【五日市憲法とは】わかりやすく解説!!草案の内容や作った人・大日本帝国憲法との比較など

 

1968(昭和43)東京都西多摩郡五日市町(現あひる野市)の深沢家旧土蔵にて、憲法の草案が発見されます。

 

この草案を五日市憲法(いつかいちけんぽう)と呼びます。

 

今回は、この五日市憲法が作られた背景や作った人・内容・大日本帝国憲法との比較について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

五日市憲法とは?

(東京都西多摩郡五日市町の位置 出典:Wikipedia

 

 

五日市憲法とは、国会開設運動が高まる1881年(明治14年)に東京都の五日市町(現あきる野市)で作成された憲法の私案です。

 

当時は日の目を浴びる事はありませんでしたが、人権意識の成熟度等が当時作られたものとしては画期的な内容であり反響を呼びました。

 

五日市憲法が作られた背景

①自由民権運動の高まり

1874年、板垣退助は民撰議院設立建白書を提出し、国会の開設を提案。

 

 

自由民権運動は愛国社を中心に全国的な盛り上がりを見せますが、西南戦争により一時下火になります。

 

西南戦争後に愛国社は復活。戦争前、自由民権運動は主に不平士族によるものでしたが、戦後は農村部にも運動は広がります。

 

愛国社18803月の四回目の大会で、第一回国会期成同盟に発展します。

 

 

第一回国会期成同盟会では87千もの署名が集まり、国会開設請願書を政府に提出するも政府は拒否。同盟会では国会を開設し、話し合いで憲法を作成する事が提案されています。

 

11月に開かれた第2回大会では、署名は13万に達成。憲法を独自研究し、国会で話し合う為の憲法草案を各結社で作成する事が決定します。

 

次回の第三回の大会で憲法を持ち寄る事になったのです。

 

その後、全国の各地で憲法の草案が作られる事になります。

 

民間の結社や個人が作った憲法草案を私擬憲法と呼びます

 

現在では60程発見されています。有名なのは植木枝盛が作成した東洋大日本国国憲案。こちらは最も民主的、急進的な内容であり、抵抗権や議会に強大な権限がありました。

 

五日市町での憲法草案作成

東京都五日市町では国会開設の結社として五日市学芸講談会五日市学術討論会が発足。第2回国会期成同盟大会後に憲法の草案を作成します。

 

この時に中心人物になったのは千葉卓三郎です。

 

 

(千葉卓三郎 出典:Wikipedia)

 

③千葉卓三郎の生い立ち

千葉卓三郎は1852年に仙台藩の下級藩士の元に生まれ、1868年に戊辰戦争に参加し敗戦。その後様々な学問を学びます。

 

宗教に傾倒し、皇学、浄土真宗、ギリシャ正教に触れます。

 

17歳の時に洗礼を受けますが、自宅の伊勢神宮の玉串と先祖の位牌を投げ捨てた事が不敬罪となり100日間刑務所に入ります。

 

この体験が五日市憲法の自由平等主義に繋がります。

 

その後は故郷を離れ、1875~77年頃から秋川谷付近を教員として転々とし、1880年に五日市勧能学校に努めます。

 

経緯は不明ですが、校長が同郷という事もあったようです。

 

西多摩郡五日市町は江戸幕府の天領地であり、会津藩士や仙台藩士等、賊軍となった人達が流れ着きやすい場所でした。

 

この環境が自由民権運動を促進させました。

 

④深沢権八との出会い

五日市町には秋川という河川があります。伐採された材木を生業にしていた裕福な地主がおり、その中の1人が深沢権八です。

 

深沢権八は五日市学芸講談会の幹部であり、自由民権運動の指導者的立場でした。

 

彼の家にはルソーの民約論等の書物があり、流れ着いた人達はこれらの思想に感化されていきます。

 

卓三郎と権八が出会ったのは187577年頃とされており、権八は卓三郎の教養に感銘を受け、支援者となります。権八が卓三郎を五日市学芸講談会に招きます。その後、国会開設の声が上がる中で、私擬憲法を作成する事になったのです。

 

五日市憲法の内容

①大まかな特徴

五日市憲法の大まかな特徴は以下の通りです。

 

・国民の権利に重点を置いている

・大日本帝国憲法同様に天皇に強大な権限がある 

 

ちなみに五日市憲法の表題は日本帝国憲法と付けられていました。

 

この事から、五日市家遠方を日本帝国憲法と呼ぶ事もあります。

 

