日本にキリスト教を伝えた宣教師として有名な『フランシスコ・ザビエル』ですが、その布教の道は順調ではありませんでした。

 

今回は、ザビエルが日本に来た目的、布教の様子、その後などについて詳しく解説してきます。

 

また、この記事を読むときに限らずですが、外国人の名前をカタカナで表記する場合、何通りかの表記があります。今回はできるだけよく使われている表記で書いているつもりですが、教科書や参考書によっては名前が違う場合もあるので注意してください。

 

フランシスコ・ザビエルとは

(フランシスコ・ザビエル 出典:Wikipedia

 

 

ザビエルは、スペイン人のイエズス会宣教師で、日本にキリスト教を初めて伝えた人です。

 

当時日本では、キリスト教をキリシタン(吉利支丹・切支丹)宗・天主教・耶蘇教などと呼んでいました。

 

しかしながら、日本でキリスト教を広めるのは一筋縄ではいきませんでした。その様子を順に追っていきたいと思います。

 

日本に来る前のザビエル!目的・背景

①ザビエルの出自とヨーロッパの情勢

彼はスペインの名門の家の出身でした。彼の父親は国王の財政顧問や宰相をしていたほどの実力者です。

 

そんなザビエルが宣教師になったのは、大学の寮で同室となったピエトロ=ファーベルからの影響と、同じく大学でイグナシオ==ロヨラ(イグナティウス=ロヨラ)の指導を受けたことによります。

 

イグナシオ==ロヨラは後にイエズス会を創立した中心人物の一人でもあります。

 

ここでイエズス会について少し触れておきます。イエズス会は、1540年に創立しました。

 

当時ヨーロッパで行われた宗教改革は、プロテスタントの動きが活発でしたが、それに対抗したカトリック側が挽回をはかり、東洋方面への布教を使命とした修道会です。つまり、ここで言いたいのは、そもそもイエズス会にアジア方面への布教という目標があったことです。

 

②アンジローとの出会い

(ザビエルの通った航路 出典:Wikipedia

 

 

ザビエルは日本に来る前、インド海岸、セイロン島、マラッカ、香料群島などで布教活動をしていましたが、イスラム教徒の抵抗や、ポルトガル人の迫害などの影響もあって、思うように布教はできませんでした。

 

そんな中、ザビエルが出会ったのが日本人アンジローです。マラッカでアンジローと邂逅したザビエルは、その知性・人格にいたく惹かれたといいます。

 

また、彼から日本人一般の資質を聞き、さらに日本を知る友人ジョルジ=アルバレスが彼の要請を受けて綴った『日本記』を読んで、東洋伝道の成果は日本でこそ見られるものと確信し、日本への渡航を決意しました。

 

日本が一人の強力な「国王」の実権下にあることを、また日本に「大学」があることを聞いた彼は、まず「国王」に謁見して布教許可を得て、ついで「大学」で論争してキリスト教の権威を高めようと計画しました。

 

かくして彼は、日本に渡ることを決めました。

 

ザビエルの日本での布教活動

 

①鹿児島での布教活動

ザビエルは、15497月、アンジローを案内役とし、鹿児島に上陸しました。

 

彼は島津貴久から布教の自由を許され、上洛の際には便宜をはかってもらう約束も取り付けることに成功しました。アンジローの助力により、教理を簡単にまとめ、それを島津氏の菩提寺である禅刹福昌寺の境内で聴衆に読み聞かせました。

 

また、その寺の住持とも親しくなり、霊魂の不滅について論をかわし合いました。

 

結果、信者は増加したものの、仏教僧からの激しい妨害があり、さらに貴久は密かに期待していた貿易の利益がイマイチだったことに失望し、態度が硬化したため、キリスト教への改宗は禁じられてしまいました。

 

②京都へ到達

鹿児島での布教が難しくなったザビエルは、上洛を急ぎ出発。市来を経て、京泊から海路で平戸に渡りました。

 

停泊中のポルトガル船がザビエルを丁重に歓迎するのを見て、利益に敏い領主の松浦隆信は彼を厚遇し、布教を許しました。ここでの活動は上々で、改宗者も多く出ました。

 

その約1か月後、ここでの布教活動を同行していたトルレス・ジョアンに委ね、ザビエルは次の地を目指しました。博多・下関を経て山口に到着します。ザビエル一行の噂は領主の大内義隆の耳にも届いていました。

 

(大内 義隆 出典:Wikipedia)

 

 

しかし、この時は謁見は許されたものの、布教活動の許可は下りず、成果は特にあげられませんでした。程なく岩国あたりから海路泉州堺に到着しました。

 

15511月ついに入洛しましたが、室町時代末期の京都は戦乱で荒廃しており、天皇・将軍の権威は地に堕ち、比叡山の「大学」は異国人が入ることを拒みました。それらを知ったザビエルは、滞在わずか11日で京都を離れました。その後、淀川を下り、堺へと戻ります。

 

③山口での活動を再開

ザビエルは次の目標を山口に設定し、当時中国地方随一の富強を誇った大内氏の保護を受け、同地を布教の中心地として栄えさせようと考えました。

 

