織田信長は日本で一、二を争うくらい有名な武将です。

 

その織田信長が名前を挙げ、天下統一に向けて動き出したとても重要な戦いである『桶狭間の戦い』

 

今回はそんな桶狭間の戦いの内容や織田信長と戦った今川義元について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

桶狭間の戦いとは 

(桶狭間古戦場公園 出典:Wikipedia

 

 

桶狭間の戦いとは、1560年に桶狭間で織田信長と今川義元の間で行われた戦いのことです。

 

その当時は小さな国ひとつを治めていた織田信長が有名な武将である今川義元を破り、後に江戸幕府を開く徳川家康を始め、多くの武将に影響を与えました。

 

桶狭間の戦いが起こるまでの流れ

(織田信長 出典:Wikipedia)

①尾張の武将『織田信長』 

まず桶狭間の戦いが起こる前までの織田信長について紹介します。

 

安土桃山時代という一つの時代を作り、日本全国を統一することを目指していた信長ですが、産まれたのは現在の愛知県西部にあたる尾張という小さな国でした。

 

幼いころの信長は周囲の大人を困らせる言動が目立ち、武道や銃に興味を持っていました。

 

父親が亡くなった後、信長のそれまでの行いや周囲との対立から後を継ぐ際に争いが起こり、信長は弟を破って父親の後を継ぎます。

 

さらに尾張国内はいくつかの武将が対立しており、桶狭間の戦いが起こったころは、信長はまだ完全には尾張を統一できていませんでした。

 

②今川義元

(今川義元 出典:Wikipedia)

 

 

 今川義元は現在の静岡県にあたる駿河という国で産まれました。

 

5男として産まれたため、家を継ぐ予定はなく僧侶として修業していましたが兄たちが亡くなったことで今川家を継ぐことになりました。

 

このとき弟と後継者をめぐる争いが起こり、勝利しています。

 

織田信長も今川義元も兄弟と戦っていますが、2人が生まれた時代はそのように親子、兄弟であっても争い、領地を拡大していくことを武将たちは目指していました。

 

父親の後を継いだ義元は領地を拡大するために、近くの強い武将と手を組みます。

 

そして周辺の土地を攻撃し、駿河に加え遠江、三河(現在の愛知県東部)を領地として加えます。

 

このとき三河から人質となったのが後の徳川家康です。

 

③領土争い

 今川義元が領土拡大を目指していた際、織田家も隣の領地である三河を手に入れようとしていたため、今川家と織田家の間ではたびたび争いが起こっていました。

 

今川義元が三河を手に入れたころ、信長とその弟の間で後継者争いが起こり、織田家は混乱していました。

 

その中で尾張の一部が今川義元の手に落ちてしまいます。

 

今川義元はとうとう織田信長がいる尾張を手に入れようと動き出したのです。

 

桶狭間の戦いの開戦

(尾州桶狭間合戦 出典:Wikipedia)

①桶狭間の戦いのきっかけ

 1560512日、今川義元は尾張を手に入れるために出発します。

 

このとき三河から人質となっていた徳川家康は松平元康と名乗っており、今川義元とともに出発しました。

 

3つの国を治める有力な武将である今川義元と小さな国も統一できていない織田信長の戦力差は大きく、信長の部下たちは自分たちの城に立て篭もるか出て行って戦うか意見が対立し、混乱していました。

 

しかし今川義元が出発してから7日後、突然信長は動き出し、桶狭間へと向かったのです。

 

ちなみに桶狭間の場所ですが、はっきりとは分かっておらず、名古屋市、豊明市あたりと言われています。

 

②信長の奇襲攻撃

1560519日織田信長の部下と戦い、勝利を治めていた今川義元は桶狭間で休息をとっていました。

 

このとき桶狭間では視界を遮るほどの豪雨。織田信長の軍はこの雨とともに今川義元の軍に奇襲攻撃をしかけました。

 

今川義元の軍は2500045000人、対する織田信長の軍は多くても5000人ほどだったと言われています。

 

信長の軍による奇襲攻撃に義元の軍は混乱し、信長の軍が優勢になります。義元は退却しようとしましたが遂に討ち取られてしまい、義元の軍は降伏しました。

 

③織田信長の勝因

25000人~45000人と言われる今川義元の軍をたった5000人で破った織田信長。ドラマでもたくさん描かれていますが、勝因は何だったのでしょう?

 

信長の奇襲攻撃が成功した要因として・・・

天気の影響だけでなく義元の軍が出発してから一週間経ち、さらに戦いを終えたばかりで疲れていた

桶狭間という地形のせいで軍の形が乱れていたこと

信長が義元がどこにいるか、義元たちの動きをよく把握していたこと

が挙げられます。

 

このように情報を集めて戦ったことで、信長は少ない人数で有力な武将であった義元を破ることができたのです。

 

桶狭間の戦いの影響

①徳川家康への影響

当時今川義元のところにいた徳川家康ですが、桶狭間へは同行はしておらず命を落とすことはありませんでした。

 

義元が亡くなり、他の有力な部下も失い力がなくなった今川家から家康は早くに独立し、三河を取り戻します。

 

家康が独立したことを受け他の部下たちも反乱を起こし、さらに今川家は衰退していくこととなります。

 

そして桶狭間の戦いから2年後、1562年には織田信長と手を組み清州同盟を結びました。

 

この後松平元康から徳川家康と名前を変え、江戸幕府につながっていくのです。

 

桶狭間の戦いで信長が義元を破らなければ、江戸幕府は開かれなかったかもしれません。

 

②織田家への影響

 今川義元を破った織田信長の軍は勢いに乗り、今川軍を尾張から追い出し、やっと尾張を完全に統一します。

 

当時、有力な武将であった今川義元を破ったとして織田信長は周囲に驚きを与えました。

 

そして徳川家康と手を組んだ信長はさらなる領土の拡大を目指し、周囲の武将と戦いを続けます。

 

徐々に力をつける信長は将軍を目指していた足利義昭を利用し、天下統一に向けていよいよ動き出します。

 

 

(足利義昭像 出典:Wikipedia)

 

③衰退する室町幕府と織田信長

 当時の日本は室町時代という時代で、一番の権力は将軍が持っていました。

 

しかし信長が産まれたころは将軍の力はすでに弱まっていたため、足利義昭は将軍となり権力を取り戻すために信長に協力を求めたのでした。

 

信長もさらに勢力を拡大するために将軍の権力を利用することを考え足利義昭に協力し、1568年、足利義昭は将軍となりました。

 

始めは信長に協力を求めた足利義昭でしたが、どうしても信長がいると将軍としての自分の立場が弱い、と感じ始め、信長を倒そうとします。

 

しかし最後には信長に追放され、将軍がいなくなったことで室町時代は終わりを迎えました

 

こうして桶狭間の戦いをきっかけに力をつけた織田信長は室町時代を終わらせ、新しい時代を作っていったのです。

 

まとめ

 桶狭間の戦いとは1560年に織田信長が今川義元を破った戦いのこと。

 桶狭間の戦いで織田信長が勝利した理由は視界を遮るほどの雨に紛れて奇襲をしかけたこと。

 桶狭間の戦いで織田信長は有名になり、徳川家康も独立した。

 勢力を拡大した織田信長はその後足利義昭を追放し、室町時代が終わった。

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