日本は幕末に開国をしてから多くの外国と交易や条約を結びました。
その条約は公平や不平等かもわからず、「とりあえず今の時代は問題ないから結んでおけ!」って感じで結んでしまいます。
それが明治期になって不平等条約の内容が国際問題になりかける事件を生んでしまいます。その国際問題になりかけた国は大英帝国こと『イギリス』との間で起こったノルマントン号事件。
今回解説する日英通商航海条約は、日英との間の日本の不平等さの改善を大きく助けた条約です。
今回はそんな『日英通商航海条約』について、簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
日英通商航海条約とは
(日英通商航海条約 出典:Wikipedia)
①いつ
1894年(明治27年)7月16日に結ばれました。
しかし、この条約が実施されるのは1899年のことなので要注意です。
②誰の時に?
内閣総理大臣:伊藤博文(第二次)
天皇:明治天皇
外務大臣:陸奥宗光
ちなみにイギリス側の外務大臣はキンバーリーです。
③主な内容・なぜ結ばれた?
幕末に結ばれた日米修好通商条約で不平等な内容だった、治外法権を撤廃することを目的とした内容の条約です。
他にも領事裁判権の完全撤廃や関税自主権の部分的な回復、日本がイギリスとの対等関係を示す証となる最恵国待遇を相互化してお互いをフラットな関係にしました。
またこの条約が結ばれた1894年から1895年にかけて同じ内容の条約をアメリカ・フランス・ドイツ・ロシア・オランダ・イタリアなどの14か国とも結ばれ、これによって日本は西欧諸国と対等の立場になることができました。
※関税自主権の完全撤廃は1911年のことです。
日英通商航海条約の成立によって日本軍はイギリスの後ろ盾を得たので、1894年に清国との戦争である日清戦争の開戦を決意したと言われています。
日英通商航海条約を結んだ理由・背景
①互いの利害の一致
当時、ユーラシア大陸の大帝国であるロシア帝国は、年間を通して凍ることのない不凍港を制圧するため南へ侵攻する南下政策を画策していました。
人口や資源において西欧諸国を上回るロシア帝国が南下政策を成功させ、不凍港を獲得してしまうことにイギリスは脅威を感じていました。
そのため、イギリスはロシア帝国に近い日本の軍事力による南下政策の阻止を目的とし、日英通商航海条約を結ぶに至りました。
日本は上述した通り西欧諸国と立場を対等にするために日本にとって不利となる治外法権と関税自主権の撤廃を目的としていました。
この要因により、互いの国の利害が一致したので今回の日英通商航海条約を結ぶことになります。
また、日本が日英通商航海条約を結ぶことになった事件があります。それはノルマントン号事件です。
②ノルマントン号事件とは?
1886年に起きたイギリス船のノルマントン号が日本の紀州沖で座礁したことから始まった裁判事件です。
日本人乗船客の25人を見殺しにした疑いでイギリス人船長を裁判にかけました。
しかし、治外法権と領事裁判権が適用されてしまい、無罪となってしまいます。
当時欧化政策による日本の欧化で外国との対等関係を築くことによって、不平等条約の改正を目指していた内閣もこの事件による民衆の圧力により再審を行いました。
そして、有罪判決が下りましたが禁固刑3ヵ月と非常に軽い罪となり、死者への賠償金は支払われませんでした。
この事件は福沢諭吉や各新聞社を動かすくらいの一事件となりましたが、日英関係の悪化を考えてしまうと大きなことをできなくなり次第に収まってしまいました。
この事件をきっかけに日本は青木周蔵や陸奥宗光といった外務大臣を起用し、治外法権や関税自主権の撤廃を早急に行うべく条約改正に向けて対外関係の問題解決を加速していったのでした。
日英通商航海条約を結ぶ前の日英関係
ここでは日英通商航海条約を結ぶ前の日英関係について取り上げたいと思います。
日本とイギリスとの出会いは戦国時代からさかのぼります。
①戦国時代
1587年、イギリス人の航海者のトーマス・カヴェンディッシュはスペイン領沖でスペイン船を捕まえた後、乗船していた2人の日本人を自分の船に乗せました。
2人はキリシタンなので洗礼名しか残っておらず、唯一わかる名前がクリストファーとコスマスのみです。
2人は初めてイギリスの地へと足を踏み入れましたが、日本に帰る時に遭難してしまい、1592年に亡くなっています。
②江戸時代
1600年、オランダの商船であるリーフデ号が大分県に流れ着きました。
その船の航海士をしていたイギリス人のウィリアム・アダムズは徳川家康の目に留まり、外交顧問となりました。
その後、ウィリアム・アダムズは三浦按針と名を変え、残りの人生を日本で過ごしました。
そして、1613年には日本と正式な国交が始まりました。同年には平戸(長崎県北部にある島)に商館(商業施設)を設置しました。
しかし、競争相手であるオランダと貿易を巡る事件が発生によるイギリスとオランダとの関係の悪化と業績不振によって平戸の商館を封鎖し、事実上日本とイギリスの国交は断然しました。
江戸時代の後半になるとナポレオンによるヨーロッパ大陸制圧戦争の余波を受け、イギリス船のフェートン号が日本のオランダ商館を襲撃したこと(フェートン号事件)により、オランダと中国以外の外国船を警戒する異国船打払令を1825年に発布しました。
しかし、1840年に起きた中国とイギリスの戦争でありアヘン戦争によりイギリスや他の西洋国の脅威を認識し、1842年に異国船打払令を撤廃しました。
その後はアメリカのペリーが来航したことにより1854年にイギリスとも日英和親条約、1858年に日英修好通商条約を結びました。
▼5か国との不平等条約
開国後はイギリスの技術や軍事力を模範した文明開化を起こし、ノルマントン号事件を経て日英通商航海条約を結んだ経緯に至ります。
日英通商航海条約はどのようにして破棄されたのか?
陸奥宗光がこの条約を結ぶことに貢献したため、陸奥条約とも呼ばれる日英通商航海条約は1941年の7月にイギリスより破棄の通告を受け、破棄されました。
その後日本がイギリスに宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦するのはこの年の12月のことでした。
まとめ
・日英通商航海条約は1894年に結ばれました。しかし、この条約が実施されるのは1899年のこと。
・この時の内閣総理大臣は伊藤博文で外務大臣は陸奥宗光。
・内容は治外法権や領事裁判権の完全撤廃と関税自主権の部分的な撤廃。
・条約を結ぶきっかけになったのはノルマントン号事件。
・日本はイギリスと国交を始めたのは江戸時代のリーフデ号の日本漂流がきっかけ。
・日英通商航海条約は1941年に破棄され、条約のもつ力は失った。