【京都守護職とは】わかりやすく解説!!なぜ会津藩がしていた?理由やその後など

 

幕末の京都に活躍した新撰組。

 

しかし、彼らは京都守護職という役職の配下に置かれていました。

 

今回はそんな『京都守護職』についてわかりやすく解説していきます。

 

京都守護職とは?

 

 

京都守護職とは、1862年(文久2年)に設けられた京都の治安維持などを主な任務としていた幕府の役職のことです。

 

この役職はこれまで京都の治安を担当していた京都所司代の上に置かれ、絶大な権力を持っていました。

 

ちなみにこの役職には会津藩の松平容保という人が務めていました。

 

 

(松平 容保 出典:Wikipedia

 

京都守護職の主な任務

①京都守護職が設けられた経緯

時は1862年。幕府内では当時の将軍の妻の実家であった薩摩藩を主導とした文久の改革が行われていました。

 

そこで将軍後見職と政事総裁職の設置や参勤交代の緩和などのいろいろな改革が推し進められることになるのですが・・・

 

当時の日本、特に朝廷がある京都では長州藩などの尊王攘夷派の武士たちによる天誅といった暗殺や強盗などの犯罪が多発しており、当時幕府の京都の守る役職であった京都所司代だけではどうにもいかなくなってしまいます。

 

そこで幕府は京都所司代の上に新しく役職を設けて京都方面の幕府の権力を強化し尊王攘夷派の人たちを取り締まろうと思いつきました。

 

その結果、作られたのが京都守護職です。

 

②京都守護職の権力

京都守護職は大坂城代・京都所司代などの関西での主な幕府の役職の総まとめ的な役割を持っており、さらに非常時には幕府の領土である天領だけではなく、近畿地方の諸藩の軍を指揮することができる権利を持っていました。

 

これだけでも凄いですね。

 

さらに京都守護職の下にはかの有名な新撰組があり、京都の治安維持に一役買っていました。

 

なんで会津藩だったのか?

(会津藩の軍旗にある會文字 出典:Wikipedia

 

 

こうして作られた京都守護職でしたが、この役職は創設された1862年から大政奉還が行われる1867年までずっと会津藩の藩主である松平容保が行なっていました。

 

当時日本には御三家(尾張藩・水戸藩・紀伊藩)御三卿(田安・清水・一橋)などの将軍も輩出している有力な家が存在していました。

 

しかし、なんでよりにもよって京都から結構離れている会津藩の藩主が抜擢されたのでしょうか?

 

実はこれには会津藩初代藩主である保科正之の家訓が関わっています。

 

 

(保科正之 出典:Wikipedia

 

 

この保科正之という人は第2代将軍である徳川秀忠の隠し子であり、幕府の政治に関わることはできない立場でしたが、その息子である徳川家光が正之に対して会津23万石を与え、さらに幕府の要職につかせるという非常に高待遇で迎えられ幕府内で活躍しました。

 

正之は子孫に対してこのご恩を忘れないように会津藩の家訓である『会津家訓十五箇条』の第一条に「会津藩の藩主たるは将軍家を守護すべき存在である。もし藩主が裏切るようなことがあればそれは私の子孫ではないので家臣は従ってはならない」と記しました。

 

松平容保自身は会津藩の財政が良くなかったことを理由にこの京都守護職になることに非常に消極的でしたが、この家訓を受けて容保は京都守護職に就任して幕府を守ることを決意しました。

 

京都守護職の活躍

①一会桑体制と八月十八日の政変

容保は自身が京都守護職に就任した2年後に配下であった京都所司代に、桑名藩主であり容保の弟である松平定敬を任命します。

 

ちなみにこの時、禁裏御守衛総督という朝廷の護衛する役職に就いていた一橋慶喜とこの2人のことをそれぞれの藩主の名前の頭文字をとって一会桑といいます。

 

そして、その一会桑の3人は1863年8月18日に攘夷志士の親玉でもあった長州藩の武士と、三条実美をはじめとする7人の公家を京都から追放する八月十八日の政変というクーデターを起こして京都の実権を完全に支配します。

