学制・教育令・学校令の三つの法令は、すべて明治時代に公布された、教育制度に関わる法令です。

 

三つとも名前が似ており区別しにくいですが、内容や理念はそれぞれ別個のものです。

 

明治維新後、中央集権的国家制度を整え欧米諸国と肩を並べる国力を養うため、明治新政府が早くから整備に取り掛かったのが教育制度でした。

 

近代的な学校制度を定めた日本最初の法令が学制であったことはよく知られています。

 

しかし、その制度化は最初からうまくいったわけではなく、様々な紆余曲折を経ることになります。

 

今回は、そうした紆余曲折の中でどのような学校制度がつくられていったのか、『学制・教育令・学校令の違いや順序』を踏まえて簡単にわかりやすく解説していきます。

 

学制・教育令・学校令の違い

 

最初に、三つの法令の大まかな違いを確認しましょう。

 

三つの法令の違い

 

✔ 学制・・・1872(明治5)年に公布された法令のこと。

 

学制では、全国を「学区」で区分しそれぞれの学区に決まった数の大学校・中学校・小学校を置くことが定められました。

 

「国民皆学」の理念が提唱されたこと、フランス式の学校制度を採用したことに特徴があります。

 

✔ 教育令・・・教育令は学制に替わって制定され1879年(明治12)年・1880(明治13)年・1885(明治18)年の三度にわたって公布された法令のこと。

 

それぞれ第一次教育令・第二次教育令・第三次教育令と呼ばれます。

 

特に重要なのは、アメリカ式の自由主義教育制度を採用した第一次教育令です。

 

✔ 学校令・・・第三次教育令の翌年にあたる1886(明治16)年以降に制定された複数の法令の総称。

 

この法令では、ドイツ式の国家主義的学校制度に則り、帝国大学・師範学校・中学校・小学校といった学校の種別と編成が新たに定められました。

 

このように、明治の学校制度に関わる法令は学制→教育令→学校令の順に公布され、フランス式→アメリカ式→ドイツ式と、その範にするものも変わっていきました。

 

それぞれの内容について、以下で詳しく説明していきます。

 

学制の成立と内容・その後

 

明治維新後、明治政府は中央集権的な国家体制を整えていくことを目的に様々な制度改革を行いました。

 

 

その一環として、1873(明治5)年には、教育の近代化をはかるため学制が公布されました。

 

明治5年は鉄道の開通や太陽暦の採用など、近代化を象徴する出来事が続いた年です。

 

学制はフランスの学校制度にならい、全国を8つの学区に分けて、各学区に大学校・中学校・小学校を設けることを定めました(学区制)。

 

ひとつの学区につき、大学校1校、中学校32校、小学校は全国で約5万校設けられる計画が立てられました。

 

そのように全国各地に学校を設けることを通して明治政府が目指したのは、万人が教育を受けること、すなわち「国民皆学」です。

 

学制序文には、身分や性別を問わず誰もが教育を受ける必要があることが記されています。

 

特に小学校は、6歳以上の男女に対して最低8年の就学が義務づけられました。しかし地方の実情に合わず、強制力はあまりありませんでした。

 

全国に対して画一的に方針を定めた学制は、地方の教育の実態に即さない面が多く、問題が続出しました。

 

そこで明治政府は学制を廃止し、教育令という新たな法令をつくることになります。

 

教育令の成立と内容・その後

 

1879(明治12)年第一次教育令公布によって、学制が廃止され学校制度は方針を転換していきます。

 

学制が中央集権的ですべての学区に画一的な教育を求めたのに対して、第一次教育令は、地方の自由を大幅に認める方向にかじを切りました。

 

学制はフランス式の教育制度を参考にするものでしたが、第一次教育令はアメリカ式自由主義教育を採用し、地方それぞれの実情に合った教育を行っていこうとしたのです。

 

具体的には、就学義務の年数をゆるめ、学区制を廃止して学校設立を町村ごとにするなど、制度を改めていきました。

 

しかし、結果として地方の小学校の就学率減少や、財政難による廃校の増加などの問題が起こってしまいました。

 

そのため教育令は第二次教育令(1880)・第三次教育令(1885)の二度の改正を通して、教育に対して国家が干渉する方向へと向かっていくことになりました。

 

第二次教育令では、地方の教育に対して府知事や県令(いまの県知事)などが権限を強く持つように改正されました。また、「修身」という道徳科目が小学校・中学校の科目として新しく設けられたのも第二次教育令においてでした。

 

続く第三次教育令では、地方の教育費を節減するために「小学教場」という簡易な教育の場を設けることが認められました。

 

学制から第一次教育令への流れは中央集権的な学校制度から地方主導の自由な学校制度へというものでしたが、第二次教育令以降、明治の教育制度は再び中央(国家)の力が強く介入する形へと軌道修正されていったのです。

 

学校令の成立と内容・その後

 

1885(明治18)年の第三次教育令からまもなく、1886(明治19)年に教育令は廃止され、新たに学校令が公布されます。

 

学校令はひとつの法令ではなく、「帝国大学令」「師範学校令」「小学校令」「中学校令」など複数の法令をまとめて指すものです。

 

なお、師範学校は学校の先生を養成するための学校で、明治5年以降、各地に設立されていました。

 

学校令を制定したのは、森有礼という人物です。

 

 

(森有礼 出典:Wikipedia

 

 

前年の1885年に内閣制度が発足していますが、その際に初代文部大臣に就任したのが森有礼でした。

 

森有礼は、教育は国家の発展や繁栄のためにあるべきだという理念を持っており、森の主導のもとにつくられた学校令も、「国家のための教育」というドイツ式の国家主義的教育観を強く打ち出すものでした。

 

第二次教育令以降の、教育を国家の統制の元に据えるという方針は、学校令においても引き継がれ、より強固になったといってよいでしょう。

 

学校令の具体的な内容は、帝国大学・師範学校・小学校・中学校などの教育機関を組織的に再編成するものでした。

 

小学校・中学校・師範学校がそれぞれ「尋常」「高等」の二段階に分けられ(たとえば、小学校は「尋常小学校」と「高等小学校」の二種類になりました)、当時唯一の大学校だった東京大学が名称を変え「東京帝国大学」となるなど、各教育機関の細かな編成が定められました。

 

中でも重要なのは、小学校への4年間の就学が「義務教育」として定められたこと。

 

それ以前にも最低修学年限は定められていましたが、「義務教育」という言葉はここで初めて用いられます。

 

明治30年代に入ると、義務教育は6年に延長され、全国の小学校の就学率は90%に達することになります。

 

明治19年以降、学校令は改正や新たな法令の追加などを経つつ、昭和期に至るまで学校制度を定める規則として存続します。

 

学制、教育令という過渡期を経て、最終的に近代の学校制度を完成させていったのが、学校令だったといえるでしょう。

 

まとめ

 明治の学校教育に関わる法令は、学制→教育令→学校令の順に公布され、それぞれフランス式→アメリカ式→ドイツ式の学校制度を範とした。

 学制は1872(明治5)年に公布され、フランス式学校制度にならった学区制を採用し、「国民皆学」の理念を提唱したが、地方の反発を招いた。

 教育令は1879(明治12)年の第一次教育令においてアメリカ式自由主義教育の方針をとり地方の自由を認めたが、第二次教育令・第三次教育令では国家が地方の教育に干渉する方針へと転換していった。

 学校令は1886(明治19)年に文部大臣森有礼のもとでドイツ式国家主義的学校制度にならってつくられた複数の法令を指し、これにより義務教育の徹底など近代学校教育の基礎が完成された。




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