日本が満州事変を経て、日中戦争へと突入していく1930年代。

 

日本陸軍の中では皇道派統制派と呼ばれる、二つの大きな派閥が勢力争いを続けていました。

 

この勢力争いは陸軍内にとどまらず、政治の行方をも左右することになります。

 

今回は、『皇道派と統制派の違い』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

皇道派と統制派の違い

それぞれの違い

 

 皇道派・・・1931年の十月事件後、陸相・荒木貞夫とのちに陸軍大将になる真崎甚三郎が中心となって形成した陸軍内の派閥のこと。

 

皇道精神を唱えるなど、極端な精神主義の思想をもっており、急進派の青年将校に支持されました。

 

 統制派・・・永田鉄山や東条英機ら、参謀本部や陸軍省の中堅将校が形成した派閥のこと。

 

皇道派が目指したクーデタによる国家改造を否定し、政財界に接近することで合法的に軍事政権を樹立しようとしました。

 

1930年代前半の陸軍は皇道派が主流でしたが、相沢事件二・二六事件を経て、皇道派は衰退し、統制派が主流になりました。

 

当時の時代背景

①統帥権干犯問題の発生

19304月、民政党浜口雄幸内閣は、英米との協調を優先するため、海軍の反対を押し切り、ロンドン海軍軍縮条約に調印しました。

 

しかし、条約調印後、国内の軍人や右翼が、「条約調印は天皇の統帥権を侵害するものである」と主張する統帥権干犯問題を提起します。

 

 

政友会もそれに歩調を合わせて、内閣を激しく攻撃しました。

 

議会でのこうした激論により、条約の批准は難航を極めました。

 

ですが、最終的には元老・西園寺公望の強い後押しがあり、同年102日になんとか批准にこぎ着けました。

 

ところが、1114日、浜口首相が東京駅で右翼の青年・佐郷屋留雄に狙撃され重傷を負う事件が発生してしまいます。

 

そのため、これ以降は幣原喜重郎外相が臨時首相代理を務めることになります。

 

②三月事件の発生

19312月、幣原臨時首相代理は、衆議院の答弁でロンドン海軍軍縮条約への批判を封じる際、天皇が承認したことを引き合いに出したことで、議会を紛糾させてしまいます。

 

そこで、かねてより内閣に批判的だった陸軍中堅将校らは、この政治的混乱に乗じて、クーデタ計画を練ります。

 

これが三月事件と呼ばれるものです。

 

 

クーデタ計画は、参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎中佐ら、陸軍革新派の政治結社・桜会の幹部が立案したものでした。

 

これに、陸軍中央部の宇垣一成、杉山元、小磯国昭、津川美次、右翼の大川周明、岩田愛之助、社会民衆党の赤松克麿、亀井貫一郎らが加わりました。

 

当初の計画では、帝国議会開会中の320日に、まず大川が民衆1万人を動員してデモを起こし、議会を包囲した上で、さらに右翼が政友会、民政党本部、首相官邸を襲撃し、これに対して軍が治安維持のために出動する、という段取りになっていました。

 

そのうえで、軍の代表が帝国議会の議場に押し入って、内閣に総辞職を強要し、陸相・宇垣一成を新たな首相に据え、軍事政権を樹立することを目指していました。

 

ところが、実際に3月になると、宇垣と小磯が参加を拒否したため、クーデタ計画は中止されました。

 

③十月事件の発生

三月事件に失敗した橋本欣五郎中佐ら桜会幹部は、今度は関東軍の満州侵略計画と連携して、国家改造クーデタを起こす計画を立てていました。

 

そんな折、19319月、満州事変が勃発します。

 

 

橋本らはこれを機にクーデタを実行しようと計画を進めました。それが十月事件と呼ばれるものです。

 

今回の計画も、橋本ら桜会幹部が中心となり、右翼の大川周明、北一輝、西田税、橘孝三郎、井上日召らが加わりました。

 

そして、参謀本部第一部長の建川美次ら、陸軍の首脳部も、橋本らをそそのかす態度をとりました。

 

計画の内容は、19311021日に、桜会の将校率いる歩兵十数中隊、海軍航空隊が首相官邸をはじめとする政治・軍事・通信の中枢を襲撃する、というものでした。

 

当時満州事変の不拡大方針をとっていた若槻礼次郎内閣の閣僚ら、政党幹部、財界人を殺害・逮捕し、戒厳令を布告した上で、教育総監部本部長の荒木貞夫中将を首相に据えて、軍事政権を樹立することを目指しました。

 

しかし、計画は事前に漏れ、橋本らは1017日に憲兵隊に検挙され、クーデタは未遂に終わりました。

 

皇道派の特徴

(左:荒木貞夫 右:真崎甚三郎

①皇道派の形成

大正末期から昭和初期に至る1920年代後半、陸相・宇垣一成を中心に、宇垣閥と呼ばれる一大派閥が形成されました。

 

これに対抗して、荒木貞夫真崎甚三郎が中心となって形成した派閥が、皇道派と呼ばれるものです。

 

皇道派が活発になるのは、193112月に荒木が犬養毅内閣の陸相に就任してからです。

 

荒木は陸相になると、まずは三月事件と十月事件の関係者を、陸軍の中央から追い出すことを始めます。

 

そして、宇垣閥の将軍たちを予備役に編入したり閑職に付けたりした上で、空いた重要なポストを皇道派で固めました。

 