 

また、その直後に起こった禁門の変では会津藩士とともに京都に迫ってきた長州藩士を倒しました。

 

 

これによって当時の天皇であった孝明天皇は逆賊でもあった長州藩を追い出した容保を非常に信頼し、皇族以外の人では異例の直筆の手紙を与えるなどしています。

 

②池田屋事件と尊王攘夷派の取り締まり

京都守護職の最大の任務であった尊王攘夷派の取り締まり。

 

容保は配下である新撰組を使って続々と尊王攘夷派の武士を捕縛していきます。

 

その取り締まりの中でも特に大規模な取り締まりだったのが、あの池田屋事件です。

 

八月十八日の政変以降京都では勢力を取り戻そうと考えていた尊王攘夷派の武士が天皇を拉致して逆クーデターを起こそうと計画します。

 

しかし、この動きに気づいた容保は配下であった新撰組に対して取り締まりを命令。三条大橋近くの池田屋という旅館を襲撃して攘夷志士を斬り殺したり、逮捕し壊滅に追い込みました。

 

こうして容保は攘夷志士をどんどん取り締まっていくことになるのですが、そんな時にとある大事態に巻き込まれていくことになるのです。

 

 

京都守護職の廃止

(孝明天皇 出典:Wikipedia)

 

 

1867年、容保の最大の理解者であり、幕府の頼みの綱であった孝明天皇が崩御しました。

 

この崩御は暗殺などの噂がありますが、これによって容保の運命は一気に狂ってきます。

 

さらに第二次長州征伐で幕府が敗北すると一気に長州藩の勢力が盛り返していき、最終的には徳川慶喜は倒幕の勅令が出される前に幕府をなくそうと大政奉還を行います。

 

大政奉還によって京都守護職は無くなることはありませんでしたが、その直後に長州藩とその同盟藩であった薩摩藩は王政復古の大号令によって将軍などの役職を全て廃止にして京都守護職も廃止に追い込まれました。

 

こうして京都守護職は設立されてからわずか6年で消滅しました。

 

 

松平容保のその後

(松平容保肖像画 出典:Wikipedia)

 

 

京都守護職が廃止されたのと同時に容保に恨みを持っていた長州藩は、鳥羽伏見の戦いで幕府軍を蹴散らすと容保に対して徳川慶喜に次いで討伐しなければいけない朝敵として認定されます。

 

容保からすればこうなることは覚悟の上だったと思いますが、孝明天皇から信頼された後のことを考えるとこの処遇は何か心情的に苦しくなったと思います。

 

そして、容保率いる会津藩はその後、戊辰戦争の一大決戦である会津戦争で長州藩・薩摩藩中心の新政府軍と戦います。

 

 

会津戦争

(会津戦争 出典:Wikipedia)

 

 

しかし、最新の武器を揃えさらにあまりにもの兵力差に耐えられることはできず最終的には降伏。会津藩は新政府によって下北半島のど田舎である斗南に飛ばされ、ここで廃藩置県を迎えました。

 

 

容保自身は明治時代では日光東照宮の宮司となりひっそりと余生を送ることになりますが、その時容保は孝明天皇から贈られた直筆の手紙をずっと持ち歩いていました。

 

容保からすればこの天皇から贈られたこの手紙こそが彼が逆賊ではない証拠であり、人生最大の自慢でもあったのです。

 

まとめ

✔ 京都守護職は1862年の文久の改革の時に京都の治安の保持のために新しくできた役職のこと。

✔ この役職は会津藩の松平容保が務めていた。

✔ この頃の京都の実権を握っていた容保と京都所司代になっていた桑名藩主である松平定敬と一橋慶喜をそれぞれ一文字づつとって一会桑体制という。

✔ 京都守護職は王政復古の大号令によって廃止となった。

✔ 京都守護職として務めていた容保はその後朝廷から逆賊となってしまい、会津戦争につながっていくことになってしまった。