【安政の五カ国条約とは】わかりやすく解説!!なぜ結ばれた?不平等な点・影響など

 

小学校から習っている日米修好通商条約は実はこの安政の五カ国条約の中の1つでした。

 

今回は、この安政の五カ国条約についてわかりやすく解説していきます。

 

安政の五カ国条約とは

(安政の五カ国条約 出典:Wikipedia

 

 

安政の五カ国条約とは、1858年(安政5年)に結ばれたアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国と結んだ条約の総称の事です。

 

日米修好通商条約は安政の五カ国条約の内の条約の1つでした。

 

 

条約締結までの流れ

(ペリー来航の様子)

 

1853年にペリーが来航して日米和親条約が結ばれました。

 

しかし、この時は下田と函館の2つを一応開港しただけでアメリカの船や人の立ち寄りはあったものの貿易自体はしていませんでした。

 

そこへアメリカ総領事として下田に着任していたハリスが通商条約の締結を要求してきました。

 

ハリスはもし貿易しなかったら戦争になるぞ!と脅したりします。脅迫されてしまった幕府はもうこの要求をこれ以上無視することはできず、1858年に幕府はアメリカと日米修好通商条約を結びました。

 

その同じ年、オランダと日蘭修好通商条約(7月10日)、ロシアと日露修好通商条約(7月11日)、イギリスと日英修好通商条約(7月18日)、フランスと日仏修好通商条約(9月3日)を結びました。

 

安政の五カ国条約の内容

 

①港の開港

安政の五カ国条約によってこれまで開いていた下田と箱館に加えて神奈川(横浜)・新潟・兵庫(神戸)・長崎の港を開港しました。

 

さらに江戸と大阪で外国人が商売することも許されるようになり、日本の鎖国は完全に終わりました。

 

ちなみにこの時の日本の主要輸出品はお茶と生糸です。

 

②領事裁判権の取り決め

条約によって日本は領事裁判権の取り決めもありました。

 

領事裁判権というのはわかりやすくすると『外国人が日本で犯罪をしたら、その外国人の法律で裁かなければいけない』というものです。

 

これは不平等な内容の1つでしたが、この時の日本の状況を見るとそう一概には見えないと思います。

 

考えてみてください。この時の日本は裁判所がない、まともな近代的な法律もない。さらに極め付けに外国人を殺したい武士たちがうじゃうじゃいるのですよ?

 

こんな国の法律なんて信用できるはずがありません。

 

③関税自主権の欠如

日本には関税自主権がありませんでした。

 

関税自主権というのは『ものを輸入するときにつけられる関税の税率を決める権利』というものです。

 

つまり、日本は関税の税率を自分で決められなかったのです。そのため外国の商品がどんどん入ってきます。そうなると日本の商品が売れなくなってしまい、商品を作って売っている人は大ダメージを受けてしまいます。そうなるとどんどん民衆の生活は苦しくなってしまいました。

 

ちなみに、条約が結ばれた時の関税は意外にも20パーセントというまだまだ妥当なものでしたが、改税約書によって5パーセントとなってしまいました。

 

その結果、民衆の生活は苦しくなってしまいました。

 

 

④片務的最恵国待遇

最恵国待遇とは簡単に言えば『他の国と不平等な条約を結んだら最恵国待遇を持っている国にも同じような条約を結ばなければいけない』というものです。

 

しかし、注目して欲しいのは最恵国待遇ではなく片務的というワード。片務的というのは一方的とほとんど同じ意味で本来なら条約を結んだお互いの国が持つのものを日本は持つことができませんでした。

 

なので不平等な内容の1つとなっています。

 

またこの他にも外国人の方も江戸と大阪以外に住むことは出来ず、肝心の生糸などの商品は日本の商人が決めた価格でしか買うことができなかったというデメリットもありました。

 

安政の五カ国条約を結んだ影響

(孝明天皇の肖像画 出典:Wikipedia

①朝廷との確執

安政の五カ国条約は当時大老だった井伊直弼が調印したものです。

 

しかし、ひとつだけ大問題がありました。それは孝明天皇が大の外国人嫌いだったということ。

 

孝明天皇は日本がいきなりやってきた外国人によって汚されることを恐れており、これらの条約を認めませんでした。

 

さらに当時の朝廷では外国人を武力によって追い出そうとすると攘夷派の公家たちが勢いがよかったのもあって、公家たちは天皇の許しである勅許を待たずに調印した条約は無効であるとして、さらに条約を結んだ井伊直弼をを非難し始めました。

 

その結果、朝廷と幕府との間でいざこざが起き始めることになり、安政の大獄や桜田門外の変などの事件の引き金となるのです。

 

 

②ロンドン覚書

幕府は朝廷とのいざこざを理由になんとか条約を発効するのを延期させようとします。

 

フランスとの交渉は失敗に終わりましたが、イギリスとはお酒の関税の税率を下げる代わりに1862年にロンドン覚書を締結してなんとか開港の延期を決めました。その後イギリスの働きかけもあってフランスなどの国々も開港の延期を決めました。

 

③改税約書

改税約書とは、安政五カ国条約の中に含まれる関税の改訂協約のことです。

 

イギリスとフランスとオランダはいつまでも頑固な孝明天皇を脅そうと京都からほど近い神戸にやってきて公家たちを脅しにかかりました。

 

イギリスからしたら『孝明天皇のせいで上手い事いかない!』と思っていた為、無理矢理でも孝明天皇に条約を認めさせなければならなかったのです。

 

その結果、幕府は下関艦隊砲撃事件などの賠償金の請求と合わせてこれまでは35%であった関税が、商品を問わず全部5%となってしまいました。

 

 

そして、これまでなんだかんだで輸出国だった日本は一気に輸入国へと変わってしまい、さらに安い外国商品がどんどん入ってきて国内の産業は壊滅に追い込まれてしまいました。

 

その結果、民衆はどんどん『弱腰の幕府を倒さなくては!』と思い始めるようになり、最終的には倒幕へと繋がっていくのです。

 

まとめ

・安政の五カ国条約とは1858年に結ばれたアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国と結んだ条約のこと。

・安政の五カ国条約は領事裁判権や関税自主権が無いなど日本にとってはかなり不平等な条約だった。

・安政の五カ国条約によって下田と箱館に加えて神奈川(横浜)・新潟・兵庫(神戸)・長崎の港を開港して、さらに江戸と大阪で外国人が商売できるようになった。

・条約が結ばれた後、改税約書が無理矢理結ばれ、日本の産業は壊滅的なダメージを受けた。