【寺請制度と宗門改めの違い】簡単にわかりやすく解説!!それぞれの意味など

 

江戸時代前期、キリシタン(キリスト教徒)による反乱を恐れた幕府は、キリスト教の布教を禁止します。

 

そして、全国各地の民衆一人一人がキリシタンでないことを寺に証明させる寺請制度を導入し、彼らの宗教を調査する宗門改めを行いました。

 

今回は、この『寺請制度と宗門改めの違い』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

寺請制度と宗門改めの違い

 

 

寺請制度と宗門改めは、どちらも江戸時代前期から幕府が実施した宗教政策です。

 

このうち、寺請制度とは、全国各地の民衆をどこかの寺の檀家として登録させた上で、彼らがキリシタンや異端の仏教宗派信徒でないことをその寺の僧が証明する制度のことです。

 

他方、宗門改めとは、民衆一人一人の宗教を調査することです。寺請制度が確立してからは、寺の印が押された証明書として、宗門人別改帳が作られました。

 

宗門人別改帳は家ごとの家族構成も記していたため、戸籍の役割も果たしました。

 

寺請制度と宗門改めが導入された背景

①豊臣秀吉のバテレン追放令

1549年にフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えて以来、西日本を中心に多くのキリシタンが生まれました。

 

 

こうして各地の大名の中には、積極的にキリスト教を受け入れる者もいました。

 

しかし、「個人の自由を尊重するキリスト教の理念が封建制の脅威になりかねないこと」「日本国内に教会領を設定しようとするイエズス会の方針が天下統一の妨げになること」から、1587年に豊臣秀吉はバテレン追放令を発布しました。

 

 

さらに、1596年に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の船員らが、日本側による船荷の没収に抗議して高圧的に発言したこと・・・

 

加えてスペインと交易の利権をめぐって争っていたポルトガル人たちがスペイン船を貶める証言をしたため、秀吉はスペインが日本侵略を企んでいるのではないかと疑い、翌年に宣教師の司祭(バテレン)や信徒計26名の処刑を行いました。

 

これを機に、国内におけるキリスト教の広まりを徹底的に弾圧する政策がとられるようになっていきます。

 

②江戸時代初期のキリスト教禁制

江戸幕府は秀吉のキリスト教弾圧の方針を受け継ぎ、1612年に天領(幕府の直轄領)に対して、そして翌1613年に全国に対して、キリスト教への禁教令を施行しました。

 

キリシタンの弾圧は激しさを増していき、1622年には木村セバスチアンらキリシタン計55名が火刑や斬首刑により殉教する事件(元和大殉教)が起きます。

 

 

また、1637年にはキリシタンが島原の乱を起こし、幕府が武力をもって鎮圧する事態に発展しました。

 

 

こうした中で、キリシタンの摘発はますます厳しくなり、キリシタンを効率的に発見する方法として絵踏みが導入されたほか、寺請制度宗門改といった幕府の宗教政策が確立していきました。

 

寺請制度の内容

①寺請制度の仕組み

寺請制度では、全国各地のすべての民衆をどこかの寺の檀家として登録させることで、彼らがキリスト教に入信することを防ぐとともに、その所属先の寺(檀那寺)に彼らがキリシタンや異端派仏教信徒(日蓮宗不受不施派の信徒など)でないことを証明させるという仕組みを採りました。

 

実際に証明する方法としては、檀那寺の僧が必要に応じて、その人が檀家であることを証明する臨時の手形(証明書)を発行することが多かったようです。

 

例えば、1635年に若狭小浜藩で、五人組の連判手形に檀那寺の印を押したものが発行されたのが、江戸時代初期の代表例です。

 

それ以後も明治時代に入るまで、全国各地で同様の手形が作られました。

 

②寺請制度の成立過程

寺請制度の基礎となったのは、江戸時代以前の近世初頭から存在していた民衆と寺との関係です。

 

民衆は家ごとに檀家として特定の寺に所属し、葬式や祭りのときには、その寺にお布施をして引き受けてもらうようになっていました。

 

この関係が寺檀関係と言われるもので、基本的には代々受け継がれる永続的な関係でした。

 

