室町幕府の最大の弱点。

 

それは何と言っても守護大名の力が強く、幕府の力が弱いことにありました。

 

これがのちに応仁の乱に響くことになるのですが、幕府初期の頃はこの状況をなんとかするために徹底的な守護大名潰しを行なっていたのです。

 

今回はそんな足利義満が行った守護大名潰しの一環『明徳の乱』についてわかりやすく解説していきます。

 

明徳の乱とは?

(山名氏清 出典:Wikipedia

 

 

明徳の乱とは、1391年に因幡国などの守護大名だった山名氏清が室町幕府に対して起こした反乱のことです。

 

この反乱により山名家は一時衰退することになりました。

 

ここからは反乱が起こった背景や経過・その後など詳しく解説していきます。

 

山名家とはどんな守護大名だったのか?

(新田義貞肖像 出典:Wikipedia)

 

 

今回の主役である山名家。応仁の乱では西軍の総大将となるのですが、果たしてこの山名家はどんな守護大名だったのでしょうか?

 

山名家は元々新田義貞の一族の1人でした

 

しかし、山名家は新田家と同じ南朝派ではなく幕府側につき山陰地方に権力基盤を築き上げ5カ国の守護となりました。

 

さらに、その山名家の一族も続々と守護を獲得。

 

最盛期には全国68カ国中の11カ国を治める大大名となり、六分の一殿と呼ばれるぐらい全国でも指折りの権力を持ったのでした。

 

足利義満の野望「将軍の威光を増やしたい」

(足利義満 出典:Wikipedia)

 

 

こうして山名家は全国の六分の一を占める守護大名となりましたが、これを黙っちゃ見てられなかったのが室町幕府第3代将軍足利義満でした。

 

室町幕府という幕府は日本にあった3つの幕府の中では一番といっていいほど権力を持っておらず、その基盤も乏しいものだったのです。

 

そのため将軍となった義満は将軍の権力基盤と威光を築き上げるために、守護大名に対して圧力をかけていきます。

 

例えば明徳の乱の少し前に起こった土岐康行の乱では美濃・尾張を本拠地としていた土岐家の弱体化に成功。

 

そして、その圧力はついに山名家にも向けられたのでした。

 

①義満による挑発(1)「山名家の御家騒動」

義満が山名家の弱体化を決意していた頃、山名家では狙っているかのように内紛が起こっていました。

 

それもそのはず、実はこの時山名家は当主が亡くなったばかりでさらにその跡目を巡って山名一族が揉めに揉めまくっていたのです。

 

これはチャンス。義満はこの機を逃さずに山名一族の御家騒動に首を突っ込んでいくのでした。

 

義満はまず、気に入らなかった山名一族の1人山名氏幸の討伐を庶子(母が側室である人。普通なら当主にはなれない)であった山名氏清と山名満幸に命令。山名家の分裂を目指していきます。

 

しかし、この作戦は山名家の御家騒動があっさりと終わったことで実質的な失敗に終わってしまいます。

 

これでは弱体化は望めない。でも義満はさらに山名家を弱体化させることができる奥の手があったのでした。

 

②義満による挑発(2)「山名氏幸の赦免」

こうして御家騒動を終結させた山名家。これで一安心と思いきや、将軍義満はとんでもない行動に出ます。

 

なんと、義満は山名氏清と山名満幸が出雲国の荘園を幕府の許可なしに奪ったとして守護職を無理矢理取り上げ京都から追放

 

そして討伐されたばかりであった山名氏幸を許すとしたのでした。

 

この時山名氏清と満幸はついに将軍が山名家を潰そうとしていることに気がつくことになります。

 

こうして追い込まれてしまった氏清と満幸。

 

そしてついにこの2人は「このままむざむざと滅ぼされるぐらいだったら一山当ててみよう」として室町幕府への謀反を決意。明徳の乱という反乱がついに起こるのでした。

 

明徳の乱の全容【経過と結果】

 

