近年、日本でもようやくデモ活動というものが周知されるようになりました。テレビを見ていると、香港のような大規模なデモについて、デモ参加者と警察官との衝突がニュースでも報道されていますよね。

 

日本では、こんなデモ活動や抗議活動はない!と思ってしまいがちですが、実は1900年代初頭には日本、しかも東京ですさまじい抗議運動が起こっていました。それが、「日比谷焼き討ち事件」と呼ばれる事件です。

 

歴史の教科書でも取り上げられるほどの出来事ですので、かなりの大規模事件であることに間違いはありません。ですが、「焼き討ち」なんていうとんでもないワードが入っているに驚きます。

 

日比谷焼き討ち事件とは、いったいどんな事件で、何がきっかけだったのでしょうか?

 

今回は、日比谷焼き討ち事件について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

日比谷焼き討ち事件とは

Hibiya Incendiary Incident2.JPG

焼き打ちに遭った施設 出典:Wikipedia

 

日比谷焼き討ち事件とは、19059月(明治38年)に東京で起こった大規模な暴動です。

 

日本は自国を守るために大国ロシアとの戦争をしたものの、日露戦争で勝利を収めた日本。アメリカの仲裁によって、アメリカのポーツマスという場所で講和条約を結びました。これが、ポーツマス条約です。

 

当時、軍事費ねん出に伴う増税で生活にあえいでいた日本国民は、ラジオで日本の勝利を知るとロシアからの賠償金を期待していました。

 

しかし、ここでロシアは賠償金の支払いを拒否!さらに日本はそれを受諾したのです!

 

これに怒り心頭の日本国民は全国各地で集会を開きますが、その中にあったのが日比谷公園での国民集会でした。

 

日比谷の国民集会を受け、警察は公園を封鎖します。これがきっかけで、国民集会の参加者が暴徒化してしまい、警察たちに襲い掛かります。

 

その被害はこの集会だけでなく、新聞社や警察署にまで発展、さらには大臣官邸も襲撃されています。

 

日比谷焼き討ち事件が起こった背景

(1904年 進軍中の日本軍歩兵 出典:Wikipedia)

①ことのきっかけは日露戦争

日比谷焼き討ち事件が起きた1905年といえば、アヘン戦争や日清戦争で敗戦を喫していた清国(現在の中国)の弱体化に漬け込んだロシアと、ロシアの侵略の可能性に待った!の先手を打った日本との間で起きた、日露戦争の後です。

 

日露戦争では、日本側が有利に進みました。

 

戦艦マニアの方はよくご存じだと思いますが、あのロシアのバルチック艦隊を東郷平八郎率いる日本連合艦隊が撃破したのも、この日露戦争です。

 

そして、バルチック艦隊撃破により、日本の優勢が決定づけられました。

 

 

②アメリカの仲裁によるポーツマス条約締結!しかし…

こうして、まさかの日本が大勝利を収めた日露戦争。

 

ロシアもまだまだ戦えるような状態ではあったものの、日本とロシアの仲裁にアメリカが入ってきたのです。

 

この仲裁がきっかけで、日本とロシアの代表がアメリカのポーツマスというところに集い、講和条約に調印をします。これが、ポーツマス条約です。

 

 

しかし、このポーツマス条約には、落とし穴がありました。なんと、ロシアは極東地域から手を引き、日本に一部を与えること、そして日本はその一部にだけ権益を求めるという内容でした。

 

さらに、敗戦の賠償金の支払いをロシアが拒否し、それを日本が仕方なく受諾します。

 

ここで、誰が怒ったかというと、日本国民です。

 

日比谷焼き討ち事件の詳細

(決起集会の様子 出典:Wikipedia)

 

日本国民は、日露戦争の勝利をニュースで知り、とても喜びます。

 

それもそのはず当時は戦争のための軍事費による増税が一般国民を苦しめていました。

 

さらに、実際に戦地へ家族を送り出さねばならなかった一般家庭の不満も高まっていました。

 

大国ロシアが勝利した日本に対して賠償金が支払われるようになれば、もちろん増税もなくなるでしょうし、兵を出した家庭にも支援があったことでしょう。

 

しかし、日本国民の思いむなしく、日本はロシアの賠償金支払い拒否を受け入れたのでした。

 

海の向こうアメリカで、ポーツマスで講和条約が結ばれているその頃、講和条約反対の集会が日本各地で行われていました。

 

その中でも、大規模になったのが東京・日比谷公園での大集会でした。

 

①最初は穏やかな集会だった!どうして暴徒化したのか?

この日比谷の大集会、当初はかなり穏やかなもので、反対派の署名を募って政府に提出しようというものでした。

 

しかし、警察たちがこの大集会を取り締まろうと公園封鎖に動き始めた途端、事態は急展開を見せます。

 

警察たちは、大集会に参加する民衆たちをなだめるつもりでいましたが、逆に日本国民の心に火をつけてしまったのです。

 

これにより、日比谷の大集会に参加していた人々が暴徒と化し、警察隊に襲い掛かったのでした。これが日比谷焼き討ち事件です。

 

②日比谷焼き討ち事件勃発!あちこちが襲われる

公園を封鎖し、集会を解散させようと国民集会の参加者をなだめた警察隊の行動が裏目に出てしまい、これをきっかけに、実に数万人の参加者が暴徒化しました。

 

その被害はすさまじく、警察署だけでなく、交番、電車、政治に好意的な記事を書いていた国民新聞社、さらに首相官邸までを襲い、火をつけるなどといった大騒ぎになりました。

 

さらには仲裁に入ったアメリカにも暴徒の攻撃は広がりを見せます。

 

なんと、アメリカ大使館やアメリカの牧師がいる教会まで襲われるのです。

 

こんなことがあったら、いつ何時アメリカとの全面戦争が起きかねませんよね。起きなかったことが不思議なくらいです。

 

日比谷焼き討ち事件のその後

Hibiya Park summer.jpg

(現在の日比谷公園 出典:Wikipedia

 

日比谷焼き討ち事件が起き、もはや無政府状態になってしまった東京では、戒厳令(かいげんれい)が出されます。

 

戒厳令とは、非常事態が起きた際に一時的に軍隊がその場を統治する天皇大権のことです。

 

 

日比谷焼き討ち事件での戒厳令は、軍隊が出動し、この暴動を鎮圧させました。

 

日比谷焼き討ち事件は、死者17名、負傷者500名以上、検挙者2000名以上となり、歴史にも残る大事件となりました。

 

まとめ

まとめ

 

 日比谷焼き討ち事件は1905年に起きた、ポーツマス条約に反対する国民集会が発端の暴動事件のこと。

 

 もともとは日露戦争に勝利した日本に対して、賠償金を支払うことを拒否したロシアの意見を受諾してしまったことに対して、日本国民の不満が募ったため起きる。

 

 当時の日本は、戦争による軍事費のための増税も行われており、家族を戦地に送り出した家族もいたことで、賠償金の未支払い受諾は国民の怒りを増幅させる。

 

 ポーツマス条約に反対する集会が全国各地で行われ、その中でも日比谷の集会は大規模だった。

 

 警察が日比谷公園を封鎖し、集会に参加する人をなだめたことから、怒りを爆発させた参加者が暴徒化、警察署や官邸、新聞社、さらにはアメリカ大使館や教会までも火をつけ、襲った。

 

 日本で珍しく戒厳令が敷かれ、軍隊が暴動を鎮圧することになったことで、歴史に残る大事件となった。

 

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