江戸時代後期になり、商品経済が発達し、物の流れ(流通)も変化してきます。
そこで、現れたのが在郷商人と呼ばれる新興商人でした。
今回は、そんな『在郷商人(ざいごうしょうにん)』についてわかりやすく解説していきます。
目次
在郷商人とは?
在郷商人とは、もともと百姓身分出身、農民出身だった商人のことです。
問屋や株仲間のことを商人と呼びましたが、これらの商人は都市部で生活や商売をしていました。
在郷商人は農村を生活基盤としており、問屋や株仲間とは区別する意味で、「在郷」と呼ばれたのです。
18世紀後半、在郷商人の活動が広まります。特に、大阪市場での活動が活発となり、従来の問屋や株仲間との対立も見られるようになります。
そして、19世紀前半には、国訴(こくそ)と呼ばれる在郷商人の運動が起こりました。
在郷商人が現れた背景
農民から商人が生まれてくるという背景には、どのような経済状況があったのでしょうか?
①江戸の経済のしくみ
江戸の経済は、基本的に農民が納める年貢がもとになっており、幕府は農民が納める年貢で財源を得ていたのです。
また、織田信長や豊臣秀吉などの時代から続く、楽市楽座という市場政策を引き継いでいました。
楽市楽座は、各大名が自分たちの藩に城下町を造り、そこに物を集めて市場を形成するという政策です。そのため、大名が経済をコントロールしていました。
ところが、江戸時代中期になると商品生産が発達し、物の流れ(流通)を請け負う商人たち(株仲間)が力を持ち始めてきます。
さらに、農村で商工業の分業が進み、農村でも米以外の商品生産に従事するものが出てきます。
それに伴い、農民の中から都市の商人を介さずに、生産者から直接消費者へと商品を取引するものが出てきます。それらが在郷商人と言われる人たちです。
江戸時代後半に入ると、農民が納める年貢による財源収入が頭打ちとなり、幕府は商品生産や流通による財源収入を始めます。
②株仲間の誕生
商業が発達するにつれて、問屋同士が一種の組合のようなものを作ります。それを株仲間と呼びます。
株仲間は、独占目的で価格や生産、販売地域について協定をしていきます。
当初、幕府は株仲間が流通を支配することを怖れて、禁止令を出していましたが、1716年に始まった享保の改革では商業の統制を図る目的で上納金を納める上で公認されました。
しかし、1841年に老中の水野忠邦が天保の改革を始めると、流通の独占が物価を上げているとして株仲間を禁止する株仲間解散令を出しました。
ただ、この頃には、在郷商人が都市でも地方でも台頭していて、株仲間は形だけのものになっていました。
在郷商人とはどんな人たち?
株仲間を始めとする従来の経済、流通機構を崩した要因でもある、在郷商人とはどんな人たちだったのでしょうか?
①在郷商人の出現
江戸時代に農民たちは、米だけを作っていたわけではありませんでした。
江戸後期には、米による年貢収入が頭打ちになると、幕府は農民に米以外の商品を作ることを奨励します。また、このころには貨幣経済も農村に浸透していました。農民たちも、商品を生産し販売することで貨幣を得るようになるのです。
在郷商人は、様々な商品を扱っていましたが、代表的なものに綿糸があります。
綿糸はもともと外国から輸入していたのが、江戸時代になると日本で生産され始めます。
18世紀に入ると、農村で綿作地帯が作られ、そのうち綿作地帯で綿工業が発達していきます。農家で家内制手工業が生まれてくるのです。
こうして農村で作られた綿糸が、それまで流通を握っていた都市部の問屋(商人)を介することなく、直接生産者である農民が販売するようになりました。
②在郷商人と流通の変化
農民が直接生産品を販売するようになり、それまでの流通機構が変化してきます。
江戸中期の流通は、江戸地廻り経済と呼ばれ、江戸の周辺地域から入ってくる商品と、京都と大阪市場から入ってくる商品で成り立っていました。
大阪は、特に大名がいない商人の街として、全国から商品が集まり、全国へと商品を送り出す一大市場として成り立っていました。
時代が進むと、在郷商人の影響から大阪市場に商品が入ってこなくなります。
商品が生産者から、大きな市場に回らず直接買取者に回ったからです。また、新しい交通網が発達したことも理由の一つにあります。
③農村の変化
在郷商人の活動が活発になると、それを押さえ込む動きも出てきます。
江戸市場の大きな問屋が地方の問屋を資金的に援助することで従属させ、市場を独占する動きがあったり、大阪市場では従来の問屋たち(株仲間)が流通独占をします。
さらに、江戸中期の商品・貨幣経済は農村の様相を大きく変えました。農民をやめて商人になるものや、手工業により商品生産をするものなどが出てきます。
その中で、土地を手放す者がおり、その土地を買った者は地主層となり、小作人を雇って米作をします。農村にも貧富の差が出てきたのです。
在郷商人が与えたその後の影響
在郷商人が現れた後、社会や経済にどのような影響を与えたのでしょうか?
①国訴とは
19世紀に入ると、こうした経済のしくみや農村の変化に伴い、農民や町人の一揆、強訴が相次ぎました。
在郷商人も株仲間による流通の独占に反対して訴えを起こします。これを国訴と言い、幕末まで続きます。
1823年に商品経済が特に発達した畿内の摂津、和泉、河内(現在の大阪と兵庫の一部)で、1307の村が起こした国訴は、最大規模のものでした。
この国訴では、綿糸と菜種の自由売りさばきを要求しました。
在郷商人だけでなく、農民も加わり、郡や国も超えた広範囲で広がり、しかも法廷闘争という合法的手段で闘われたという特徴があります。
②幕末の在郷商人
国訴など在郷商人(新興商人)の出現で、幕府は一旦1841年に株仲間を解散させますが、逆に流通の混乱を招いて、1856年に株仲間再興令を出します。
この時には、上納金は不要となり、新興商人も取り込む動きを見せます。
この頃、世界的にも大きな変化が訪れます。
産業革命の影響で欧米諸国が市場を求めて日本にも通商を求めてやってきます。
1859年には、箱館、横浜、長崎が開港。日本からは生糸が主に輸出されており、外国に売ったほうが高値になるため、在郷商人は生産地から直接開港場へ品物を卸すようになりました。
③明治とのつながり
在郷商人のこの動きは、江戸市場の問屋商人たちから不満が上がります。
幕府は、生糸などを含む5品を江戸市場に必ず回すようにという五品江戸廻送令を出しましたが、効果は上がりませんでした。
依然として在郷商人は生糸の卸しを続け、列強国からも法令の撤回要請が出たため、結局幕府は生糸の生産者に上納金を課すことにします。
この幕府の政策は、明治政府にも受け継がれていきます。それが、生糸の殖産興業政策や増産と輸出政策へとつながっていくのです。
まとめ
✔ 在郷商人とは、 江戸時代中期に現れた農民出身の商人で新興商人である。
✔ 江戸時代には、株仲間と呼ばれる問屋組合が存在していた。
✔ 在郷商人が現れた時代には、農村における分業が進み、貧富の差が拡大した。
✔ 在郷商人は、株仲間による流通独占に対抗し、国訴を起こした。
✔ 国訴は、在郷商人を指導者として農民も加わり、郡や国を超えた大規模な法廷闘争であった。
✔ 在郷商人の活動は、従来の流通機構を崩す役割を果たした。