【徳川家康の年表】簡単・小学生向け!!代表的な出来事を詳しく解説!

 

江戸幕府を開いた徳川家康。

 

江戸幕府は約200年も続いたとされていますが、江戸幕府を開くまで、徳川家康は賤ヶ岳の戦い・小牧・長久手の戦い・関ヶ原の戦いなどのいろいろな戦いに参加しました。

 

戦国時代を終わらせた人物とされる徳川家康はいったいどのような人生を送ってきたのでしょうか?

 

今回は徳川家康の年表と主な出来事を紹介していきます。

 

徳川家康の年表

(織田信長 出典:Wikipedia)

 

それぞれの違い

 

  • 誕生 1543年1月31日(0歳)

徳川家康は松平広忠の長男(跡取り)として今の愛知県岡崎市にある岡崎城で生まれました。

 

  • 織田氏につかまる 1547年8月2日(6歳)

徳川家康は今の静岡県東側(駿府)を支配していた今川氏の人質として駿府に行く予定でした。しかし駿府に行くまでに、今の愛知県西側(尾張)を支配していた織田氏につかまってしまいます。

 

  • 今川義元の人質となる 1549年(8歳)

織田氏につかまってしまった徳川家康でしたが織田氏から解放され、もともと人質として送られるはずであった今川義元の人質となります。

 

  • 元服と結婚 1555年3月(13歳)

今川義元の人質であった徳川家康は駿河で元服をおこないました。(元服とは成人を迎える儀式のようなものです)このとき、今川義元の親戚の瀬名とよばれる女性と結婚しました。

 

  • 初陣 1558年2月(16歳)

15582月、鈴木重辰との戦いに参加し勝ちます。徳川家康にとって初めての戦いとなりました。

 

  • 桶狭間の戦い 1560年5月(18歳)

今川義元が尾張国を支配していた織田信長と戦いを始めます。この戦いは桶狭間の戦いとよばれ、今川義元は織田信長に負け亡くなってしまいました。今川義元が亡くなり自由になれた徳川家康は、今川氏からはなれて自分で行動するようになります。

 

  • 清洲同盟を結ぶ 1562年(20歳)

今川氏からはなれ自分で行動するようになった徳川家康は、今川義元に勝った織田信長と手を結び(同盟を結び)ました。これは清州同盟と言われています。

 

  • 家康と名乗り始める 1563年(21歳)

このころから家康と名乗り始めます。

 

  • 今川氏に攻撃 1568年12月(26歳)

もともと家来としてつかえていた今川氏に、今の山梨県(甲斐)を支配していた武田信玄が仲間を連れて攻撃しました。すると徳川家康も武田信玄と一緒に今川氏に攻撃をするのでした。武田氏と徳川氏は今川氏に勝つことができ、今川氏が支配していた土地をうばいました。

 

  • 三方ヶ原の戦い 1572年10月(30歳)

一緒に戦ったことのある武田氏とだんだんと仲が悪くなり、徳川氏と武田氏は戦うこととなりました。この戦いは三方ヶ原の戦いとよばれ、徳川家康は武田信玄に負けてしまいます。

 

  • 長篠の戦い 1575年5月(33歳)

徳川家康は織田信長と一緒に、長篠の戦いで武田信玄の息子の武田勝頼と戦います。この戦いで武田勝頼は逃げていきました。

 

  • 甲州征伐 1582年2月(40歳)

徳川家康は織田信長と一緒に、また武田氏と戦うこととなりました。この戦いは甲州征伐とよばれています。この戦いで負けた武田氏の武田勝頼たちは自害(自殺)し、武田氏は滅亡となりました。

 

  • 本能寺の変が起こる 1582年6月(40歳)

徳川家康が大阪の堺に出かけていたとき京都で本能寺の変が起こります。本能寺の変とは仲の良かった織田信長部下の明智光秀に裏切られ亡くなった事件です。

 

  • 清須会議 1582年740歳)

織田信長が亡くなったあと、織田信長の後継者を決める話し合いが行われました。この話し合いは清須城で行われたことから清州会議とよばれています。この話し合いで織田信長の孫の三法師が織田信長の後継者となりました。

 

  • 賤ヶ岳の戦い 1583年(41歳)

織田信長が亡くなったあと、織田信長の部下だった豊臣秀吉柴田勝家が権力を巡って戦を始めました。この戦いは賤ヶ岳の戦いとよばれ、徳川家康は豊臣秀吉に味方し、柴田勝家に勝ちました。

 

  • 小牧・長久手の戦い 1584年4月(42歳)