江戸時代に入ると、幕府はキリスト教禁制の政策をとり、民衆がキリシタンでないかどうかを調査し、キリシタンである場合には仏教に改宗させるように全国各地の藩に指令を出しました。

 

それぞれの藩はさまざまな方法でこれを行いましたが、そのうちに寺檀関係を利用して、キリシタンの摘発や仏教への改宗を行うことが一般的になっていきました。

 

③寺請制度の影響

寺請制度が一般的になったことで、主に二つの影響が出てきました。

 

一つは、檀那寺と檀家の関係が固定的になったことです。

 

江戸時代までは、檀那寺を変える寺替(てらがえ)や、宗派を変える宗旨替が行われていましたが、寺請制度が普及すると基本的にはこれらは行われなくなりました。

 

また、家族の中で檀那寺が異なるケース(半檀家)も避けられたため、原則として、同じ家系に属する人々は、代々同じ檀那寺に属するようになっていきました。

 

もう一つは、寺の経営のあり方が変化したことです。

 

寺請制度が普及し、これまでの寺檀関係が固定的なものになると、それぞれの寺は経営を安定させるために、檀家との関係を維持し強化することに努めるようになります。

 

その一方で、中世に盛んに行われていた布教活動は重視されなくなりました。

 

各宗派のそれぞれの寺が檀家を維持しようとしている中で、ある寺だけが単独で新たに檀家を獲得しようとしても、うまく行くはずがないからです。

 

このような寺と檀家のあり方は、明治時代以降も存続し、現在においてもその名残を見ることができます。

 

宗門改めの内容

①宗門改めの成立過程

宗門改めとは、江戸時代前期以降、幕府がキリスト教禁制を徹底するために、民衆一人一人が信じている宗教を調査したことです。

 

宗門改めは1614年に始まり、1640年には幕府の中で宗門改めを統括する役職として宗門改役を置き、天領(幕府直轄領)でキリシタンを厳しく摘発しました。

 

1664年以降は、全国各地のそれぞれの藩にも宗門改役人を置いて、藩内の宗門改めを徹底させました。

 

1660年以降には、キリシタンを効率的に摘発する方法として絵踏みが盛んに行われたほか、寺請制度も確立し、より徹底して宗門改めが行われるようになりました。

 

②宗門人別改帳

宗門改めで調査した内容をもとに、各町・各村は宗門人別改帳を作成し、幕府や藩に提出しました。

 

宗門人別改帳には、家ごとの戸主・家族成員・奉公人・下人の名前と年齢、それぞれが所属する寺(檀那寺)の名前が記載された上で、キリシタンや異端派仏教信徒でないことを証明する檀那寺の印が押され、さらに戸主の身分・持高・牛馬数などが併記されるのが一般的でした。

 

この点から見れば、宗門人別改帳は現在の戸籍に近いものだったと言えます。

 

実際、明治初期に戸籍が作られるまで、戸籍の代わりとして用いられました。

 

③宗門人別改帳の作成時期と作成方法

宗門人別改帳の作成時期や作成方法は、藩によってかなり異なっていました。

 

だいたい毎年36月に作成されることになっていましたが、そのたびに全住民を集めて真面目に調査する藩があった一方で、出生・死去・転居など前年と変化した部分のみを調べる藩もありました。

 

また、必ずしも毎年調査を実施したわけではない藩もありました。

 

さらに、藩や地域によっては、特殊な事情を抱えているため、宗門人別改帳の作成が困難だった場合もありました。

 

例えば、かつてキリシタン勢力が強かった地域や、檀那寺が他の領地や遠方にある地域、家族内で檀那寺が異なる場合が多い地域がそうでした。

 

まとめ

 寺請制度と宗門改めは江戸時代前期から幕府が実施した宗教政策。

 寺請制度とは、全国各地の民衆をどこかの寺の檀家として登録させた上で、彼らがキリシタンや異端の仏教宗派信徒でないことをその寺の僧が証明する制度のこと。

 宗門改めとは、民衆一人一人の宗教を調査すること。

 寺請制度が確立してからは、寺の印が押された宗門人別改帳が作られた。

 宗門人別改帳は家ごとの家族構成も記していたため、戸籍の役割も果たした。