになっていきます
。そうなると、どこを見ても「源さん」や「平さん」ばっかりになりますから、一族を識別する新たな名称が必要になってくるわけです。
そこで「家(いえ)」を表すためにつけられるようになったのが「苗字」です。これは現在の私たちの苗字と同じものと考えてよいでしょう。古くからの血筋を表す姓とは別に、ファミリーネームとしての苗字をつけるようになったのです。
「苗字」と「姓」は現在では同じ意味で使われていますが、本来は別のものなんですね。
例えば、徳川家康の「徳川」は苗字です。徳川家は源氏の血筋と称していましたから、これとは別に「源朝臣」という姓があって、公文書では「源朝臣家康」と記されています。
このように苗字とは違う本来の姓のことを、「本姓(ほんせい)」とも言います。
なお、「本姓」では「みなもと“の”よりとも」のように“の”が入りましたが、苗字には入りません。
中学生ぐらいの頃に教科書を読んでいて、「なぜ源頼朝は“みなもとのよりとも”というのに、足利尊氏は“あしかがたかうじ”なんだろう」という疑問を持った人もいるかもしれませんが、「足利」は苗字なので“の”は入らないんですね。
まとめ
✔ 八色の姓とは、684年に天武天皇が再編した「姓(かばね)」の制度のこと。
✔ 真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置の8つの姓が豪族に与えられた。
✔ 天武天皇が中央集権体制を確立するために、新たな身分秩序を導入するのが目的だった。
✔ のちに朝臣が最上位になり、真人などは使われなくなった。
✔ 平安時代以降は形骸化するが、江戸時代まで形式的に「朝臣」などの称号は残った。