奈良時代と言えば、大化の改新からの律令政治が確立し、天皇中心の本格的な政治が始まった奈良時代。

 

文化面でも仏教色が強く、貴族を中心とした文化が広まってくる時代となります。

 

また、登場する主要な人物も多く、勉強する身としてはとても覚えづらい時代でもあります。

 

今回は、そんな『奈良時代』について、出来事から関係人物、生活面まで、網羅的にわかりやすく解説していきます。

 

奈良時代とは?

(平城京跡 出典:Wikipedia

 

 

奈良時代は、平城京に首都が決まった710年から、平安京に遷都するまでの794年の間の84年間を指します。

 

この時代は、中国・唐時代の制度を模した大宝律令により定められた、天皇中心の明確な秩序を築いた時代ともいえます。

 

大宝律令とは?律令制度についてわかりやすく

大宝律令とは、先ほどの通り、天皇を中心にした政治を明確にした制度のことを言います。

 

この法律は、律令制度と呼ばれています。詳しく見ていくと、

 

  • 律・・・刑罰に関する決まりごと
  • 令・・・政治に関する決まりごと

     

    つまり大宝律令は、政治と刑罰に関する決まりごとを、制度によってしっかり明確に定めた、日本初の政治制度なのです。

     

    この律令制度のスタートに伴い、天皇が政治の中心となりました。

     

    このため、地方に住む有力な豪族だったとしても、大宝律令を守らないといけなくなるのです。

     

    しかしその影では貴族の権力争いから、庶民の間で飢餓が流行るなど、国内も荒れ放題だったため、天皇が仏教の力を使って国を治めようと考えた時代でもあるのです。

     

    奈良時代の文化!!服装や食事などの生活【朝廷編】

     

    では、最後に奈良時代の生活模様について簡単にお話していきましょう。

     

    奈良時代の生活模様は、これも唐の文化や制度を模しています。

     

    ①服装はどうたったの?

    朝廷では、衣服令という法律により、礼服・朝服・制服の3種類に分類されていました。

     

    それぞれをまとめていくと、下記の通りです。

    • 礼服・・・重儀に用いられる服。後は即位の式の時のみ着用
    • 朝服・・・監視の勤務服
    • 制服・・・庶民が工事に従事するときに着られる服。朝服に似た黄色い服

      ご覧の通り、服の色や形で、着用者の地位がわかるようになっていました。

       

      男性の衣服の生地は、当時高級品とされていた。腰には刀を携え、靴、しゃくなどを身につけていました。

       

      一方、貴族の女性の衣服には、同じくをあしらえた上に薄い藍色の服を着用し、その上にベストの様な背子と呼ばれるベストを重ね着。その上からスカートの様な衣裳を着用し、帯で留め、方からショールというスタイル。

       

      これに扇を持っていたそうです。

       

      また、女性の髪形は、唐の文化の影響が強くありました。

       

      長い髪を真ん中で分けたり、おでこを出し、頭頂部で結わき、髪留めで留めるというスタイルが流行りました。

       

      ②食事は現代に近かった?

      食事内容は、現代の日本人が食している者に近かったとされています。

       

      強飯(こわいい)というもち米を蒸したものを主食に、魚や鹿の膾(なます)、里芋、わかめ汁が食されており、と呼ばれる乳製品も食べられていた様です。

       

      奈良時代の文化!!服装や食事などの生活【農民編】

       

      しかし、こんないい生活を農民が送れることはありませんでした。

       

      対照的な農民たちの生活模様を簡単にまとめてみました。

       

      ①衣食住はみすぼらしいもの

      唐の文化できらめいた上流階級とは裏腹に、庶民の服装や食事は実にみすぼらしいものでした。

       

      庶民が口にできたのは、玄米、雑穀ご飯、塩、汁物などと言った非常に簡素なもの。

       

      また、服装に男女の区別はなかったそうで、フジ・クズ・コウゾと言った天然素材で織られた白いシンプルなワンピースに似たもの腰ひもで留めたものを着ていたとされています。

       

      何と、弥生時代からたいして変わらなかったとされています。

       

      この時代でも、庶民はまだ竪穴住居が主流でした。少しずつ、宮殿に使われていた堀立柱建物が、農民の住居にも取り入れられたとされています。

       

