【治安警察法とは】簡単にわかりやすく解説!!制定された背景や内容・その後など

 

明治中期~後期に制定された「治安警察法」。

 

この法律が制定される時代は、労働運動などが出現し始めた時期であり、この取り締まりを行うために法律が制定されました。

 

昭和期に制定された治安維持法とは異なる性質を持っている事も理解しておく必要があります。

 

今回は『治安警察法』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

治安警察法とは?

 

治安警察法とは、1900年(明治33年) 山形有朋内閣の時に発布された「労働運動・農民運動を取り締まる目的の法律」です。

 

政治活動の規制を行う法律には、集会及政社法や新聞紙条例がありましたが、労働運動の取り締まりまで規定されていませんでした。

 

日清戦争前から起きた企業勃興に伴う労働者層の拡大と彼らによるストライキをはじめとした労働運動を取り締まる必要が生じたため生まれた法律となります。(日本の戦前における弾圧の歴史を表す法律の一つとなります)

 

日本の労働・農民運動を取り締まるために作られた法律でしたが、歴史が進んでいく中で政治的な弾圧を目的とする法律に転じていく事となりました。

 

治安警察法が制定された背景

①自由民権運動と政府の弾圧

治安警察法が制定される前の日本において指導による労働運動と呼べるような物はなく、政府に対しての活動といえばもっぱら政治活動でした。

 

明治初期から自由民権運動が活発にみられ、これに対して政府側も運動を弾圧するために様々な対策を取っていきました。

 

 

集会・結社を阻害するための「1880年の集会条例」や発展した形で制定された「1890年の集会及政社法」「1887年制定の保安条例」「1875年に制定された讒謗律新聞紙条例」によって統制を行います。

 

 

しかし、そのような自由民権運動も帝国議会の開催や総選挙に伴い、派手な活動は少なくなっていきました。

 

国会開設以前にみられた激化事件などはなく、政府・政党の対立が帝国議会の場で行われるものに変わっていったためです。

 

そのような中で新たに生まれた運動こそが、労働運動でした。

 

①労働運動の誕生

日本では明治維新による文明開花が起こり、急激な工業化が進行していました。

 

その中で数多くの労働者が誕生しましたが、その労働者の権利は認められておらず、またその生活状況すらも把握されていませんでした。

 

日清戦争前である1880年代後半より企業勃興が起き、日本式の産業革命が訪れたといわれています。

 

 

そのころから劣悪な環境で働かされる労働者によりストライキなどが起こるようになりました。

 

1897年、高野房太郎片山潜といった社会運動家によって労働組合期成会が生まれました。

 

 

(1884年 25歳の片山潜 出典:Wikipedia)

 

 

職工義友会をベースにして作られたこの団体はアメリカの労働組合を参考にしたとされており、日本の中で初めて本格的な労働組合だったといわれています。

 

ここから鉄工組合、日本鉄道矯正会、活版工組合といった業界別の労働組合が生まれることになるのです。

 

また、1899年に横山源之助が発表した「日本之下層社会」により労働者や小作農民の実情が明らかとなっていきました。

 

政府側としては、自由民権運動に代わる新たな運動に対して注意していく必要が生じていきました。

 

治安警察法の内容詳細

(山形有朋 出典:Wikipedia)

 

 

1900年(明治33年)、第二次山形有朋内閣は治安警察法を制定しました。

 

前述のとおり、一連の労働運動や農民運動を取り締まるためのものとして制定されていて、主に労働運動の取り締まりを目的とした法律となります。

 

自由民権運動の抑制を目的とした集会及政社法を発展させ、労働運動の規制が行えるようにして制定されました。

 

元々大日本帝国憲法において、言論・出版・集会・結社の自由は、現行の日本国憲法に比べれば人権の範囲は限定的ではあるものの、当時の国際社会と比較すればまずまず認められていました。

 

しかし、治安警察法によって制限が行われます。

 

