【明治十四年の政変とは】わかりやすく解説!!きっかけや背景・影響について

 

明治時代は幕末で起きた討幕運動に大きく貢献した薩摩藩と長州藩が政治を動かした時代です。

 

当時はイギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国やアメリカに並び立つ技術と能力が日本にとって必要不可欠な状態でした。

 

その要素として、日本に憲法を制定することがとても重要でした。

 

日本を法で国家を治める法治国家にすることで、上記の国に対等な関係を築く要素を作り上げることを明治政府は考えていたのです。

 

そこで問題になったのは、どこの国の憲法や政治体制を参考にするかでした。

 

明治政府もそのことで大きく揉めてしまい、そこで起こったのが明治十四年の政変でした。

 

今回はそんな『明治十四年の政変』についてあらましから結果と影響まで、わかりやすく解説していきます。

 

明治十四年の政変とは

①いつ

1881(明治14)の時に起こりました。

 

この出来事が起こった年から、事件名を明治十四年の政変と名付けられました。

 

※同じようなことで、8年前の1873年に西郷隆盛が下野する(政治家を辞職し地元に帰る)ことになる明治六年の政変が起きています。

 

 

②中心人物

(大隈重信 出典:Wikipedia

 

 

伊藤博文・井上馨・大隈重信が中心となり起こりました。

 

伊藤博文と井上馨の2人が大隈重信と対立します。

 

③大まかな内容

自由民権運動の流れが憲法制定へと政治を動かそうとしている時、明治政府にも憲法制定について議論を迫られ、高まりをみせていました。

 

明治政府内では君主に政治の方針を委ねる君主大権を残すドイツのビスマルク憲法かイギリスの議院内閣制を採用した憲法にするか争いを繰り広げていました。

 

そして、ビスマルク憲法を支持する伊藤博文と井上馨が議院内閣制の憲法を支持している大隈重信を政界から追放した政治事件が起こります。

 

これが明治十四年の政変です。

 

明治十四年の政変は、近代国家の構想を決定付けた事件になりました。

 

この事件によって後に制定される大日本帝国憲法はドイツのビスマルク憲法の流れをくむ憲法となりました。

 

明治十四年の政変の背景『政変のきっかけ』

①憲法制定へ明治政府が議論を行う

明治10年代の明治政府は幕末三傑の1人である大久保利通が暗殺されて混乱している中、いつ憲法に基づいた国家を築く(立憲体制)のか疑問視されていました。

 

そのような状況の中で政府は立憲体制に消極的な岩倉具視を味方につけ、段階を追って着実に立憲体制を築こうとする伊藤博文、井上馨すぐにでも立憲体制に移行しようとしている大隈重信を中心に運営されていました。

 

そして、1880年に入ると自由民権運動の対応として消極的であった岩倉具視も立憲体制導入へと本腰を上げ、導入の方法について意見を求めます。

 

その中で、伊藤博文はそのことについて意見書を提出しました。

 

内容は貴族院設置のための華族制度の改革が主でした。

 

 

しかし、伊藤博文はどの国の制度を参考にするか明らかにはしません。

 

伊藤博文に前後して参議たちが意見書を提出する中、大隈重信は意見書の提出をしていませんでした。

 

大隈重信は1881年の3月に左大臣の有栖川宮熾仁親王に秘密裏に意見書を提出します。

 

内容はイギリスの議院内閣制を模範とした国家と早期の憲法制定と国会開設を主張しました。

 

しかし5月にこのことを知り、激怒した岩倉具視は井上毅に意見を求めました。

 

井上毅は岩倉具視の命令を受け、ドイツ帝国のビスマルク憲法を模範にした君主主義国家が日本のあるべき近代国家であるという意見書を提出します。

 

しかし、政府首脳陣はこれらのことを知ったのは6月末のことであり、激怒した伊藤博文は辞職をしようとしましたが、岩倉具視に止められて未遂に終わりました。

 

その間に井上毅は伊藤博文の友人である井上馨を味方に引き入れ、憲法制定の議会開催の時期の決定を求めました。

 

②大隈重信、政界を追放される

政界が混乱している最中、とある事件が起こります。

 

当時、北海道開拓を指導する開拓使の長官を務めていた黒田清隆が政界と繋がりのある実業家、五代友厚に国の所持品を格安で売ったことが明るみに出てしまいました(開拓使官有物払下げ事件)

 

 

この事件により前大蔵卿(大蔵大臣)である大隈重信は売った金額が安いことを理由に中止を主張します。

 

しかし、政府は官有物を売ることに賛成しているのに中止を主張するということは大隈重信は自由民権運動陣営(世論)と結託して政府を攻撃しようとしていると判断されました。

 

他にも大隈重信一派がこの事件を外に漏らしてしまったことも一因としてあります。

 

この事件をきっかけに伊藤博文らと大隈重信の対立は明らかなものとなりました。

 

伊藤博文は天皇が京都から外出している間に井上毅と大隈重信の辞職と10年後の国会開設などの方針を取り決めます。

 

そして天皇が京都に帰ってきた1011日に天皇参加の会議(御前会議)を経て、10年後に国会を開設する許可(国会開設の詔)が公表されました。

 

そして、伊藤博文は大隈重信邸に訪れ、辞表提出を促させ大隈重信は承認しました。

 

 

明治十四年の政変の影響

 

 

この政変により、岩倉具視や井上毅はドイツのビスマルク憲法導入により積極的になりましたが、伊藤博文はまだどちらにするか確信を持っていませんでした。

 

また、伊藤博文は岩倉具視と華族制度の改革に対して互いの見解の違いにより対立関係にありました。

 

このことにより、1882年には伊藤博文は岩倉具視の意志ではなく自分の意志でドイツへ憲法を学びに行きます。

(イギリスの憲法を学ぶことは自由民権派がやるので彼らが選ばないドイツの憲法を学んだということです)

 

ドイツでの伊藤博文はドイツの学者より日本はドイツのビスマルク憲法の条件に合っていることの説明を受けます。

 

そして、岩倉具視の死後1883年に本格的な憲法制定作業に取り掛かることになりました。

 

一方で政界から追放された大隈重信は10年後の国会開設に備えて新たな政党、立憲改進党を結成します。

 

また、現在の早稲田大学である東京専門学校を早稲田に開設し、再起を図っていました。

 

まとめ

・明治十四年の政変は明治14年(1881年)に起きた憲法制定を巡っての政争です。

・ドイツのビスマルク憲法を支持する伊藤博文とイギリスの議院内閣制を支持する大隈重信が争いました。

・大隈重信は開拓使官有物払下げ事件によって政界から追放されてしまい、伊藤博文を中心に憲法制定へ動き出しました。

・伊藤博文はドイツで日本はビスマルク憲法と相性がいいと言われたのでビスマルク憲法を参考に憲法を作り始めました。

・政界から追放された大隈重信は立憲改進党を結成し、10年後の国会開設に向けて再起を図っていました。