      ②税の負担が半端ない

      当時の税の負担は、それはもうしんどいものでした。

       

      彼らは「租・庸・調」の納税だけでなく、雑徭(ぞうよう)という労役や兵役の義務まで負わされ、苦しい生活を送っていたのでした。

       

       

      農民たちの苦しい生活模様は、聖武天皇の教師だったとされる山上憶良が書いた「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」が有名です。

       

      これは万葉集に収録されているものです。

       

      余りの税負担に耐えられなくなった農民の中には、逃げ出す者まで登場。

       

      与えられた口分田から逃げ出して、浮浪となる者も多かったとされています。

       

      ③疫病、飢饉の大流行も重なって生きるのが大変

      前述の通り、いろんな疫病が流行っていたのはご存知ですよね。

       

      更に、干ばつによる飢饉や、農業も今みたいに発達していなかったことから、天候に左右されやすかったそうです。

       

      奈良時代の文化「天平文化」

      (東大寺盧舎那仏像 出典:Wikipedia)

       

       

      奈良時代の文化は、天平文化(てんぴょう)と呼ばれています。

       

      先ほどからちらほら出てきていますが、当時は文化だけでなく、政治面でも仏教と中国・唐時代に強い影響を受けています。

       

      その象徴的建築物と言えば、東大寺奈良の大仏です。日本書紀内でもこの様子は記述されています。

       

      ①書物文化の隆盛

      奈良時代と言えば、日本書紀の他にも古事記と呼ばれる日本の歴史書が作成されています。

       

      双方の違いはというと、下記の通りです。

       

      • 日本書紀・・・外国向け日本の歴史書
      • 古事記・・・日本国内向けに天皇の大切さを説いた書物

       

      ②身分差のなかった万葉集

      また、奈良時代には歌集である万葉集が登場しています。

       

      万葉集は、歌が良ければ身分関係なく、歌が掲載されるという書物。

       

      上記でのとおり、身分の差が激しかったことが良く分かったかと思いますが、歌の前では身分による差別がなかったことも、奈良文化の特色と言えます。

       

       

      波乱の奈良時代、主な出来事のまとめ

       

      では、そんな奈良時代では、主にどのような出来事があったのでしょうか。84年を簡単にまとめると下記の通りです。

       

      • 701年 大宝律令の制定
      • 708年 和同開珎(日本初の通貨)発行
      • 710年 平城京に遷都
      • 723年 三世一身法(さんぜいっしんのほう)の制定
      • 741年 国分寺建立の詔(全国に国分寺と国分尼寺を建てることを聖武天皇が命令)
      • 743年 大仏建立の詔(奈良の大仏を建てることを聖武天皇が命令)
        • 墾田永年私財法
      • 753年 鑑真が唐から来日(以後、日本の仏教の基礎を作る)
      • 784年 長岡京(現在の京都府)に遷都(ここで奈良時代が終わったとする意見もある)
      • 794年 平安京(同じく京都府)に遷都、平安時代へ移行する

         

        お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、84年間の間に首都が変わり、政治と仏教が関わるような政治制度が次々と出来上がるという、一大改革の時代でもあるんです。

         

        奈良時代の主な登場人物

         

        奈良時代には、天皇が政治を取っていることから、天皇の名前を覚えることが必須条件となります。

         

        また、貴族の権力争いもあったりして、貴族代表の“藤原氏”を知らなければなりません。

         

        というわけで、登場人物が多いのも特徴となります。

         

        誰が出てくるかは、下記にまとめていきました。

         

        • 聖武天皇
        • 藤原不比等
        • 長屋王
        • 藤原四兄弟
        • 橘諸兄(たちばなのもろのえ)
        • 藤原広嗣
        • 女帝
        • 藤原仲麻呂
        • 道教

           

          ①奈良時代と聖武天皇

          奈良時代を語る上で、聖武天皇は欠かせない人物です。

           

          聖武天皇は、奈良時代の前半に登場し、あの奈良の大仏を建立した人物です。

           

          聖武天皇が成人するまでの間は、他の皇族に皇位を奪われないように祖母の元明天皇とおばの元正天皇が繋ぎ役として即位していたというのも特徴です。

           

