日本へ輸入される生糸の金額はポルトガルが決めており、日本へ高く売りつけ、ポルトガルは多額の儲けを出していました。

 

そこで、幕府は日本が輸入生糸の値段を決めるべく糸割符制度を始めていきました。

 

今回はこの『糸割符(いとわっぷ)制度』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

糸割符制度とは?

(生糸 出典:Wikipedia

 

糸割符制度とは、江戸時代に行われた糸割符仲間とよばれる特定の商人らに輸入生糸を一括購入させた制度のことを言います。

 

当時、ポルトガルは中国と日本の生糸貿易の仲介をしていました。

 

しかし、生糸の値段を決めるのはポルトガルで日本へ高額な値段設定で、膨大な利益を出していたのです。

 

江戸幕府は、生糸の購入権限を糸割符仲間に与え、糸割符仲間に生糸の金額を決定。

 

糸割符制度は当初、ポルトガルのみ適用されていましたが、のちに中国とオランダにも適用されるようになり、生糸の価格統制が図られていきました。

 

糸割符制度が行われた背景や目的

(南蛮貿易 出典:Wikipedia

①南蛮貿易

時は安土・桃山時代。当時は九州の平戸と長崎を中心に南蛮人(スペイン人・ポルトガル人)との貿易が行われていました。

 

主な輸入品は鉄砲等の火薬と生糸、輸出品は銀でした。

 

当初、キリスト教の布教とセットの貿易でしたが、九州の多くの人がキリスト教信者となったことに恐れた豊臣秀吉は1585年に「バテレン追放令」を発布し、キリスト教を禁止していまいました。

 

 

しかし、豊臣秀吉も南蛮貿易にて利益を得ていたため、貿易は禁止せず、むしろ奨励していました。

 

 

②ポルトガル人の利益の独占

特に日本はポルトガルから中国の生糸を輸入していました。

 

生糸は中国マカオで生産されていましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の影響で、中国との国交が断絶していました。

 

そのため、日本は中国と直接に貿易ができませんでした。

 

また、ポルトガルがマカオを拠点として貿易を行っていたため、日本はポルトガルの仲介により、マカオの生糸を輸入していました。

 

そのため、生糸の値段をポルトガル商人が決定し、高額な値段の生糸を日本に売り、利益を出していたのです。

 

③銀の流出

日本は銀を輸出品として海外に渡していただけでなく、輸入品の支払いを銀で行っていました。

 

そのため、日本の銀はどんどん海外に流出していきました。

 

④朱印船貿易

当時、九州・瀬戸内海の武士や海賊が中国や朝鮮の船を荒らす「倭寇」として恐れられていました。

 

 

日本は南蛮貿易を行っていたことから、貿易の安全を図るために倭寇を取り締まる必要がありす。

 

そこで、豊臣秀吉は「朱印状」を発行し、身分を保証した者のみの渡航を許可。

 

さらに、徳川家康は東南アジアとの貿易において、引き続きこの制度を使用し、「朱印状」を持つ者の貿易を保証する代わりに、貿易で得た利益を幕府に納めさせて、幕府の利益としていました。

 

朱印状を持っている日本船は、外交関係のあるポルトガル、オランダや東南アジア諸国との貿易が保護されていました。

 

 

糸割符制度の内容

①糸割符仲間

幕府は、特にポルトガルによる生糸の利益独占を防ぐため、1604年に商人の茶屋四郎次郎が主導となり、京都長崎の特定商人による糸割符仲間を作らせました。

 

そして、この糸割符仲間に価格の決定と一括購入の権利を与え、糸割符仲間が購入した生糸を他の商人に購入させるシステムを導入します。

 

1631年には江戸大坂が加わり『5カ所』となり、この5カ所すべて天領地であり、この5カ所の商人たちは特に「五カ所商人」呼ばれていました。

 

1641年にはさらに平戸も加わり6カ所となります。

 

