江戸時代の元禄(元号)に用いられていた「元禄小判」。

 

今回は、この『元禄小判(げんろくこばん)』の貨幣としての性質・関連する経済政策・関連する人物などについて、わかりやすく解説していきます。

 

元禄小判とは?

(元禄小判 出典:Wikipedia)

①元禄小判の定義

まず、辞書的に元禄小判をおさえてしまいましょう。

 

元禄小判とは、1695年(元禄8年)に、それまで使っていた慶長貨幣から、元禄大判・小判・一分(いちぶ)金・丁銀・豆板(まめいた)銀へと改鋳した、その新しい貨幣そのものを指します。

 

ちなみに、元字金・元字銀とも言われます。

 

②元禄小判の特徴 

次に、貨幣の特徴ですが、それまで使っていた慶長貨幣より品位を下げたということを理解しておいてください。

 

品位を下げるって、貨幣がまるで人みたいにお行儀の良し悪しでもあるのかと違和感を抱いた人もいるかもしれませんよね。この点は、もう少し説明しておきましょう。

 

当時の貨幣は、現在の貨幣と大きく違う点があります。

 

それは「紙幣の材料」。

 

現在の貨幣は、材料を問いませんよね。何なら額面価格の大きいものは単なる「紙切れ」を使っていますよね。何せ、「紙幣」という呼び名ですもの。

 

紙切れであるだけの紙幣を我々がありがたがるのはその紙幣に価値があると政府が保証・皆が政府を信頼し、価値があることにしているから。つまり、購買できるものとして扱っているからですよね。

 

このような政府の信頼で貨幣を保証する考えは20世紀までありませんでした。

 

それまでは、貨幣自体を貴重な「価値あるもの」でつくるか、「価値あるもの」との交換が保証されている「紙切れ」にするかのどちらかでした。

 

前者は江戸時代の貨幣です。使われるの「貴重な価値あるもの」とは、金や銀というわけですね。

 

(※ちなみに、後者は金本位制などのことを指します。気になる人は、その言葉も調べておこう)

 

 

このことから、次のことができます。すなわち、この当時は金や銀の含有量を落として貨幣の価値を落としたり、逆に増やして価値を上げたりできるわけです。

 

そして、品位を下げるとは、貨幣に含まれる金や銀の含有量を下げることだったのです。

 

つまり、元禄小判は、慶長金銀よりも金や銀の含有量を落とした、その意味で質の悪い通貨だったということです。

 

なぜ元禄小判は生まれたのか?

①元禄小判が生まれた当時の政治経済状況

 それでは、なぜ元禄小判は生まれたのでしょうか?

 

これは最初に経済政策と言いましたね。ですから、何らかの意図があって取り組まれたわけです。

 

それを知るには、当時の政治経済状況を理解しなければなりません。

 

まず、当時の江戸幕府将軍は5代将軍徳川綱吉でした。

 

 

(徳川綱吉 出典:Wikipedia)

 

 

彼は、生類憐みの令など、政治を混乱させたイメージがありますが、経済の方はどうだったのでしょうか。

 

結論から言うと、先代までのツケなど環境面が悪く、財政破たん寸前でした。

 

例えば、1657年に明暦の大火という火事が江戸城と市街を襲いましたが、この復興に向けた費用が必要でした。

 

また、4代将軍家綱の時代から続く寺社造営費用の出費もかさんでいました。さらに、長崎貿易も輸入が多く、金貨や銀貨が流出していきました。

 

②元禄小判は貨幣を増やすための政策 

それだけでなく、庶民は戦(いくさ)もなく豊かになり貨幣需要が高まっているにもかかわらず(元禄文化も花開いたわけですから庶民の活気は目をみはるものがあったわけです)、金や銀の産出量は下がり続けていました。

 

これでは、貨幣をつくりたくてもつくれません

 

そこで、元禄小判の発想です。

 

貨幣1単位当たりの金や銀の含有量を減らしてしまうのです。そうすれば、より多くの貨幣をつくることができます。

 

