【応永の乱とは】わかりやすく解説!!反乱が起こった原因や経過・結果・語呂合わせ

 

応永の乱の応永とは室町時代、足利義満が将軍の時代の頃です。

 

応永という年号の期間は1394年から1428年までの34年間を指しています。

 

「乱」というくらいなので応永の乱が起きた時期には戦乱が多くあったのでしょうか。また、この時期の世の中はどのような様子だったのでしょうか。

 

今回はそんな『応永の乱(おうえいのらん)』が起きた時代背景や経緯など、わかりやすく解説していきます。

 

応永の乱とは?

(足利 義満 出典:Wikipedia

 

 

応永の乱とは、室町時代の応永6年、1399年に大内義弘が将軍・足利義満に対して和泉国堺(現・大阪府堺市)で起こした反乱です。

※大内義弘の父は大内弘世=守護大名で南北朝時代に活躍した現・山口県の領主。

 

応永の乱は守護大名・大内義弘が室町幕府や将軍足利義満に対して起こした内乱で、結果は室町幕府が勝利。

 

大内義弘は応永の乱で戦死しました。

 

応永の乱が起こった背景と原因

 

応永の乱が起きた背景としては、当時の室町幕府と将軍は勢力の強い守護大名の連合に擁立されていました。

 

そのため、幕府と足利義満自身の権力や勢力がそれほど強いものではなかったと考えられます。

 

このことから、将軍・足利義満はいつも守護大名が勢力を増すことを恐れており、守護大名が勢力を増すことや既に大きな勢力を持っていた守護大名が減退するように様々な策を講じました。

 

このことが応永の乱が起きる原因となったのです。

 

応永の乱のはじまり「大内義弘の不満の高まり

 

応永の乱を簡単に表現すると「守護大名である大内義弘が勢力を強めたために将軍・足利義満が大内氏を討つ」という内容です。

 

それまでの経緯としては、背景・原因で前述した通り守護大名の勢力に恐れを抱いていた足利義満が守護大名の勢力を衰えさせようという動きを見せたことから始まりました。

 

足利義満による守護大名に対する動きは康歴の政変(※1)土岐康行の乱(※2)など守護大名同士の対立を利用し互いを弱体化するようなやり方でした。

 

チェック!!

(※1)1379年に足利義満が守護大名・細川頼之を失脚させた変。細川頼之に不満を抱いていた他の大名を結託させ失脚させたと言われています。細川頼之は足利義満の育ての親でありました。
(※2)1389年に足利義満が勢力の強い守護大名の土岐康行を挑発し土岐一族の内紛を誘導した。美濃の乱とも呼ばれています。

 

「六分の一殿」と呼ばれるどの勢力を誇っていた山名氏も足利義満によって勢力が減退されてしまった守護大名です。

 

山名氏は足利尊氏の縁戚で山名時氏の時代、そしてその息子たちの時代に全国66カ国のうち11カ国を治める(=六分の一殿のいわれ)ほどの勢力を持ちました。

 

このことに危機感を抱いた足利義満が山名氏の親族間で分断するように図ったのです。

 

このような方法で守護大名を追い詰めていく将軍・幕府に不満を持った大内義弘は応永6年(1399年)に反乱を起こしたのでした。

 

応永の乱の内容

(大内氏分国と反義満派の挙兵拡大 出典:Wikipedia

 

 

大きな勢力を持っていた山名氏を事実上制圧した足利義満にとって次に恐れを抱いていたのが守護大名・大内義弘でした。

 

①足利義満と大内義弘の緊張の高まり~その1.土木工事の依頼~

大内義弘はそれまでの戦の功績から長門・豊前・周防などの西国、計6か国の守護でした。

 

何とかして大内義弘を失脚させたいと考えた足利義満は大内義弘に現在の金閣寺の造営に関する土木工事を命じます。

 

この工事は大内義弘だけではなく、諸大名に命じられたのですが、これまで戦に長け戦で将軍に仕えてきたという自負があった大内義弘はこの工事を断ります。

 

このことから両者の緊張が高まっていきました。

 

