【質流し禁令(流地禁止令)とは】簡単にわかりやすく解説!!目的や内容・影響など

 

江戸時代中期、第8代将軍徳川吉宗が実施した享保の改革のうち、わずか1年で撤回された禁令がありました。

 

農村の田畑の質流れを禁じた質流れ禁令です。

 

これは農業生産の向上を狙った禁令でしたが、逆に経済の混乱を招いてしまいました。

 

今回はそんな『質流し禁令(流地禁止令)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

質流し禁令とは?

(徳川吉宗 出典:Wikipedia)

 

 

質流れ禁令とは、1722年4月に幕府が発布した法令で、第8代将軍徳川吉宗が実施した享保の改革の一つです。

 

 

この法令で、農村の田畑が質流れすることを禁止しました

(※ちなみに質流れ禁令は、流地禁止令、質流地禁止令とも呼ばれています)

 

当時、経済的に困窮した農民が自分の田畑を質屋に入れてお金を借りることが横行しており、借金が返せない場合、その田畑は質流れしていました。

 

幕府はこれを防ぐことで、農業生産を増やそうとしましたが、逆に経済の混乱を招いてしまいます。

 

そのため、翌1723年にこの禁令は撤回しました

 

質流し禁令が出された背景

①田畑永代売買禁止令

江戸時代には1643年に田畑永代売買禁止令が発布されていました。

 

この法令では、田畑を売買することを禁止しています。田畑の売買を通じて、農民の中の富裕層に土地が集まり、農民の間で階層分化が進むことを防ぐのが目的でした。

 

実際、1641年の大凶作のときには、困窮した農民が田畑を売り払って没落し、流民になる事態が起こっています。

 

この法令では田畑を売買した場合には、その売り手も買い手も厳罰に処されました。

 

両者とも牢屋に入れられた上、売り手は村を追放され、買い手は買い取った田畑を没収されました。

 

②質入れの始まり

しかし、そもそも田畑を売買したのは、重い年貢を払えなかったためでした。

 

そのため、農民の中には厳罰を覚悟の上で田畑を売買する者がいました。

 

こうした状況も知っていた幕府は、田畑の売買を禁じたけれども、田畑を質入れすることは黙認したのです

 

そのため、以後は質入れされる田畑が増えていくことになりました。

 

③田畑永代売買禁止令への批判とその後

享保の改革が行われたころには、幕府地方役人の田中丘隅が、田畑永代売買禁止令は現実にそぐわないとして批判するようになっていました。

 

また、その少し後には寺社奉行の大岡忠相も、この法令の廃止を提案しています。

 

 

(大岡忠相 出典:Wikipedia

 

 

ところが、この法令は江戸時代を通じて残り続けます。

 

御触書や五人組帳前書などで繰り返され、諸藩でも同様の法令が発布されました。

 

結局、田畑永代売買禁止令が廃止されたのは、明治になってからです。

 

つまり、江戸時代中期から後期にかけては、田畑永代売買禁止令が矛盾を抱えたまま、ずっと続いていたということです。

 

質流し禁令の目的

 

質流し禁令の目的は、質入れされた田畑が質流れしないようにすることで、田畑の耕作が放棄されて荒れ地になるのを予防するとともに、農民が田畑を失って農業に従事できなくなる事態を防ぐことでした。

 

幕府はこうした取り組みを通じて、農業生産を増やすことを狙っていました。

 

質流し禁令の内容

 

 

質流し禁令は、禁令の趣旨説明をした部分と、今後質入れされた田畑をどのように取り扱うかを定めた部分の二つに分けられます。

 

①禁令の趣旨

まず、趣旨説明の部分では、当時行われていたような田畑の質流れを認める慣習は、もともと農村にあった考え方ではなく、江戸町方の屋敷地取扱いの商慣習に倣ったものであることを明らかにします。

 

そのうえで、こうした質流れは本来農村が守るべき田畑永代売買禁止令に反していると指摘し、今後は質流れを禁止すると宣言します。

 

②禁令の具体的な内容

これを踏まえて、質入れされた田畑をどのように扱うかについては、次のように規定しました。

 

質流し禁令の内容

 