分かりづらい人のために、数値例を上げましょう。

 

たとえば、金100gあって、ある金貨には10g含有する必要がある場合、その金貨は10枚しか作れません。しかし、5gの含有で良くなれば、20枚つくることができますよね。

 

こうして、元禄小判は通貨を増やすために採り入れられた経済政策だったのです。

 

③元禄小判導入で幕府財政は潤う 

ちなみに、世の中に出回っている慶長金銀は回収し、元禄小判を渡します。その時、1:1に近い水準で交換しました。

 

これにより幕府は大きく潤うことになります。

 

これも数値例を出しながら具体的に説明しましょう。

 

① 慶長の金貨は金20g入っているとし、元禄の金貨は金5gしか入っていないとします。

 

② これからは元禄小判を使うようにお達しを出すことで、慶長の貨幣は回収とします。このとき、両方の金貨の交換比率はほぼ1:1でもありました。

 

③ ②は、10枚の慶長金貨(金の量は20g×10枚=200g)を幕府に持っていくと、新貨幣である元禄金貨10枚と交換する(金の量は5g×10枚=50g)羽目になることを示しています。

言い換えると、幕府は200gもらい50g渡しているようなものなので、150g分の金を手に入れることになります。

この差額は出目と呼ばれ、出目によって幕府財政は潤うことになるわけです。

 

誰が元禄小判を考えたのか?そして政策の効果は?

①元禄小判の考案者「荻原重秀」

元禄小判を考えたのは、荻原重秀という人物です。

 

彼は下級役人の出でしたが、大変経済通な人物でまた優秀だったことから出世を重ねます。

 

そして、勘定吟味役の時に徳川綱吉に提案し、この元禄小判を実現させました。

 

さて、この政策どうだったのでしょうか。

 

それは荻原重秀が、勘定吟味役から勘定奉行へと出世していることから分かるように、幕府としては成功を収めます。

 

上で説明した貨幣の質が異なる点を利用した差額(出目)で大いに潤ったのです。

 

また、長崎貿易における金貨と銀貨の流出抑制ともなりました。

 

②元禄小判による悪影響「物価の高騰(インフレ)」

しかし、貯めこんでいる慶長金銀が品位の低い元禄小判に変えられるのは、引き換えついでに税金を取られているようなものなので、経済的に富裕層でもあった人たちや商人層には手痛かったといえます。

 

そのため、引き換えないようにする(退蔵)が起こったり、貨幣以外のものを買い占めて転売で稼ごうという動きだったりが起こります。いわゆる「貯蓄から投資へ」みたいな形ですね。

 

これらは物価高騰を引き起こします。

 

また、元禄小判に改鋳した年(1695年)や、翌年は冷夏で米の収穫量が落ちましたので、その分価格が高騰します。

 

したがって、生活レベルでは物価騰貴を招き経済を混乱させたと指摘されています。

 

③最近の学説による元禄小判の評価

村井淳志金沢大学教授は、ご自身の著書『勘定奉行 荻原重秀の生涯』で、年3%程度しか物価上昇してなかったと述べています。

 

つまり、この程度なら高騰とは言い難いとしています。

 

どちらが正しいのか、まだ評価は分かれているようです。

 

そのため、ひとまず教科書的には物価騰貴とおさえつつ、将来的には村井説が採用されるかもしれないと覚えておきましょう。

 

もしそうなれば、元禄小判はそこまで問題ではなかったのではという見解に歴史的評価が変わる日が訪れるかもしれませんね。

 

まとめ

 元禄小判は、5代徳川綱吉のころに勘定吟味役荻原重秀が提案してつくられた

 従来までの慶長金銀よりも金や銀の含有量を落としたものだった。

 元禄小判は、慶長金銀と元禄小判の交換を行う過程で発生する出目を利用して幕府収入の増加を目指した。そして、その目標は達成できたと言える。

 元禄小判は、一般社会においては物価騰貴を生んだと見なされている。

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