【足利義輝の生涯とは】「麒麟がくる」で登場!!人物像や歴史年表をわかりやすく解説!

 

足利義輝と言えば、激動の最中に足利幕府13代将軍に就任するも志半ばで無念にも亡くなった悲劇の将軍です。

 

義輝は13代将軍ですが、足利幕府は15代で幕府としての役割を終える事となります。

 

 

義輝が将軍に就任したときには、すでに足利幕府は終焉に差し掛かっている中であり、義輝は混迷とした時代情勢に巻き込まれた悲運の将軍と言ってもいいでしょう。

 

大河ドラマ「麒麟がくる」でも登場しますが、どのように明智光秀と関わって行くのでしょうか?

 

そんな悲運の将軍として有名な義輝ですが、果たしてどのような人物だったのでしょうか?早速見て行きましょう!

 

足利義輝の生涯

(足利義輝 出典:Wikipedia)

 

足利幕府12代将軍足利義晴の長男として正室慶行院との間に生まれた義輝は、生まれながらの御曹司ですが、決して順風満帆な人生ではありませんでした。

 

生まれたその時から壮絶な人生は、既に始まっていたのです。

 

それでは、現在判明している範囲で足利義輝の経歴をご紹介します。

 

 

足利義輝の生涯年表

 

  • 1536年 誕生
  • 1546年 将軍就任、若干11歳であり当面は、父義晴が後見となる
  • 1549年 江口の戦いで三好長慶と戦うも大敗し京を脱出する
  • 1550年 中尾城の戦い、その直前父が死去する
  • 1552年 三好長慶と和解し京へ戻る
  • 1553年 東山霊山城の戦いで義輝自ら和睦を破棄した事で戦となる
  • 1558年 北白川の戦いで再び和睦し京へ戻る
  • 1565年 永録の変で事実上暗殺される

 

生まれながらの将軍と言えば、徳川幕府では三代将軍徳川家光が有名ですね!

 

将軍就任時に〈生まれながらの将軍である〉と言わしめたと言われていますが、出自上は、義輝もその一人と言うべきです。

 

しかし、混迷とした足利幕府の終焉期に誕生した彼は、生まれながらの将軍でありながら、将軍としての権威を擁立させる所か、家臣のクーデターによってその生涯を閉じるのでした。

 

それでは、ここからは足利義晴の人生像や彼が歩んできた歴史を詳しく振り返っていきましょう。

 

足利義輝の生涯に迫る!

 (足利義輝木像 出典:Wikipedia)

 

義輝は言わば御曹司として生まれてきましたが、誕生時の父義晴は、官領の細川晴元と争っており、すでに幕府の力は低迷期と言ってもいい時期でした。

 

父義晴もそれを打開するべく奮闘していましたが、すでに時は戦国の世将軍という権威だけでは、事は起こせない世の中となっていました。

 

義輝も足利幕府の権威復権に務めるもその夢は叶わず、非業の死を遂げ義輝の意思を継ぐべく弟義昭が混乱の末15代将軍に就任します。

 

しかし、足利幕府の権威は復権されるどころか、各地の戦国大名の台頭により、義昭の代で足利幕府の幕を閉じる事となるのでした。

 

ここからは、これらの生足利義輝誕生から亡くなるまでの過程を詳しく解説していきます。

 

①11歳にして足利義輝が将軍就任へ!

足利義晴.jpg

 (足利義晴像紙形 出典:Wikipedia)

 

12代将軍足利義晴の長男として正室慶行院の間に誕生した義輝は、生まれた時から嫡男として期待を一心に受けました。

 

足利家では、代々日野家から正室を迎えていましたが、慶行院は摂関家である近衛家から初めて嫁いできた姫で、その慶行院が嫡男を生んだとなれば周りの人々の喜びもひとしおだったでしょう。

 

弟義昭が幼くして仏門に入る中、両親の元で手塩にかけて育てられますが、すでに幕府の権威は失墜しかけており、幼少期から京と近江への往来を余儀なくされました。

 

それでも、父の義晴が自分の存命中に我が子を将軍として確立する事で義輝の将軍就任をスムーズに行いたいと考え、若干11歳にして将軍に就任させます。

 

父としても将来を嘱望される息子に安定的に将軍へのレールを敷きたかったのでしょう。

 

②長きに渡る三好長慶との戦い

三好家は、元来足利幕府の官領である細川晴元に属する家であったが、畿内で絶大勢力を高めつつあり、幕府での三好政権を樹立すべく晴元を裏切るのでした。

 

しかし、義輝は戦に敗北。その後、長慶の暗殺を試みるも失敗するなどし、長慶の勢力をもはや止める事ができませんでした。

 