          つまり、聖武天皇の即位は既に計画されていたものだったのです。

           

          また、聖武天皇は病弱でメンタルも弱かったとされています。

           

          その理由は後述にてお話していきます。

           

          ②藤原不比等

          藤原不比等は、飛鳥時代から奈良時代にかけて、じわじわと政治に強い影響力を及ぼすようになった貴族で官僚。

           

          平安時代で朝廷を支配した、藤原氏の地位を高めた藤原氏の始祖であり、重要人物です。

           

          藤原不比等の息子の世代になると、朝廷内は皇族と藤原氏のバトルが繰り広げられるようになります。

           

          その対立構造の象徴的存在が、これからご紹介の長屋王と藤原四兄弟です。

           

          ③長屋王

          長屋王は、皇族出身の人物で、藤原氏の策略により滅ぼされてしまった人物です。

           

          聖武天皇の即位したころは、官僚のトップである左大臣という役職でした。

           

          皇族である長屋王VS藤原氏の藤原四兄弟の対立は、729年についに長屋王を自害に追いやるという、長屋王の変を勃発させてしまうのです。

           

          ④藤原四兄弟

          藤原四兄弟は、父を藤原不比等に持つ、下記の4名のことを指します。

           

          • 藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)
          • 藤原房前(ふじわらのふささき)
          • 藤原宇合(ふじわらのうまかい)
          • 藤原麻呂(ふじわらのまろ)

             

            彼らは「藤原四兄弟」としてまとめて出ることもあれば、全員の名前を覚えなければならないパターンと複数存在しますので、念のため覚えると良いでしょう。

             

            長屋王の変

            武智麻呂と房前は、朝廷の要職に就くものの、偉大な父・不比等を持つ彼らはこんな時代に不満を持つようになりました。

             

            父親の功績や、彼らの天皇に嫁いだ姉妹の結びつきを考えれば、自分たちが官僚トップに就くべきと考えた藤原四兄弟や聖武天皇の皇后だった藤原光明子は、長屋王の皇族を守りたいスタンスが気に入らなかった模様。

             

            軍務経験もある藤原宇合が兵を派遣し、長屋王邸を包囲します。

             

            その後、藤原武智麻呂が長屋王ら関係者を糾問。そして最後に長屋王が自害することで事件は終焉。

             

            藤原四兄弟は著しい出世を遂げたというものです。

             

            しかし、そんな藤原四兄弟も、天然痘という病気を前にして次々と亡くなるのでした。

             

            人はこれを長屋王の祟りとして恐れたのでした。

             

            橘諸兄

            天然痘で藤原四兄弟をはじめ、多くの貴族が亡くなることとなり、朝廷は大パニックを起こします。

             

            そんな中、左大臣に選ばれたのが橘諸兄です。

             

            橘諸兄は皇族出身の人物。その人が実質のトップに収まったことで、藤原氏の世は一度終わりを告げることとなりました。

             

            橘諸兄は、身分は低いけれども、当時参考にしていた唐の文化に精通する吉備真備(きびのまきび)玄昉(げんぼう)を徴用しました。

             

            しかし、これに反発する人物が現れるのです。

             

            藤原広嗣

            藤原広嗣は、あの藤原四兄弟のうちの藤原宇合の息子です。

             

            橘諸兄が政権を始めた矢先に、朝廷の人材登用に不満を抱き、740年に左遷先の九州で反乱を起こした人物。

             

            彼はその乱よりも、日本で最初の怨霊としても有名な人物です。

             

             血迷った聖武天皇、遷都を繰り返す

            ここで再び聖武天皇が登場。

             

            これまでの人物紹介からお分かりの通り、長屋王の変からスタートし、天然痘が流行し、加えて地震や飢饉があったことで、自らの政治に自信を失ってしまうのです。

             

            最終的に藤原広嗣の乱により、ぽっきり折れた聖武天皇の心。

             

            これ以上の政治の乱れに耐え切れず、突如遷都を考えたのです。そして、自分だけでは耐えられなくなった聖武天皇は、政治のすべてを仏教にゆだねることになります。

             

            これ以降の遷都先は、下記の通りになります。

             