まず、平戸に赴き、「国王」に献上するために持ってきていた時計・楽器・眼鏡・ポルトガルの酒・織物などの貴重な贈り物と、インド総督・ゴア司教の推薦状を携えて、15514月に再度山口を訪れました。

 

贈り物と推薦状の甲斐あり、正式に領主の大内義隆に謁見することができました。義隆は布教を許可し、住院として廃寺を提供しました。

 

これによりザビエル一行は俄然やる気を出して、教勢も活気を呈しました。仏教僧を含む訪問者が住院に殺到したのです。

 

また、当時の人々にとってはザビエル達がもたらした天体の運行、雷、雨、月の満ち欠けといった自然現象に関する話は目新しく、その説明は聴衆を魅了しました。滞在中に改宗した者の数は、500人余りに及びました。

 

また、キリスト教の創造主の意味を明確にするため、布教上便宜的に使ってきた「大日(ダイニチ)」の語を廃し、ラテン語の「デウス」を用いるようになりました。

 

④大友氏との出会い

(大友義鎮 出典:Wikipedia

 

 

滞在して5ヵ月になったころ、豊後国の領主大友家の使者が、ポルトガル船の沖の浜入港と大友義鎮の招請を伝えてきたため、平戸から呼んだトルレスに山口を託し、海路で豊後に渡りました。

 

義鎮はキリスト教に関心を寄せていたので、礼を尽くして彼を迎え、直ちに布教を許し、時が至れば自身もいずれ改宗する旨を語りました。

 

60日余りの滞在中、ザビエルは山口からの書状で、大友氏は滅亡してしまったが、義鎮の弟八郎(大内義長)が新領主に迎えられ教会の保護が保証されたことを知って安堵しました。

 

しかし、鹿児島上陸以来、インド・ヨーロッパからの便りがなく、また1549年に要請した援助者の派遣もありませんでした。これを受けザビエルは、一度インドに帰還して問題を整理した後、日本の布教にあたるべき宣教師を選定し、再び来日しようと考えました。

 

義鎮からポルトガル国王宛ての書状と贈物を預かり、他4名を伴って155111月、沖の浜を出発し、翌年2月にゴアに帰着しました。

 

⑤ザビエルの最期

23ヵ月の日本滞在中における改宗者は1000人にも満たなかったとされています。

 

しかし、ザビエルが日本人に寄せる期待は大きく、理性にうったえかければいけると考えていました。

 

ザビエルは、「その文化・礼儀・作法・風俗・習慣はスペイン人に優る」「日本人ほど理性に従う人民は世界中で逢ったことがない」と伝えてやまなかったそうです。

 

彼は中国入国の機会を待つうちに熱病で倒れ、1552年に没しました。享年は47歳。彼は後にロヨラとともに聖人に列せられ、さらに1904年には教皇ピウス十世により「世界の伝道事業の保護者」と定められました。

 

ザビエルが去ったその後

(日本に運ばれたザビエルの右腕)

①日本のキリシタンの増加

その後、宣教師はあいついで来日しました。

 

ポルトガル人宣教師のガスパル=ヴィレラやルイス=フロイスらが布教につとめ、南蛮寺(教会堂)やコレジオ(宣教師の養成学校)・セミナリオ(神学校)などをつくりました。

 

 

その結果、キリスト教は急速に広まっていきました。

 

キリシタンは、ザビエルの離日前後には1000人程度でしたが、1582年には15万人を数えています。15万人の信者の内訳は、都区が25000人、豊後区が1万人、肥前肥後地方が115000人となっており、九州が大半を占めています。

 

②キリシタン大名と南蛮貿易

当時は南蛮貿易が栄えてきていた時であり、ポルトガル船は布教を認めた大名領に入港しました。

 

これを受け大名は南蛮貿易の利益を得るため、宣教師の布教活動を保護するだけでなく、自ら改宗し、家臣や領民にも入信を強制した者も現れました。これがキリシタン大名です。

 

つまり、キリスト教の広がりは、南蛮貿易の利益を得るために生まれた副産物ということができます。単にキリスト教に魅せられたというよりは、そういった大名達の思惑があってのキリスト教伝播だったと言えます。

 

 

キリシタン大名のうち、大友義鎮・有馬晴信・大村純忠3大名は、イエズス会宣教師ヴァリニャーニのすすめにより、1582年に少年使節をローマ教皇のもとに派遣しました。

 

まとめ

・ザビエルは、スペイン人のイエズス会宣教師で、日本にキリスト教を初めて伝えた人。

・ヨーロッパでの宗教改革で挽回をはかったイエズス会は、アジアでの布教を始めた。

・ザビエルが来日したのは、アジアで出会った日本人から日本についての話を聞いて、アジアでのキリスト教布教の鍵は日本であると確信した。

・ザビエルが去った後も多くの宣教師が訪れ、キリスト教は急速に広まった。

・日本でのキリスト教の広がりは、南蛮貿易と密接な関係がある。




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