江戸時代の大半を占めていた農民。

 

しかし、その実態を聞かれるとあまりわかっていないこともあるはず。

 

今回は『江戸時代の農民の生活』についてわかりやすく解説していきます。

 

そもそも江戸時代の農民とは?

 

 

農民とは読んで字のごとく農業をして暮らす人のことです。

 

今の時代でも農家という形で農作物を育てて売って生活している人がいますが、江戸時代ではその農作物が税金となっていました。いわゆる年貢ってやつです。

 

そのためこの時代の農民はお米の出来・不出来で生活などが大きく左右されました。

 

農民の暮らし

①農民の一日

農民の一日は文字通りお米を作る生活でした。

 

江戸時代初期の御触書である慶安の御触書には『農民は朝早くから起きて雑草を刈り取り、昼には畑を耕して夜には俵用として縄を編むこと』と書かれており、さらには『農民は生かさず、殺さずように』という農民はギリギリの生活水準で保ちなさいという意味の御触書が出されていましたが、実際にはそんな農民の生活は送っていなかったそうです。

 

この御触書はいわゆる目指すべき農民の形で、多少は寝坊しようが作業をサボろうが最終的にお米を年貢として納めればおしまいですので生活はそんなに厳しくはなかったそうです。

 

②農民の休暇

一年中忙しそうな農民にも一応休暇はありました。

 

例えば、正月やお盆の時は祭などで休み、年貢を納め終わった時にも休んだそうです。

 

それらの休みを全て合わせると約50日だったそうで、これは今の時代のサラリーマンの半分の休暇だったそうです。

 

③農民の食事

(江戸時代の農民の食事 引用元

 

 

江戸時代になると一日二食から一日三食になり、さらに食べ物の種類が増えていきました。

 

農民の主食といえばだいたいが玄米、麦飯、ヒエ、あわなどが基本だったそうで、お米はお米の収穫が終わった時やお祝いの時だけしか食べられない貴重なものだったそうでした。

 

そのため農民たちはお米を食べたいだけに江戸へとやって来たりなどもやったそうです。

 

しかし、江戸へ向かった農民はなぜか体調が悪くなり、さらに病気のために故郷の農村に帰ったらなぜか病気が治るという謎の病にかかってしまう人が続出してしまいます。

 

この病気はのちに江戸煩いと言われるようになりますが、実はこの病気。脚気(かっけ)という最悪の場合死に至る病気でした。

 

脚気はビタミンB1という栄養素が足りない時に起こる病気で、ビタミンB1は農民たちがよく食べていた玄米に大量に入っていました。

 

つまりは江戸に行って白米を食べ過ぎた結果、ビタミンB1が不足してしまい脚気にかかってしまったのです。

 

④農民の家

農民の家は基本的には茅葺き屋根の一軒家が基本的でした。

 

白川郷などの合掌造りみたいな家というイメージといえば分かりやすいかも。

 

ちなみに江戸などにいた人たちは長屋といって今で言うところのアパートみたいなところに住んでいました。

 

⑤農民の服装

 

 

農民の服装は農作業がしやすい着物みたいなのがスタンダードでした。

 

服の素材は木綿、麻などで、結構着込まないと冬の時は寒かったそうです。

 

ちなみに江戸時代には服はボロボロになるまでリサイクルして使うのが普通で、たとえボロボロになっても雑巾などに変えて使ったそうです。

 

江戸時代のエコ意識がここに現れていますね。

 

⑥農民の髪型

(丁髷 出典:Wikipedia

 

 

江戸時代ではほとんどの人がちょんまげでした。

 

たとえ武士だろうが商人だろうが農民だろうが全員ちょんまげでした。

 

しかし、ちょんまげにも色々種類があり、農民の場合は髪がない部分が広く、後頭部らへんにちょこっと髷を結う感じがスタンダードでした。

 

一方武士は大銀杏のようなしっかりとした髷だったそうです。

 

農民も大変だ!災害や飢饉の時

 

 

江戸時代の農民の暮らしは裕福ではなかったものの、それなりの生活はできたようですが、一部例外の時期がありました。

 

それが災害による大飢饉です。

 

今回は特に酷かった飢饉3つと江戸時代に起きた大災害について解説していきます。

 

①寛永の大飢饉

1640年、蝦夷駒ケ岳という山が大噴火して東北地方に火山灰が降って農作物がやられてしまうという事態が起きてしまいます。

 

さらに1641年には日照りによる干ばつ、害虫の大量発生によりお米が足りなくなってしまい、農民が餓死するという事態が起きてしまいました。

 

幕府はこれの対応として田畑永代売買禁止令という農民の土地の売買を禁止して農民の生活をなんとか安定させようとしました。

 

②宝永の大噴火

(宝永火口が描かれた浮世絵 出典:Wikipedia

 

 

1707年の宝永の大噴火によって富士山周辺の村々は火山灰によって田畑が埋もれる大事態に陥りました。

 

しかし、運が良いことに噴火したのが12月だったため農作物の被害はあまりありませんでした。

 

③浅間山の大噴火と天明の大飢饉

天明の元号が使われていた頃には東北地方中心に冷害が多発しており、農民の生活は苦しくなる一方でした。

 

冷害で終わるのならまだ東北地方のみで止まるのですが、さらにとどめの一撃のように浅間山という山が大噴火してしまい各地で火山灰による冷害が多発。

 

ついには農作物が全滅するなんて当たり前でまともに生活なんてできなくなってしまいました。

 

さらに1783年にはアイスランドのギドラ火山という世界の中でも巨大な火山が大噴火。

 

世界中の気温が下がり、フランスではこの火山による不作によってフランス革命が起きたと言われているほど世界中で被害を出していました。

 

幕府はこの重大事態を松平定信に任せ、江戸三大改革の一つである寛政の改革が始まりました。

 

 

④天保の大飢饉

1833年、日本中で洪水や大雨が多発して農作物が全く取れないという大凶作が起きてしまいました。

 

しかし、幕府や藩は寛永の大飢饉や天明の大飢饉などで懲りたのか対策は打っており、飢饉による餓死者は前の二つの飢饉よりも少なかったそうです。

 

しかしこの飢饉によって打ちこわし百姓一揆などが多発。

 

1837年には大阪で大塩平八郎の乱という大反乱が起きてしまい、幕府が揺れてしまいました。

 

 

東北地方は恐ろしいという意味としててんぽという言葉が残っていますが、これは天保の大飢饉の名残と言われています。

 

まとめ

 江戸時代の農民は米を年貢として納めていた。

 江戸時代の農民の生活は裕福ではなかったものの、生活できるレベルではあった。

 しかし災害などが起こってしまうと農作物が出来なくなることが影響して大量の餓死者を出すこともあった。




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