【日本三大怨霊まとめ】簡単にわかりやすく解説!!菅原道真・平将門・崇徳院について

 

「日本三大怨霊」といえば、あの三人かな?とすぐ浮かぶ人もいるでしょうか。

 

もっと沢山いるのでは?とかいろんな人が浮かんでいる人もいるかもしれませんね。

 

ここでは一般的に「日本三大怨霊」とされている方々について簡単にわかりやすく解説していきたいと思います。

 

日本三大怨霊とは?

 

日本三大怨霊とは、平安時代中期~末期に活躍した以下の三人の人物を指します。

 

 藤原氏との勢力争いに敗れ、無実の罪をきせられ不遇に亡くなった『菅原道真』

 関東にて新しい政府の樹立を目指したが敗れ、京都に首をさらされた『平将門』

 保元の乱にて政権争いに敗北し流罪になった挙句、周囲を呪いながら亡くなった『崇徳院』

 

怨霊とは?

 

では、「怨霊」とはどういうものなのでしょうか。簡単にみてみましょう。

 

怨霊というもの

古くから日本では亡くなった人の魂はあの世へ逝くか、この世にとどまると考えられてきました。

 

そして生前に強い恨みや憎しみ、怒りなどを抱き非業の死を迎えた人は、祟りや災いをもたらす「怨霊」になるとして恐れてきました。

 

さらに、死者の霊魂である『死霊』だけではなく、生きている人から魂が抜けだした『生霊:いきりょう』にもそれはあてはまると考えられてきたのです。

 

あの有名な【源氏物語】の中では“六条の御息所”の「生霊」が他の女人を苦しめていましたね。

 

様々な怨霊

平安時代などは物の怪(もののけ)妖怪なども同じカテゴリーに入っており、また強い「思い」や「怨念」が形になったものも同様の扱いになっていました。

 

その為、実在人物の「怨霊」だけではなく、『東海道四谷怪談』のお岩さんや、『リング』の貞子のような「架空の怨霊」までも恐れるようになっていったのです。

 

日本三大怨霊について

 

怨霊の中でも「三大怨霊」と呼ばれている方々は、物語や古典芸能の題材としても扱われ、多くの人々に知られてきました。

 

①菅原道真

(菅原道真 出典:Wikipedia)

 

 

幼いころから聡明で詩歌の才能もあった菅原道真は中流の公家出身でありながらも、当時の宇多天皇に重用され、出世していきます。

 

彼の政治的貢献として894年遣唐使の廃止が有名ですね。その後の醍醐天皇の頃にはついに右大臣にまで上り詰めました。

 

 

ところが、家柄がものをいう時代、中流ながら才覚をもって出世する道真を良く思わない藤原氏を中心とした人々の讒言により、[醍醐天皇を廃位する企みをしている]という無実の罪をきせられ、九州大宰府へと左遷させられてしまいます。

 

家族とも離され、失意のうちに太宰府で道真が没した後、次々と都で異変がおきます。まず

 

道真を左遷させた藤原時平が急死し、さらに醍醐天皇の皇子が次々に病死した上に、朝議中の清涼殿(せいりょうでん)や隣の紫宸殿(ししんでん)が落雷の被害にあい政府要人に多くの死傷者が出ます。

 

これを道真の祟りと恐れた朝廷は、亡くなった道真の位を右大臣に戻すだけでなく、死後にもかかわらずその後左大臣、太政大臣へと出世させ、その怒りを抑えようとしたのでした。

 

②平将門

(平将門 出典:Wikipedia)

 

 

平将門は桓武天皇の子孫である平氏一門であり、元々京で藤原氏に仕える武士の一人でした。

 

父の死後関東へ戻り力をつけていきますが、一族の紛争に巻き込まれたことを発端として、ついには受領などとの争いが起きて朝廷に敵対することとなります。

 

独立国を目指した将門は自らを「新皇」と名乗り、当初は有利に戦いを進めていったのですが、後に討伐に本腰を挙げた朝廷側の平貞盛・藤原秀郷らに敗れてしまいました。

 

同時期の藤原純友の乱と合わせて承平天慶の乱といわれています。

 

 

この将門の首が京都でさらし首になります。

 

日本で最初のさらし首とも言われていますが、これにまつわるいくつかのエピソードがあります。

 

例えば、数カ月目を開いていたままであったとか、自ら胴体を探して飛んでいったなど・・・。

 

そして飛んだ先は現在首塚がある東京都千代田区に位置します。この首塚が後に移転される際に多くの関係者に災厄が起こり、死者もでたことから、将門は大変恐れられているのです。

 

 

(平将門の怨霊 出典:Wikipedia)

 

崇徳院

(崇徳院 出典:Wikipedia)

 

 

第75代天皇である崇徳天皇はわずか3歳で天皇となりますが、10代で譲位させられ、上皇となります。

 

院政時代真っただ中にありながらも、権力基盤の弱さから力を持つことが出来なかったようです。

 

その後、後白河天皇との対立から起こった保元の乱に敗れ流罪になりましたが、天皇の地位にあった方の流罪は約400年ぶりだったそうですので、その無念さは非常に大きかったのではないでしょうか。

 

 