 

こうして謀反を決意した山名氏清と満幸。山名家は2度も京都を占領しているため勝算はありました。

 

山名軍は堺と丹波国から出陣し5000騎で出陣し、京都に向かって侵攻しました。

 

義満はこれを受けて大内家率いる軍勢で応戦。二条大宮付近にて戦が始まりました。

 

しかし、幕府の力は強くどんどん山名軍はジリ貧になり、さらに義満率いる幕府の本軍が参戦すると大勢は決着します。

 

結果、氏清は討ち取られてしまい、満幸は九州に逃れ明徳の乱は終結しました。

 

その後、山名家は幕府にたてついた罰としてなんとか存続は許されたものの、かつて11カ国を治めていた山名家は因幡・伯耆・但馬3国に減らされ山名家は一時的に没落していったのでした。

 

そして、義満はさらに大内家も応永の乱で潰し、そして明徳の和約にて南北朝を統合

 

義満が思い描いていた幕府の権力基盤をついに確立させたのです。

 

山名家のその後

 

こうして山名家は11カ国を治める守護大名から3カ国に減らされてしまいましたが、その後山名家は応仁の乱では西軍の総大将として再び幕府の中枢で活躍することになります。

 

さて、次は明徳の乱によって弱体化した山名家が力を盛り返し、応仁の乱の総大将になるまでを見ていきましょう。

 

①嘉吉の乱での大活躍

所領が3カ国となり弱体化した山名家でしたが、その後、山名家は幕府に従順となり幕府を支えていくことになりました。

 

山名家は大内家の反乱である応永の乱で活躍。かつて治めていた備後・安芸・石見三カ国を与えられ西国における重鎮として復興していきした。

 

ちなみに、この頃になると山名家はかつて反乱を起こしていたことはほとんど許され、幕府の重職である四職の一つに数えられるまでとなりました。

 

さらに、山名家の当主となった山名持豊(山名宗全)は赤松家が起こした嘉吉の乱において赤松家を滅ぼす立役者として大活躍。

 

 

幕府にその功績が認められ元々赤松家が治めていた播磨・備前・美作を与えられ8カ国の守護となり、全盛期とはいかないものの日本でも指折りの守護大名として復活を遂げたのでした。

 

②そして応仁の乱へ

こうして山名持豊は8カ国の守護大名となりましたが、持豊は嘉吉の乱で弱まっていた幕府の政治にどんどん介入。幕府を支配する影の人となっていきます。

 

しかし、これに対して細川家が待ったをかけてきます。

 

そして、この対立の構造は幕府の跡継ぎ問題やその他の守護大名の御家騒動も合わさり、室町時代における最大の内乱であった応仁の乱へとつながっていくのでした。

 

明徳の乱の年号の覚え方

 

明徳の乱の年号の覚え方はいろいろありますが、山名家はその後なんとか復興して応仁の乱においては西軍の総大将として活躍していることも覚えて欲しいので

 

一味悔いない(1391)明徳の乱

 

と覚えときましょう。

 

ちなみに、室町時代は守護大名が大暴れしたこともあり〇〇の乱がすごく多いです。

 

特に大内家が起こした応永の乱とは、よく間違えるので誰がいつ起こしたのかも含めてしっかりと覚えておいでくださいね。

 

まとめ

 明徳の乱とは1391年に山名家が起こした幕府に対する反乱のこと。

 この反乱は幕府の権威を増やしたかった足利義満の思惑があった。

 明徳の乱が起こる一つの理由として山名家のお家騒動があり、足利義満はこれを利用して挑発した。

 この明徳の乱によってかつては11カ国を治めて六分の一衆と呼ばれていた山名家は3カ国に減らされ衰退した。

 山名家はその後幕府のサポートに徹して最終的には8カ国を治める守護大名に復活し、応仁の乱へとつながっていくことになった。

 明徳の乱の覚え方は一味悔いない(1391)明徳の乱。




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