13世紀末、鎌倉幕府が発令した永仁の徳政令。
借金に苦しむ御家人たちを救済するための法令でした。しかし、あまり成果はあがらず・・・。
今回はそんな『永仁の徳政令』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
永仁の徳政令とは?
(北条貞時 出典:Wikipedia)
永仁の徳政令とは、1297年(永仁5年)第9代執権の北条貞時の時代、鎌倉幕府が借金で苦しむ御家人たちを救うために出した法令のことです。
幕府は、御家人たちが売り払った土地や質入れした土地を買主から無償で取り戻せるようにし、御家人たちの借金を帳消しにしてあげました。
御家人の土地を買った側、お金を貸した側からしたら、なんとも理不尽な法令でした。
永仁の徳政令が出された背景と目的
(鎌倉幕府をひらいた源頼朝)
①鎌倉幕府と御家人の関係
まず、永仁の徳政令を理解するために抑えておきたいポイントは、鎌倉幕府と御家人の関係です。
御家人とは、幕府(将軍)に仕えた武士のこと。幕府と御家人は御恩と奉公の主従関係で結ばれていました。
御家人は幕府に忠誠を誓い、戦いがあれば幕府のために命をかけて戦いました(奉公)。
それに対し幕府は、御家人に給料として“土地”を与えました(御恩)。
御家人たちは、その与えられた土地を所有し、その土地に住む農民たちから取り立てた年貢などで生計を立てました。
所有する土地が多ければ収入も多いし、土地が少なければ収入も少ないわけです。
②借金に苦しむ御家人たち
なぜ、御家人たちは借金に苦しむようになったのでしょうか?
その主な理由は3つ。
一つ目の理由は、土地の分割相続。
この頃、親の土地は兄弟で均等に分けて相続する分割相続というシステムでした。
何代かにわたって土地を分割していくと、一人あたりに分け与えられる土地はどんどん小さくなっていき、収入もどんどん減っていくわけです。
定期的に戦いが起こり御家人たちが活躍して勝利すれば、敵の土地が給料として分け与えられ、土地を増やすことができるのですが、承久の乱(1221年)以降、幕府の支配が進んだことで敵も減り、新たな土地の獲得が期待できなくなりました。
こうして、所有する土地が少ない御家人ほど、生活苦に陥るようになりました。
二つ目の理由は、貨幣経済の広がり。
鎌倉時代中頃から、農業技術が向上し、農作物の収穫量がUP。余った農作物が売買されるようになりました。
また、商業も発達し、織物や和紙などの手工業品も大量に生産されるようになりました。
こうして経済が発展し、貨幣経済が広がっていく中、御家人たちもお金を使う機会が多くなり、支出が増加しました。
土地という収入が減っているうえ、貨幣での支出が増えたことで、御家人たちは金融業者に借金をするようになりました。
ちなみに、この頃の金融業者は借上(かしあげ)と呼ばれていました。
三つ目の理由は、元寇。
生活に困窮する御家人たちに追い打ちをかけたのが、1274年、1281年の2度にわたった元の襲来、元寇でした。
この元との戦いが御家人にとってかなりの負担。
なぜなら、戦いにかかる諸経費は御家人の自腹。宿泊代や食事代は全部御家人持ちだったのです。
これまでは戦いに勝利すれば、敵の土地が給料として支払われたのですが、この戦いは元軍をただ追い払っただけ。
御家人たちは微々たる“御恩”を手にしただけで、結局、手元には借金だけが残りました。
そして、首が回らなくなった御家人たちは、生活していくために泣く泣く自分の土地を売ったり、質に入れたりしたのです。
③永仁の徳政令の目的
土地の分割相続、貨幣経済の広がり、元寇…この3つの理由によって、御家人は収入源だった自分の土地を売らなければならないほど追い込まれました。
そんな御家人たちを救うために、1297年(永仁7年)鎌倉幕府は永仁の徳政令を発令しました。
鎌倉幕府にとって幕府を支える立場の御家人たちから不満や反発が起これば、幕府としての存在も難しくなるため、御家人の救済は急務でした。
では、永仁の徳政令が具体的にどのようなものだったのでしょうか。