生前から「妖怪に生まれ変わりこの無念をはらす」として爪や髪を伸ばし続けて夜叉のような姿になってまで憎悪を強くもっていたそうで、その言葉通り崇徳院の死後関係者は次々と不慮の死を遂げ、京を焼くほどの大火や全国的な飢饉や疫病にもみまわれました。

 

祟りの規模は怨霊の中でもラスボス級といえるでしょう。

 

 

(崇徳上皇の怨霊 出典:Wikipedia) 

 

三大怨霊の次点候補

 

「三大怨霊」といわれますが、負けてないくらい不遇な死をとげた人もいます。

 

次点候補としてはこの2名ではないかと考えられますがいかがでしょうか。

 

①長屋王(ながやのおう)

天武天皇の孫でもある“長屋王”は、聖武天皇の時代に左大臣にまでなりますが、政治権力を握りたい藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟による陰謀により罪をきせられ、妻子共々自害に追い込まれました。

 

その後藤原4兄弟は次々に疫病で亡くなった為、王の呪いとして皆恐れたそうです。

 

②早良親王(さわらしんのう)

桓武天皇の弟であり、皇太子にもなっていました“早良親王”ですが、藤原種継暗殺事件にかかわっていたとして廃太子とされます。

 

流罪になる途中に無実を訴えながら絶食して亡くなったそうですが、その後皇族を中心に不幸が次々と襲った為、怨霊を恐れた桓武天皇は『崇道天皇』の号をおくり、また怨霊に悩まされ、平安京への遷都を早めることにもなったそうです。

 

怨霊から神へ

 

日本の信仰で、疫病や天災等は「怨霊」により引き起こされるので、これを鎮めるべく、御霊として祀り、国の平穏と繁栄を祈る「御霊信仰」というものがあります。

 

先の三大怨霊の方々はそれぞれの所縁の地で、その恨みを鎮めて頂くべく奉られています。

 

①北野天満宮と太宰府天満宮

菅原道真は京都の北野天満宮に祀られましたが、お墓のあった福岡にも太宰府天満宮が建立され天神(雷神)様として祀られるようになります。

 

 

(太宰府天満宮 出典:Wikipedia

 

 

ちなみに「宮」と呼ばれるのは元天皇が祀られる神社のみですが、その位を授けられたようですね。

 

その後全国各地に天満宮が建立され、道真公が元々学問に秀でた方だったので、天神様は学問の神様として信仰されるようになっていきます。

 

受験のシーズンは沢山の学生がお世話になったことでしょう。

 

ちなみに太宰府天満宮の名物「梅が枝餅」は、道真公が梅の花が好きで流罪になる際に詠んだ有名な和歌が由来のようです。

 

首塚から神田明神と築土明神

平将門は先に記したように、首塚に葬られていましたが、疫病などが流行り、近くの神田明神にて供養したところ、事態が収まったのでそのまま祀るようになりました。

 

関東大震災後の土地開発や、第二次大戦後のGHQの区画整理の際に不審な事故が相次いだことなどから、この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるとされました。

 

現在でも将門公にまつわる何かを行う際にはきちんとお参りしないといけないと言われています。

 

同じく千代田区にある築土神社(つくどじんじゃ)にも祀られていますが、東国武士の祖としても源氏や平氏、ゆくゆくは江戸幕府からも崇敬されたという将門公だけあって、勝負事へのご利益があると言われています。

 

白峯神宮と安井金比羅宮

崇徳院は葬られた地にて祟りを鎮めるために白峯大権現として祀られていたようですが、明治期に異郷の地にいる院をさらに慰めるために、京都へ移し「白峯神社」にて祀るようになります。

 

ちなみにこの神社は蹴鞠の守護神を祀っていることもありボールを使う競技へのご利益があるようですね。

 

また、保元の乱にて「欲」を断った場所とされる「安井金比羅宮:やすいこんぴらぐう」にも祀られていますが、こちらは断ち物の祈願をする場所として信仰されていたので、“縁切り寺”として有名です。

 

まとめ

 日本三大怨霊とは「菅原道真」「平将門」「崇徳院」のことを指す。

 菅原道真はライバルに諮られ無実の罪で太宰府へ配流、失意のうちに没した後に落雷をはじめとする災厄が起こり怨霊として恐れられた。

 菅原道真は太宰府天満宮など各地の天満宮にて「天神様:学問の神」として祀られている。

 平将門は東国への独立国家建国を試みたが敗れて憤死、日本史上初のさらし首にされた。

 将門の首が自ら飛び戻ったとする首塚には様々な恐怖エピソードがある。

 平将門は、首塚の近く神田明神や築土明神にて、勝負ごとにご利益のある神として祀られている。

 崇徳天皇は保元の乱に敗れたのち流罪となり、その地で無念の内に没した。

 周囲への恨みの強かった崇徳院は死後最強クラスの怨霊として、関係者の不慮の死や大火疫病・飢饉などをおこしたとされる。

 崇徳院の怒りを鎮めるために名誉の回復と共に神格化して祀ることにした。

 崇徳院は現在、球技にご利益のある「白峯神社」と縁切りで有名な「安井金毘羅宮」にて祀られている。