(1)すでに質入れされた田畑については、質入れの期限が明けたら、手形を書き直させること。

 

(2)直小作(質入れした人が直接その田畑で耕作すること)の年貢は、貸したお金の1割5分を限度として、超過分は損金とすること。

 

(3)年貢が滞納された場合は、その滞納年数を1割5分の利積りで元金に加えて、あとは無利息の済崩し(借金を少しずつ返すこと)として、年々返済する手形を書き直させること。

 

(4)元金を返済したら、たとえ何年経っていても、質入れされた田畑を返すこと。

 

(5)まだ質入れの期限が明けていない田畑についても、申し出があれば、上のルールにもとづいて手形を書き直させること。

 

(6)1717年以後に質流れした田畑は、元金を返済して申し出をすれば、たとえ裁判ですでに決着がついていたとしても、質入れした本人に返すのを認めること。

 

(7)ただし、(6)の場合で、質屋から田畑を買い取った者がすでに田畑を分地にするなどして、手元にもっていない場合には、質入れした本人に返さなくてよいこと。

 

(8)今後田畑を質入れする場合には、借入金額はその田畑の値段の2割程度の安値にすること。

 

(9)質入れした田畑を買い取った者が直小作させる場合には、小作年貢は1割5分の利積りを上限にすること。

 

要するに、質入れした田畑の手形を順次書き直させることで、質流れを心配することなく、借金をゆっくり返していけるようにしたのです。

 

質流し禁令の影響

①相次ぐ質地騒動

質流し禁令は、質入れした田畑の質流れを防ぐとともに、農民が高利子に苦しまないようにする工夫がなされています。

 

しかし、上に挙げた(6)のように、禁令が発布される以前にさかのぼってルールを適用できるようにしたことは、経済の混乱をもたらす原因となりました。

 

実際、各地の農村で質地騒動と呼ばれる暴動が起こります。

 

中でも大規模だったのが、1722年10月に起こった越後頸城郡の天領(幕府直轄領)150か村の騒動と、1723年2月に起こった羽前村山郡の天領・長瀞村の騒動でした。

 

いずれも村役人が農民に禁令をきちんと伝達しなかったために、農民たちが借金を帳消しにできる徳政令と勘違いしたことが原因でした。

 

 

その後も暴動は過激になっていき、農民たちが質屋に押し寄せ、質入れした田畑の取り戻しと利息超過分の返済を求め、暴力によって証文を奪い取る事態に発展しました。

 

このような質地騒動が起こった地域では、田畑の質入れが深刻な状態まで進んでおり、債務者・債権者が多数いたことが分かっています。

 

長瀞村の場合、債権者46人、債務者300人強、証文数320通、金額3980両に上ったと言われています。

 

②諸藩と天領の違い

諸藩の中には、こうした騒動が起こることを見越して、はじめからこの禁令を実施しないと独断で決めた藩もありました。

 

例えば、羽州山形藩の場合、元禄のころからすでに田畑の質入れが進んでいた上、領内の上層農民の要求から、質流れによる耕地の移動も認めていたため、領主の堀田正虎は処置を誤れば暴動に発展すると判断しました。

 

そこで、正虎は領内の大庄屋の意見を聞きつつ、領内ではこの法令を採用しないことに決めました。

 

それに対して、幕府の直轄領である天領では、幕府の判断にしたがって、まじめにこの法令を実施した場合が多かったようです。特に天領で大規模な質地騒動が相次いだのはこのためです。

 

その後、幕府も相次ぐ質地騒動を受けて、禁令を発布した翌年の1723年8月に質流し禁令を撤回しました

 

まとめ

 質流れ禁令とは、農村の田畑が質流れすることを禁じた法令のこと。

 第8代将軍徳川吉宗が実施した享保の改革の一つである。

 当時、経済的に困窮した農民が自分の田畑を質屋に入れてお金を借りていたが、借金を返せない場合には、その田畑は質流れしていた。

 幕府は禁令によってこれを防ぎ、農業生産を向上させようと考えた。

 ところが、逆に経済の混乱を招き、質地騒動を引き起こしたため、禁令発布の翌年に撤回した。