具体的には、荒木陸相、真崎参謀次長に続き、陸軍次官、軍務局長、人事局長、参謀本部第三部長、憲兵司令官、東京憲兵隊長などの要職を皇道派が占めました。

 

②皇道派の展開

また、荒木や真崎らは、陸海軍を「皇軍」と呼び、皇道精神を唱えるなど、極端な精神主義をとったことで、急進派青年将校たちの支持を得ました。

 

彼ら青年将校たちは、荒木・真崎体制のもとで、国家改造を実現しようとする運動を行いました。

 

これには、右翼の北一輝、西田税らも関わっていました。

 

皇道派はその後、1933年まで陸軍内の実権を握り続けました。

 

統制派の特徴

(左:永田鉄山 右:東条英機

①統制派の形成

皇道派が陸軍の実権を掌握する中、これに危機感を覚えた参謀本部の幕僚将校たちは、統制派と呼ばれる派閥を形成しました。

 

統制派は、軍中央部による軍の統制を重視し、政財界に接近しながら合法的に軍事政権を樹立し、国家総動員体制を構築するという方針をとりました。

 

当然、右翼と結び付き、クーデタを起こそうとする皇道派には批判的でした。

 

②統制派の展開

皇道派の中心となったのは、陸軍省軍事課長の永田鉄山でした。

 

Tessan Nagata 2.jpg

(永田鉄山 出典:Wikipedia)

 

永田は1931年の十月事件のころから、武藤章や東条英機らとともに政策の研究を行いました。

 

そして、19341月、陸相が荒木貞夫から林銑十郎に交替すると、永田は軍務局長に就任し、陸軍内の実権を握り、皇道派を一掃し始めました。

 

同年10月には、永田の影響力のもとで、陸軍省新聞班が「国防の本義と其の強化の提唱」というパンフレットを発表します。

 

そこでは、「国防強化のためには、経済機構などを改革する必要がある」として、挙国一致が唱えられました。

 

これは、陸軍が予算編成を見据えて行ったアピールでしたが、政党やメディアが猛反発して問題になりました。

 

結局、軍が釈明をしてうやむやになりましたが、これ以降、軍の政治的発言は強まっていきました。

 

③皇道派との共通点

統制派は皇道派に対抗して作られた派閥ではありますが、「軍事政権を樹立し、国家改造を実現しなければならない」という使命感をもっていた点は共通しています。

 

これは、満州事変から始まる1930年代の日本の国際的な状況に即応したものでした。

 

皇道派と統制派の対立

①対立の始まり

193411月、皇道派の青年将校が陸軍士官学校生徒を扇動してクーデタを計画したという容疑で逮捕される十一月事件(士官学校事件)を端緒にして、皇道派と統制派の対立は表面化しました。

 

統制派が皇道派に代わり陸軍の主流になっていく中、19357月には、皇道派の中心人物だった真崎甚三郎が教育総監を更迭される事件が起こります。

 

そして、対立は1935年~1936年にかけてピークに達します。

 

その象徴とも言える重大な事件が、相沢事件二・二六事件です。

 

②相沢事件

相沢事件とは、1935812日、陸軍中佐の相沢三郎が、陸軍省内で執務中だった軍務局長・永田鉄山を斬殺した事件のことです。

 

相沢はもともと皇道派の青年将校と親交があり、皇道派の思想にも共鳴していました。

 

そして、永田が政財界の手先となって軍を私兵化していると信じ込み、永田を殺害する決意を固めました。

 

相沢は翌19361月から軍法会議で裁かれ、死刑を宣告されました。

 

③二・二六事件

二・二六事件とは、1936226日未明に、皇道派の青年将校22人が歩兵約1500人を率いて起こしたクーデタ事件のことです。

 

彼ら青年将校たちは、統制派の拡大に反発して、皇道派の拠点であった第一師団の満州派遣をきっかけに、武力蜂起を起こしました。

 

右翼の北一輝らもこれに加わりました。

 

彼らは陸軍省、参謀本部、国会、首相官邸など、政治・軍の中枢を占拠し、陸軍中央部に国家改造を断行するように要請しました。

 

その中で、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監が射殺され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負いました。

 

陸軍ははじめ戒厳令を敷いて事態を収拾しようとしましたが、海軍や政財界がクーデタに反対しているのを見て、クーデタを起こした青年将校たちを「反乱軍」とみなし、彼らを武力で鎮圧する方針に転換しました。

 

その結果、同29日には反乱軍は鎮圧されました。

 

 

その後の日本

 

二・二六事件後、事件の首謀者である青年将校たちや北一輝らは死刑となりました。

 

また、統制派の寺内寿一陸相と梅津美治郎次官らは、陸軍内に残った皇道派を粛清しました。

 

これにより、陸軍は統制派が完全に実権を掌握しました。

 

まとめ

 1930年代、日本陸軍の中には皇道派と統制派と呼ばれる二大派閥が存在した。

 皇道派とは、陸相・荒木貞夫と真崎甚三郎が中心となって形成した派閥のこと。

 皇道派は、皇道精神を唱えるなど、極端な精神主義をとり、急進派の青年将校に支持された。

 統制派とは、永田鉄山や東条英機ら、参謀本部や陸軍省の中堅将校が形成した派閥のこと。

 統制派は、皇道派が目指したクーデタによる国家改造を否定し、政財界に接近することで合法的に軍事政権を樹立しようとした。

 1930年代前半は皇道派が主流だったが、相沢事件や二・二六事件を経て、皇道派は衰退し、統制派が主流になった。




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