            741年 恭仁京(くにきょう)に遷都・・・ここで全国に国分寺・国分尼寺の造立を命じる

            743年 紫香楽宮(しがらきのみや)を副都にする

            744年 難波宮(なにわのみや)に遷都

            745年 紫香楽宮へ遷都

            平城京

            749年 聖武天皇の崩御

             

            ⑦女帝・孝謙天皇(称徳天皇)登場

            聖武天皇が崩御し、その後継者は聖武天皇の娘である孝謙天皇です。

             

            ご存知の通り、日本では現在でも皇室は男系の血統を重視しています。その為、孝謙天皇が即位した早々に、次期天皇を誰にするか問題が勃発。政治体制は不安定となるのでした。

             

            ⑧藤原仲麻呂

            そんな最中、政治のトップに出てきた人物が、あの藤原四兄弟・武智麻呂の息子藤原仲麻呂です。

             

            思い出してください。孝謙天皇は聖武天皇の娘。母親は藤原光明子です。

             

            つまり、仲麻呂も仲が良かったこともあり、それを利用した仲麻呂は、裏で政治を操るようになったのでした。

             

            どういうことかというと、聖武天皇は崩御の前、孝謙天皇の後継者は道祖王を指名していました。しかし、仲麻呂は道祖王を排除し、孝謙天皇を押さえつけ、新たな傀儡要員として、孝謙天皇の次の天皇を淳仁(じゅんにん)天皇としたのです。

             

            更には、前の権力者出会った橘諸兄とその息子・奈良麻呂までも排除し、実質の独裁政治を開始したのでした。

             

            ⑨道鏡(どうきょう)

            聖武天皇が亡くなってからも混乱を極める奈良時代ですが、その妻である藤原光明子が亡くなり、更に混乱を極めるのでした。

             

            そして、仲麻呂と孝謙上皇の関係も次第に悪化していきます。そんな折、孝謙上皇と良い感じになったのが、道鏡という僧侶です。

             

            孝謙上皇に寵愛された道鏡は、僧でありながら政治に深入りするようになります。

             

            当然、彼らにとって邪魔な存在となるのは、藤原仲麻呂です。

             

            ここに新たな対立構造が誕生することとなりました。

             

            藤原仲麻呂の乱

            ここで起こったのが、両勢力による武力闘争、764年の藤原仲麻呂の乱です。

             

            藤原仲麻呂は敗北し、淳仁天皇は廃帝の後、流刑。

             

            藤原仲麻呂の傀儡でしかなかった淳仁天皇が、本人の意思ではなかったこともあり、一番不憫でなりません。

             

            勝利した孝謙上皇は、称徳(しょうとく)天皇として再び天皇として即位することになります。

             

            しかし、ここで今度は道鏡が、称徳天皇を虜にさせることで、腐敗した独裁政治を繰り広げることになるのでした。

             

            いよいよ平安京へ遷都、奈良時代の終焉とは?

             

            道鏡による腐敗した政治が進む中、宇佐八幡神託事件という事件が勃発し、道鏡は力を失うことになります。

             

            時を同じくして、称徳天皇も崩御したことで、光仁天皇が即位、その後即位したのがあの桓武天皇でした。

             

            桓武天皇は平城京と決別し、長岡京を建設しますが、ここで計画は頓挫。

             

            794年に平安京の完成を以って、都を平安京へ移したことで、時代も移り変わるのでした。

             

            まとめ

             奈良時代は710年から794年までの84年間のこと。

             大宝律令と呼ばれる日本初の政治制度、律令制度がスタートした。

             天皇主権の政治体制になる。

             上流階級と庶民の間での生活スタイルの大幅なギャップ。

             庶民は高い徴税に耐えられず、貧困や逃亡者も続出し、浮浪者が増える。

             干ばつも多く、疫病も流行っていたため、生きるのが大変だった。

             奈良時代前半は聖武天皇の時代。度重なる遷都は聖武天皇の心の不安の表れ。仏教を政治に取り入れる。

             藤原家の台頭し、政治介入が多くなる。

             皇族と貴族の対立が非常に多い。

             女性天皇が登場する。

             桓武天皇の登場により、最終的に平安京へ遷都し、奈良時代が終了する。(長岡京の遷都で奈良時代が終わった説もある)