永仁の徳政令の内容
①御家人の売却した土地は無償で返還
御家人が売ったり、質入れした土地は買主が御家人だった場合、売買してから20年以上経っていなければ、無償で取り戻せました。
もし、買主が御家人以外の一般の金融業者だった場合、年月に関係なく無償で取り戻せました。
②御家人の土地の質入れや売却の禁止
御家人が困窮する原因だからという理由で、御家人が自分の土地を質入れしたり、売却したりすることを禁止しました。
③金融業者の訴訟の禁止
永仁の徳政令を発令することで、御家人から土地を買った金融業者たちが不満をもつのは当たり前です。
そこで、幕府は先手を打って、金融業者からの訴訟を受け付けないことにしました。
④越訴(おっそ)の禁止
越訴とは、裁判で負けた場合の再審請求のこと。たとえ判決に不服だったとしても、再審することができなくなりました。
幕府の言い分では、当時、御家人たちの土地がらみの裁判が多く、越訴する側もされる側も疲弊し、それが困窮の原因となっているから…だそうです。
しかし、これは幕府側の建前で、手間のかかる訴訟を少しでも減らしたかったのでしょうね。
永仁の徳政令の結果
結果から言いますと、永仁の徳政令は失敗に終わります。
経済を混乱させ、御家人の生活はさらに苦しくなり、幕府への不満をより増長させただけでした。
御家人が土地の質入れを禁止されたことで、今までのように土地を担保に借金ができなくなり反発。
また、金融業者は損するだけなので、御家人にお金を貸さなくなり、より御家人の生活は困窮しました。
さらに、越訴を禁止され、御家人から裁判を行う権利が奪われ不満が募りました。
結局、永仁の徳政令を発令した翌1298年、幕府は土地を無償で取り戻せる条項だけを残して、他の条項は廃止されます。
永仁の徳政令は御家人たちを救うことができず、鎌倉幕府も次第に衰えていきました。
そして、幕府に従わない悪党と呼ばれた新興の武士たちの勢力が強まり、鎌倉幕府は滅亡へと向かっていきます。
永仁の徳政令の語呂合わせ
永仁の徳政令が発令されたのは、1297年。
『いいにくいな(1297)、借金のこと…』
と覚えましょう。
借金をした御家人が奥さんに打ち明けられず困っている様子をイメージしながら覚えるのがおすすめです。
まとめ
✔ 永仁の徳政令とは、1297年(永仁5年)第9代執権の北条貞時の時代に出された法令のこと。
✔ 目的は、幕府が借金で苦しむ御家人たちを救うため。
✔ 御家人は、土地の分割相続、貨幣経済の広がり、元寇によって生活が苦しくなった。
✔ 永仁の徳政令によって、御家人は売却した土地や質入れした土地を無償で取り戻すことができた。
✔ 永仁の徳政令によって、御家人の生活はより苦しくなり、幕府への不満が募った。
✔ 語呂合わせは『いいにくいな(1297)、借金のこと…』。
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【読者の感想】
「永仁の徳政令」の背景にある、民衆を含む中世の人々の法意識を読みやすい文章で論じた不朽の名作。
永仁の徳政令は、鎌倉幕府が、御家人が売却するなどして手放した土地を無償で返還させることなどを定めた、日本史の授業で必須の名高い法である。現代的な感覚で言えば経済秩序を乱す悪法にしか思えないこの法の背景に、「ものは本来あるべき場所にもどすべき」といった当時広く共有されていた思想が基盤にあることを論じている。
35年以上前の本であり、すでに常識となったり、あるいはその後の研究によって評価が改められた部分もあろう。だが、限られた史料を丁寧に読み解くことで、「仏物と人物」「他人和与」といった当時は当たり前だった(そして私たちには信じがたい)思想や習慣を次々と復元し、それを論理的に連ねて徳政令を巡る環境を深掘りしていくさまは、新鮮な刺激の連続で、史料読解の醍醐味をこれでもかと味わわせてくれる。冗談・皮肉交じりの軽妙な語り口も魅力。
勝俣鎮夫「一揆」とともに、日本中世史に関心を持ち始めた方にお勧めする。(引用:amazonレビュー)