織田信長と柴田勝家が亡くなったあと、権力を持ったのは豊臣秀吉でした。しかし、その豊臣秀吉に対し織田信雄(織田信長の次男)は不満を持ち、2人はけんかを始めます。徳川家康は織田信雄に味方したため豊臣秀吉と仲が悪くなりました。こうして織田信雄に味方した徳川家康と豊臣秀吉の間で戦いは始まったのです。この戦いは小牧・長久手の戦いとよばれ、約8か月という長い戦いとなりました。戦いのけっか、織田信雄と徳川家康は豊臣秀吉と仲直りする(和睦)こととなります。

 

  • 豊臣秀吉の部下になる 1586年(46歳)

小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉と仲直りした(和睦)あと、徳川家康は豊臣秀吉の部下になりました。

 

  • 5カ国を与えられる 1590年7月(50歳)

徳川家康は秀吉から今の静岡県東側(駿河国)、今の静岡県西側(遠江国)、今の静岡県西部(三河国)今の山梨県(甲斐国)、今の長野県、岐阜県中津川市の一部(信濃国)合計5カ国の土地を与えられました。そのあと、関東地方へと引っ越すこととなります。関東に引っ越した徳川家康は今の東京都千代田区千代田にある江戸城を家とします。

 

  • 五大老となる 1598年(58歳)

豊臣秀吉が病気になります。そのため豊臣秀吉は自分の後継者として息子の豊臣秀頼を選びましました。このとき、徳川家康はその豊臣秀頼のお手伝い役(五大老)となります。豊臣秀吉が亡くなったあとは豊臣秀頼の政治の手伝いを行いました。

 

  • 関ヶ原の戦い 1600年3月(59歳)

豊臣秀吉が亡くなると、また権力争いが始まります。徳川家康は自分と同じように豊臣秀吉の部下であった石田三成たちと仲が悪くなり、権力を巡って戦が始まりました。この戦いは関ヶ原の戦いとよばれ、徳川家康は石田三成に勝ちます。石田三成に勝った徳川家康は全国を支配することとなりました。

 

  • 征夷大将軍となる 1603年2月12日(62歳)

征夷大将軍(武士たちのリーダーのような仕事です)となり、江戸幕府を開きました

 

  • 大阪冬の陣 1614年11月15日(73歳)

関ヶ原の戦いに勝ち全国を支配した徳川家康でしたが、関ヶ原の戦いで負けた豊臣秀頼や豊臣家の人たちは徳川家康のやり方に不満を持っていました。そのことを知った徳川家康は不満を持つ豊臣秀頼を攻撃します。この戦いは大阪冬の陣とよばれ、戦いのけっか、徳川家康と豊臣秀頼は仲直り(和睦)することとなりました。

 

  • 大阪夏の陣 1615年5月(74歳)

1度仲直りした徳川家康と豊臣秀頼でしたが、また仲が悪くなり戦が始まります。この戦いは大阪夏の陣とよばれ、徳川家康は豊臣秀頼に勝ち、これによって豊臣家は滅亡となりました。

 

  • 禁中並公家諸法度、武家諸法度を制定 1615年7月17日(74歳)

徳川家康は禁中並公家諸法度、武家諸法度という決まりをつくります。

 

  • 病気で亡くなる 1616年4月17日(75歳)

徳川家康は病気75で亡くなりました。

 

 

    年表で紹介した主な出来事の紹介します!

    清州会議

    15826月、全国を支配していた織田信長が部下の明智光秀に裏切られ亡くなります。

     

    織田信長が亡くなったあと清洲城で話し合いが行われ、ここで織田信長の後継者が決められました。この話し合いは清州会議とよばれています。

     

    この話し合いで織田信長の後継者としてあげられたのは、信長の三男の織田信孝、そして織田信長の孫の三法師でした。

     

    話し合いのけっか、織田信長の孫の三法師が織田信長の後継者となりました。

     

    賤ヶ岳の戦い

    織田信長の孫の三法師が織田信長の後継者となりました。

     

    しかし、信長の三男の織田信孝を後継者にさせたがっていた柴田勝家と、信長の孫の三法師を後継者にさせたがっていた豊臣秀吉がけんかをしたため戦いが始まりました。

     

    この戦は賤ヶ岳の戦いとよばれ、徳川家康は豊臣秀吉に味方し、柴田勝家に勝ちました。

     

    清州会議と賤ヶ岳の戦いが行われ織田信長の後継者となった三法師でしたが、このとき、三法師はまだ小さい子供だったため豊臣秀吉が三法師の手伝いをすることとなりました。

     

    豊臣秀吉は織田信長の後継者となった三法師のお世話係でしたが、だんだんと力をつけていき全国を支配するようになりました。

     

    小牧・長久手の戦い

    豊臣秀吉が全国を支配したことに対し、織田信長の次男の織田信雄は不満を持つようになりました。

     