②諸外国の対応

糸割符制度は当初ポルトガル商人だけを対象としていましたが、1631年には中国1635年にはオランダ商人に対しても適用されることとなりました。

 

その他に日本と貿易を行っていた、イギリスとスペインは糸割符制度による貿易を行わずに、日本と貿易をやめてしまいました。

 

これにより、生糸の価格はすべて糸割符仲間による統制が完了しました。

 

③中国商人の抵抗

糸割符制度では、糸割符仲間のトップである糸割符宿老がポルトガル(中国)と話し合いの上で、その年一年の生糸価格を決定していました。

 

中国商人たちはこの制度を利用して、価格決定する春には少しの生糸しか渡さずに、価格を引き上げて、その後に高額となった生糸を大量に日本に輸出します。

 

中国商人にこのような売り方をされては、せっかく糸割符制度で価格統制が無意味となり、1655年に糸割符は解散となりました。

 

④『糸乱記』に書かれた糸割符仲間

糸割符仲間の解散から30年後の1685年に糸割符仲間が復活されることとなります。

 

30年も経っているため、新たな糸割符仲間が選ばれることとなりました。

 

堺の糸割符仲間は元々糸割符仲間に選ばれていた商人ではなく、新しい商人ばかりが選ばれました。

 

それに怒った、旧糸割符仲間は堺奉行に抗議しましが、聞き入れてもらえず、江戸の三奉行や老中に直接抗議。

 

その結果、堺奉行は交代となり、旧糸割符仲間も選任されることとなりました。

 

糸割符制度の影響・その後

①国内での生糸生産の増加

一時解散となった糸割符仲間でしたが、再度復活しました。

 

しかし、復活以降は日本国内での生糸生産の増加&質の向上により、輸入は少なくなっていました。

 

このため、復活後は特に意味のない制度となっており、さらに鎖国後には、一転して日本は生糸の輸出国となっていきました。

 

②貨物市法

糸割符仲間が解散した後、長崎での貿易は売り手と買い手が話し合って値段を決める自由貿易を行うようになりました。

 

自由貿易により、貿易量が増大し、支払いのために日本の金銀が大量に海外へ流出することとなります。

 

流出を抑えるため、1672年に長崎奉行牛込重忝によって貨物市法が制定。

 

この法令では目利き商人による価格決定を行ったため、日本側が主導権を握っていましたが、多くの品を輸入したため、結局は金銀の流出を抑えることはできませんでした。

 

また、汚職がたびたび起こったことにより1685年に廃止となりました。

 

③鎖国へ

日本はヨーロッパの国々と貿易を行っていたため、西日本の多くがキリスト教へと転身していきました。

 

豊臣秀吉がキリスト教を恐れ、「バテレン追放令」を出したように、江戸幕府もキリスト教について、警戒をしていました。

 

そこへ、キリスト教徒が団結した「島原の乱」が1637年に発生してしたことにより、江戸幕府はキリスト教根絶を目指すこととなります。

 

 

そして、これ以上キリスト教が入ってこないように行われた政策が、あの有名な「鎖国」です。

 

 

なお、オランダはキリスト教の布教に熱心でなかったことから、長崎でのみ貿易を許されていました。

 

まとめ

 糸割符制度とは、江戸時代に行われた糸割符仲間とよばれる特定の商人らに輸入生糸を一括購入させた制度のこと。

 ポルトガルが日本と中国の仲介を行っていたため、勝手に生糸の値段を決定してぼろ儲けをしていた。

 日本で生糸の値段が決められるように、生糸の購入を糸割符仲間にのみ権限を与えた。

 糸割符仲間の京都、堺、長崎、江戸、大坂を「五カ所商人」と呼ばれていた(平戸も加わり、6カ所となる)。

 当初はポルトガルのみ適用されていたが、のちに、中国・オランダにも適用された。

 日本国内での生糸生産が盛んとなり、鎖国後は生糸輸入国から一転して輸出国となった。




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