(三好長慶像 出典:Wikipedia)

 

和睦して京に戻っても義輝側が和睦を破り再び合戦となったり、再び和睦して何とか京に戻ると言う体を繰り返しており、もはや義輝側には家臣筋に過ぎない長慶を武力で抑える力はなかったと言っていいでしょう。

 

建前上は、和睦するもお互い鬱憤のたまる関係であったと言えます。

 

足利幕府復権へ

義輝の何よりの願望は、衰退しつつある幕府の権威復権でした。

 

足利幕府の権威失墜は、過去の家督争いから始まる戦国の習わしに始まり、力ある者であれば下克上を成し遂げると言う時代の気風とも相まって、幕府は高い権威を保つ事が出来ませんでした。

 

また、各地の戦国大名の台頭により、足利幕府その物を脅かす存在となりつつありました。

 

将軍自らが強い権威を持ち強権政治を行う事を望んだ義輝は、それを実現させるべく各地の戦国大名のいさかいを将軍として諌めるなど権威復権に務めました。

 

しかし、幕府全体がその意向を望んだかというと、残念ながらそうではなく自らの言いなりとなる将軍を就任させ、権力を握らんとする三好三人衆は、義輝の従兄弟に当たる足利義維を将軍に樹立しようと動き始めます。

 

さいごは義輝は、挙兵した三好三人衆によって、取り囲まれると自ら自害したとも敵によって、刺し殺されたとも言われ現役将軍としては、あまりにも非業の死でした。

 

後の足利幕府…

義輝暗殺時には、義輝の側近やその家族及び義輝の生母慶行院や側室弟も惨殺され、義輝の身内は、粛清される事となりました。

 

一時は、義輝の弟である義昭も幽閉される事となるも、義輝の側近の助力によりそれを抜け出しました。

 

幕府内では痛風の義維に代わり、その子である義栄が14代将軍に就任するも足利幕府の正当後継者であると名乗りあげた義昭が混乱の末各地の大名の力を借りながらも15代将軍として就任します。

 

(足利義昭像 出典:Wikipedia)

 

しかし、織田信長によって、時はすでに足利幕府の時代ではなく、当初は良好の関係を保っていた義昭も信長に奮起を翻しました。

 

 

ですが、結局京から追放され、足利幕府は終焉を迎えるのでした。

 

後に義昭は、前将軍と言う略歴から豊臣秀吉から一万石を拝領し、大名として復帰するも代々将軍家でありながら最後には一万石の大名へと成り下がる事となるのでした。

 

その後子孫達は、各藩の家臣として仕え姓を変えるなどし、生き残るも大名家として残る事はありませんでした。

 

ここで個人的な推察!

 

幕府復権の為に尽力した義輝ですが、本来であれば悠々自適の御曹司ながら不運な時代に生まれ将軍でありながら、その立場は非常に危うい物でした。

 

ただそんな背景に育ったせいか剣豪塚原ト伝に弟子入りし、大変武勇に優れた人物であったようです。

 

しかし、どんなに剣の道を極めても将軍一人では、戦う事も出来ない訳でかねてよりの足利幕府の混乱のせいとは言え、悲運な将軍と言わざるを得ません。

 

義輝にもっと付き従う家臣が多ければ、足利幕府は、もっと違う運命を辿っていたように感じます。

 

ただ、元々戦国の世の流れを作ったのは、足利幕府の家督争いであり、足利家自らが作った元凶により滅んで行ったとも言うべきでしょうか?

 

麒麟がくるで足利義輝を演じるのは向井理さん!

そんな悲劇の将義輝を演じるのは、イケメン俳優の向井理さんです!

 

 

イケメン俳優として知られる向井理さんですが、近年では、女優の国仲涼子さんと結婚されイクメン俳優としても名を上げています。

 

過去の大河ドラマでは、「江~姫たちの戦国~」で主人公江の三人目の夫となる徳川幕府二代将軍徳川秀忠を熱演されました。

 

コミカルな役から正統派の役まで幅広くこなせる俳優さんですね!

 

果たして悲劇の将軍義輝をどのように演じてくれるのか楽しみです!

 

まとめ

まとめ

 

 足利義輝は前の将軍の長男にして正室の子であり、生まれながらの御曹司。

 

 幼少期の時点で幕府は、すでに揺らいでいた。

 

 義輝は11歳と言う若さで将軍就任になった。

 

 長きに渡る三好派との戦いで和睦と戦闘を繰り返す。

 

 和睦後は、足利幕府の復権の為尽力する。

 

 結局、義輝は三好派によって暗殺され30歳と言う若さで亡くなる。

 

 弟義昭が意思を継ぐもあえなく幕府は、崩壊する。