自由民権運動を取り締まるため、多くの法律が制定されました。
ただ、一つ一つの法律を覚えるのは非常に大変ですよね。また、似たような法律もいくつかあります。
その中でもよく間違えられるのが、保安条例と集会条例です。
この二つの条例は集会・結社の禁止をうたったものですが、どのような違いがあるのでしょうか。
今回は特に保安条例についてわかりやすく解説していきます。
目次
保安条例とは?
保安条例とは、1887年(明治20年)に制定された法律です。
自由民権運動を取り締まるために出されたもので、大同団結運動(1886年〜1889年)のさなかに起きた三大事件建白運動をきっかけとして制定されました。
この条例によって集会・結社の禁止、また運動の中心人物は皇居より三年間3里以外への退去を命じられました。
保安条例の制定背景・目的
①大同団結運動と三大事件建白運動
1886年に星亨を中心に始まった大同団結運動。
大同とは大体同じという意味ですが、自由民権運動を推進する人々が党を超えて団結しようという運動です。この運動は1889年まで続きました。
その大同団結運動が盛り上がりを見せていた1887年、片岡健吉は三大事件(租税の軽減・言論集会の自由・外交政策の挽回)の建白書を元老院に提出します。
これをきっかけとして、三大事件建白運動が起きました。
三大事件建白運動を契機として、星亨や後藤象二郎などを中心に大同団結運動が一層の盛り上がりを見せることになりました。
②保安条例の制定
そのため、日本政府はこれらの運動を取り締まる必要から、条例を制定・施行する必要がありました。
その結果、1887年の12月に制定されたのが保安条例です。
今では考えられないことですが、人々が自由に政治などについて議論することは認められていませんでした。
一般の人々が政治について論じることを「不穏なこと」「世の中を乱すこと」としていたのですね。
また、集会をして政治について議論をしたり、政治に関して何か書くことも禁止されました。
こういった日本政府にとって「世の中を乱すこと」だとされた運動を推進した自由民権運動者を取り締まるため、保安条例が制定されました。
保安条例の内容
(言論弾圧の諷刺画 引用元)
保安条例は全7条からなりますが、大きく4つにまとめることができます。
保安条例の内容
第1条 秘密の集会・結社の禁止
第2条 集会禁止を警察官の判断で命じることができる
第3条 政府に不利になる出版物・印刷物の発行禁止
第4条 刑罰対象者は3年間、皇居より3里(約12km)圏内への出入禁止
1887年12月26日に施行されてから3日間の間に、星亨や片岡健吉、尾崎行雄など570人が退去を命じられたと言われています。
主に、集会・結社の禁止、3年間皇居より3里(約12km)圏内への出入禁止を覚えておくとよいでしょう。
集会条例との違い
保安条例と同じく自由民権運動を取り締まるために制定された集会条例(1880年)でも、集会・結社の禁止がうたわれていました。
二つの条例は内容が似ていますが、保安条例と集会条例の違いはいったいどこにあるのでしょうか。
①保安条例は集会条例を厳しくしたもの
保安条例は簡単に言うと集会条例を厳しくしたものです。
集会条例の場合、集会・結社を禁止しただけでしたが、保安条例の場合は皇居より3里外への退去を命じることができる点で大きな違いがあります。
3年間の3里外で覚えましょう。
②きっかけになった事件の違い
まず、保安条例と集会条例には、それぞれきっかけとなった事件があります。
○集会条例→国会期成同盟(1880年)
板垣退助が大阪で結社した団体が愛国社で、その愛国社は板垣退助が抜けるなどして一度消滅しますが、1878年に再度再建されます。
その愛国社が発展したものが国会期成同盟という団体です。
1880年に国会期成同盟が結成されると、政府は集会条例を出して取り締まりました。
○保安条例→大同団結運動・三大事件建白運動(1887年)
制定背景で説明したように、大同団結運動が先に起こって、その最中に三大事件建白運動が起こります。
これをきっかけとして保安条例が制定されました。
政府としては、条例を制定することで早めに運動の弾圧しようとしました。
一つ一つを覚えていくことは大変ですので、条例ときっかけになった事件を一緒に覚えてしまうとテストなどでも解答しやすいと思います。
自由民権運動期の条例と事件は、セットで覚えるようにしましょう。
保安条例の影響とその後
保安条例が制定され、その後自由民権運動は終息に向かうようになりました。
しかし、政府の弾圧により運動が終息していったというよりも、むしろ自体は政府の期待と逆方向に進んでいきます。
これは自由民権運動論者が望んでいた言論の自由や、出版の自由などが認められるようになったからです。
保安条例から3年後の1890年、帝国議会が開設され、同じく言論の自由などを保障した大日本帝国憲法が制定されます。
政府は取り締まりを強化し、自由民権運動の中心人物たちを苦しめましたが、その後自由民権運動派の人々が活躍しているのをみると、その影響はむしろ自由民権運動論者にとって良い方向に働いたのかもしれません。
尾崎行雄などは東京を追放されていた期間、アメリカやイギリスに留学し力をつけていました。
自由を拘束することは、政府といえどもできないということでしょうか。
結果的に保安条例は、1898年に廃止されました。
保安条例で追放された人物
保安条例によって、多くの人物が東京から追放されてしまいました。
主な人物は以下のようになります。
①星亨
(星亨 出典:Wikipedia)
大同団結運動を推進した星亨(ほし とおる)は、自由民権運動の中心人物。
当然、彼は追放されてしまいます。
その後、1888年には政府批判文書によって出版条例(1869年)にも引っかかってしまい、投獄されてしまいます。
②片岡健吉
(片岡健吉 出典:Wikipedia)
三大事件建白運動の中心者であった片岡健吉(かたおか けんきち)は当然、東京を追放されてしまうことになりました。しかし、彼はそれを拒否。
そのため、2年6ヶ月の禁固刑となりました。
③尾崎行雄
(尾崎行雄 出典:Wikipedia)
のちに文部大臣や司法大臣、東京市長にもなる尾崎行雄(おざき ゆきお)も保安条例によって追放されてしまいました。
その後、1890年の第一回衆議院議員選挙によって当選。
長らく政界の第一線で活躍し、大正時代の護憲運動を主導した一人です。
④中江兆民
(中江兆民 出典:Wikipedia)
ルソーの思想を日本に紹介し「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民(なかえ ちょうみん)。
自由民権運動の思想的中心人物であった彼も、大同団結運動に関わったため東京から追放されます。
しかし、1890年の大日本帝国憲法発布による恩赦で追放が解除されると、大阪で出馬し第一回衆議院議員選挙で当選。
弟子にジャーナリストで大逆事件で有名な幸徳秋水がいます。
まとめ
✔ 保安条例は、1887年(明治20年)に制定された。
✔ 保安条例は大同団結運動と1887年の三大事件建白運動がきっかけとなったもの。
✔ 集会条例との違いは、きっかけの事件と皇居より3里外への退去を命じた点。
✔ この条例により星亨や片岡健吉、尾崎行雄、中江兆民などが追放された。