    豊臣秀吉と仲が悪くなった織田信雄は、父の織田信長と仲の良かった徳川家康に味方してくれるよう頼んだのでした。

     

    織田信雄から味方になるようにたのまれた徳川家康は織田信雄の味方となり15844月、豊臣秀吉と戦を始めます。

     

    この戦いは小牧・長久手の戦いとよばれ、約8か月もの長い戦いとなりました。

     

    戦いのけっか、織田信雄が勝手に豊臣秀吉と仲直り(和睦)をしたため、徳川家康も豊臣秀吉と仲直りすることとなりました。

     

    関ヶ原の戦い

    織田信長が亡くなったあと、徳川家康は全国を支配した豊臣秀吉の部下となりました。しかし豊臣秀吉は1598年、病気で倒れてしまいます。

     

    このとき、豊臣秀吉は自分の後継者として息子の豊臣秀頼を選びました。そのあとすぐ豊臣秀吉は亡くなります。

     

    豊臣秀吉の後継者となった豊臣秀頼は、これまで政治を行ったことがなく1人で政治を行うことはできませんでした。

     

    そこで、徳川家康が中心となった「五大老」石田三成が中心となった「五奉行」とよばれるメンバーが豊臣秀頼の政治のお手伝いをすることとなりました。

     

    豊臣秀頼の政治のお手伝いを行う徳川家康でしたが、だんだんと全国の支配を目指すようになります。これにたいし、徳川家康と一緒に豊臣秀頼のお手伝いをしてた石田三成は徳川家康が勝手な行動をしている、と怒り始めます。

     

    そのけっか、徳川家康と石田三成は仲が悪くなり16003月、東軍(徳川家康の仲間たち)、西軍(石田三成の仲間たち)に分かれ戦が始まったのでした。

     

    この戦いは関ヶ原の戦いとよばれ、徳川家康は石田三成に勝ちます。石田三成に勝った徳川家康は全国を支配することとなったのでした。

     

    大阪冬の陣

    関ヶ原の戦いで石田三成たちに勝った徳川家康は1603年、征夷大将軍(武士たちのリーダーのような仕事)となり、江戸(今の東京)江戸幕府を開きました。

     

    2年後の1605年には息子の徳川秀忠を征夷大将軍にさせます。

     

    たった2年で息子の徳川秀忠を征夷大将軍にさせたのは、これから征夷大将軍は徳川家の人間がなれるものである。といったことをみんなに教えるためでした。

     

    全国を支配することのできた徳川家康でしたが、関ヶ原の戦いで負けた豊臣秀吉の息子の豊臣秀頼とそのお母さんの淀殿は徳川家康に従おうとはしませんでした。

     

    徳川家康はなんとか自分の部下になるようお願いますが、豊臣秀頼と淀殿は全く徳川家康の言うことを聞かず、ついに怒った徳川家康は豊臣秀頼と淀殿に161411月、攻撃をしかけるのでした。

     

    この戦いは冬に行われたことから大阪冬の陣とよばれ、約20万人というたくさんの兵を集め豊臣秀頼と淀殿のいる大阪城を攻撃しました。

     

    しかし大阪城にたてこもる豊臣秀頼と淀殿は徳川家康の攻撃に必死にたえます。戦いのけっか、徳川家康と豊臣秀頼は仲直り(和議)することとなり、大阪冬の陣は終わりました。

     

    大阪夏の陣

    徳川家康と豊臣秀頼は仲直りしたとき、いくつかの約束事を決めていました。

     

    豊臣秀頼と仲直りした徳川家康でしたが、自分が生きている間に豊臣秀頼を倒さなければならないと考えはじめます。そのため約束事を破り16155月、また大坂城にいる豊臣秀頼淀殿に攻撃をしました。

     

    この戦いは夏に行われたことから大阪夏の陣とよばれています。15万人というたくさんの兵で攻撃をしかけた徳川家康に対し、豊臣秀頼はたったの5万人という少ない兵しかいませんでした。

     

    豊臣秀頼に対したくさんの兵を持つ徳川家康は豊臣秀頼と淀殿に勝ち、これによって豊臣家は滅亡となったのでした。

     

    まとめ

     徳川家康は今の愛知県岡崎市康生町(三河国)にある岡崎城で生まれた。

     今川義元の人質として子供時代を過ごした。

     有名な戦いは長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦い、大阪の陣(大阪冬の陣、大阪夏の陣)。

     織田信長、豊臣秀吉の部下となり関ヶ原の戦いで勝った後、そのあと約200年も続く江戸幕府を開いた。

     大阪夏の陣で豊臣秀吉の息子の豊臣秀頼を倒し、豊臣家を滅亡させた。