主な内容としては、労働運動における団結権の禁止ストライキ活動の禁止(17条)があげられます。

 

また、政治結社に関する条項として5条にて軍人や警察官、新刊の僧侶、教員などの職種のものに加え女性や未成年者が政治結社に加入する事を禁じました。

 

それだけではなく、政治結社の集会にも女性や未成年者が向かえないことになりました。

 

同法の制定までは女性は自由に政党結社へ加入する事が出来ていましたが、禁止となったため後の女性解放運動の要因の一つとなっていきます。

 

また、集会の実施には開会前に警察署に対して届け出をしなければならなくなり、警察官の裁量により制限・禁止・解散が行えるようになったため、結社や集会を自由に行う事は事実上困難となりました。

 

警察権が高まった法律であるとも言えます。

 

治安警察法施行後の日本

 

治安警察法の制定により、労働運動の取り締まりが行われました。

 

これにより労働組合期成会は法律制定翌年の1901年に解散する事となります。

 

また1911年、明治天皇への暗殺計画を行ったとされる幸徳秋水らが起こした大逆事件に伴い、社会運動を対象とする警視庁内の専門部署として特別高等課(通称:特高)が設置されますが、その根拠法として治安警察法が運用されました。

 

 

①治安警察法の改正

治安警察法は1901年に制定されてから二度改正される事となります。

 

一度目は1922年に行った第5条2項の改正です。この条例は前述のとおり、政治結社に参加できる人物に関する法律でした。

 

これの改正運動が1900年代より起き、政治参加を訴える女性により行われました。

 

1905年~1909年までは平民社に出入りしていた女性が主となり5条の改正を願う嘆願書が出されていました。

 

1911年には平塚らいてうらにより青鞜社が誕生し、女性解放運動が進んでいきました。

 

 

(平塚らいてう 出典:Wikipedia)

 

 

そして1919年に設立した新婦人協会も改正運動を引き継いでいきました。

 

これにより、1922年に第5条2項の内容を改正させ、女子の政治活動に出席する事を可能としました。

(ただし、第5条1項についてはそのまま改正されなかったため、一部改正にこぎつけた程度となりました)

 

もう一点改正されたものがあります。

 

それは1926年に行われた17の削除。

 

第17条はストライキの制限や団体交渉権に関する内容を規定する項目でした。政府内部だけでなく対外的にも批判されていたため、削除されました。

 

ただし、同様の法律として暴力行為等処罰ニ関スル法律が制定されます。

 

この法律は現在も残っており、現在では暴力団による不法行為を取り締まるための法律となっていますが、元々は政府による労働運動の封じ込めを目的として制定された法律でした。

 

農民や労働者の純粋な運動を標的とするのではなく、共産主義者らを狙い撃ちするような形の法律へと切り替わっていったのだといえます。

 

②治安維持法との違い

治安警察法に似た法律として、治安維持法があります。同法は1925年に制定されました。

 

 

ソ連の革命達成により、世界が共産化していくのではないかという不安から社会主義者を取り締まる事を目的として制定された法律です。

 

そのため、元々は治安警察法とは異なる質のものといえます。

 

また、目的も治安警察法が政治結社・労働運動の取り締まりである一方、治安維持法は社会主義者や国体維持を妨げる人物を取り締まるための法律でした。

 

特にこの法律が問題であったのは1928年の改正による政治犯の死刑を実質的に認める改正案でした。

 

元々抗議の社会運動ではなく、共産主義的な社会運動家を狙い撃ちにしようとしていた点で異なります。

 

なお、治安警察法と治安維持法は戦後すぐに廃止となっています。どちらもGHQの指示によってなされました。

 

まとめ

 治安警察法は労働運動の高まりとともに制定された、労働運動などを取り締まるための法律であった。

 弾圧の対象にされた自由民権運動から労働運動に弾圧の対象が切り替わった。

 治安警察法によって女性の権利が妨げられることになった。

 治安警察法と治安維持法は似ている法律であるが多くの点で異なっている。