国会期成同盟は国約憲法論という、国民が会議(国会)の場で憲法を作り、君主(日本の場合天皇)にその内容を認めてもらう事で、国民と君主の間で約束を取り決め合うという考えで憲法を作るつもりでした。

 

つまり主権は国民にあるという事ですね。

 

②大日本帝国憲法との比較

・国民の権利に重点を置いている

大日本帝国憲法は天皇によって制定された「欽定憲法」であり、国民は臣民(天皇に仕える者)と呼ばれます。

 

臣民は法律の範囲内で権利を保証されていました。新たな法律が出来ると権利は徐々に狭められていく危険がありました。

 

五日市憲法は、人間は生まれながらにして自由で平等。後から人間(権力)が法をつくって差別・抑圧しようとしても侵す事は出来ないという方針です。

 

その為臣民ではなく国民という言葉が使われています。

 

五日市憲法は全204条からなり、その中の150条は基本的人権に触れています。

 

条文45では自由権の規定がなされており、平等の権利、出版・表現の自由、信教の自由、結社・集会の自由などが条文として続きます。

 

他にも国事犯(政治犯)に死刑は宣告されない権利、教育権、義務教育、自治権の絶対的不可侵規定等が盛り込まれており、当時としては画期的な内容です。

 

日本国憲法に通じる部分が幾つもあります。

 

・大日本帝国憲法同様に天皇に強大な権限がある

五日市憲法も大日本帝国憲法同様に主権は天皇にあると明記されています。

 

条文86では国会の天皇に対する優越が明確に記されています。

 

他にも天皇は刑事裁判をやり直す権利、軍隊に関する統帥権、外国に対する外交権等を持ちます。強大な権限は大日本帝国憲法に通じる部分があります。

 

天皇が司法の独立に介入可能であり、国民の権利保障について矛盾が生じています。天皇の権限の部分は他の私擬憲法に酷似した部分もあり、矛盾に気付かなかった可能性もありますが…。

 

国会についても五日市憲法に記載されており、民選議員と元老院の2つから成り立つようです。元老院は天皇が選び、定年はないとの事でした。

 

手厚い人権保障と、天皇への強大な権限と幾つかの矛盾から五日市憲法は「進んだ人権保障、遅れた政治機構」と評される事があります。

 

とは言え、現在にも通じる基本的人権への考え方が明記されており、五日市憲法は非常に画期的な内容であった事は明らかです。

 

五日市憲法のその後

①国会期成同盟の終焉と卓三郎の死

卓三郎達は五日市憲法を188110月初旬に第三回国会期成同盟の大会に持ち寄るつもりでした。

 

しかし、政府は「公立学校の教職員を役人と同等の扱いにする」と通達を出します。

 

これは教員が政治活動を出来なくする為のものであり、卓三郎は憲法を作成する為に教員職を辞退します。

 

その後18811012日に国会開設の詔が政府から出されます。この詔は政府が天皇陛下の名のもとに欽定憲法を作る事を意味しています。

 

 

その為、直前に開催予定だった第三回国会期成同盟は混乱。全国各地で作られた私擬憲法は議論の対象になる事なく、歴史の中から姿を消します。

 

その後、卓三郎は結核を患います。

 

そんな卓三郎の元に権八から「五日市勧能学校の校長になって欲しい」と手紙が届きます。

 

卓三郎は五日市に戻り、結核と戦いながら校長の仕事を行いますが、明治18年に亡くなります。

 

②五日市憲法の再発見

その後1889年に大日本帝国憲法が公布。

 

 

全国で作られた私擬憲法は最後まで議論の対象にもなりませんでした。

 

月日が流れ、1968年に五日市町(現あひる野市)の深沢家旧土蔵にて、五日市憲法が発見されます。

 

この憲法がどのように扱われ、どのような経緯で藤沢家の土蔵にあったのかは不明です。

 

しかしこの憲法は人権意識の成熟度等が当時作られたものとしては画期的な内容だった為、反響を呼ぶ事になります。

 

五日市憲法は東京都の有形文化財(古文書)に、深沢家屋敷跡(土蔵などが残る)は史跡に指定される事になったのです。

 

まとめ

 自由民権運動が高まる中、全国で多くの私擬憲法が作成された。

 五日市憲法は千葉卓三郎が作成。基本的人権に触れており、当時としては画期的な内容だった。

 一方で天皇に強大な権限があり、政治機構には未熟な部分もあった。

 国会開設の詔が出され、政府が欽定憲法を作成する事になり、私擬憲法は議論の対象になる事はなかった。