②足利義満と大内義弘の緊張の高まり~その2.幕府に討たれるという疑念~

また、九州における少弐氏(しょうにし※3)や菊地氏(※4)を幕府が討伐するという流れの中で、大内義弘も九州に入り戦うように命じられました。

 

大内義弘は軍を率いて九州に入り幕府軍に応戦しました。

 

そして幕府側は大内軍のおかげで優勢に転じたのですが、大内義弘はあらぬ噂を耳にします。

 

それは「幕府はその戦乱のなかで大内義弘を殺そうとしている、実は少弐氏と菊地氏によって戦の中で大内討伐をするように命じている」という内容だったのです。

 

幕府が戦を通じて味方である大内義弘を敵方に討つように目論んでいたのではないかと感じた大内側は幕府に対しての疑念を募らせたていくことになったのでした。

 

チェック!!

(※3)九州の名門武家一族。元寇では蒙古襲来の際に日本の指揮を執った。九州北部~福岡にかけての勢力を持っていた。

 

(※4)九州において広く影響を及ぼす勢力を持っていた肥後国(現・熊本)の守護

 

このような状況の中で、幕府や将軍・足利義満による守護大名討ちが繰り返されていき、いよいよ大内義弘の不満が爆発しました。

 

応永6年、大内義弘が5千の兵を率いて和泉国堺(現・大阪府堺市)に城を築き籠城しまし応永の乱を起こしたのでした。

 

③勝算

大内義弘は応永の乱において、当初はかなりの勝算を持っていたようです。

 

その理由として多くの守護大名と集結して幕府を責めるという手はずを打っていたから。

 

集結する予定だった守護大名は山名氏や土岐氏の他に近江の京極氏や鎌倉公方の足利満兼などでした。

 

鎌倉公方とは足利尊氏が自身の息子に与えた役職。尊氏は息子の義詮を頼りなく思っていたため京都ではない鎌倉にこの役職を置きました。

 

その流れをくむ満兼は次第にいつか将軍職を得たいと考えていたされています。

 

④大内義弘の誤算

大内義弘の応戦として結集した6千の兵が堺に向かいました。

 

一方、足利義満は約3万の兵で迎え討ちました。

 

兵の数には大きな差がありましたが、大内義弘方には鎌倉からの足利満兼の兵が合流するはずでした。

 

しかし、上杉氏にその進路を阻まれ足利満兼は足止めされてしまったのです。

 

このことが誤算となり、大内義弘の軍は籠城した城で孤立状態となり、火を放たれてしまいました。

 

放たれた火は堺の町を焼き尽くすほどの勢いでした。

 

そして、大内義弘は城の中で自刀したのでした。

 

応永の乱の結果

 

大内義弘の自害、応永の乱で多くの守護大名が幕府に敗れたことで結果的に勢力の強い守護大名が減退し、幕府の力が強くなる結果となりました。

 

応永の乱の年号(1339年)の語呂合わせ

 

では、最後に応永の乱の年号を覚える語呂合わせを紹介します。語呂合わせはいくつかありますのでここでは5つあげておきます。

 

・「一味食って苦しむ大内軍」

一味(いちみ=13)食って(9)苦しむ(9)大内軍

 

・「秘策苦しむ大内軍」

秘策(139)苦しむ(9)大内軍

 

・「欲望は人裂く苦しみ応永の乱」

欲望は人裂く(139)苦しみ(9)応永の乱

 

・「富もここまで応永の乱」

富も(13)ここ(99)まで応永の乱

 

・「大内の一味くくった応永の乱」

大内の一味(いちみ=13)くくった(99)応永の乱

 

まとめ

 応永の乱とは、応永6年、1399年に大内義弘が将軍・足利義満に対して和泉国堺で起こした反乱のこと。

 応永の乱が起きた背景には室町幕府が守護大名の勢力を恐れていたことにある。

 応永の乱は守護大名「大内義弘」VS将軍「足利義満」。結果は大内義弘が敗れ自害した。

 応永の乱では大内義弘が敗れたことで大内に賛同した有力守護大名も失脚し、幕府の勢力が強固なものとなった。