幕末の開国を機に急速に発達した尊王攘夷思想は多くの事件を引き起こしていきます。
日本各地で尊王攘夷派によって様々な事件が発生しますが、『天狗党の乱』もその一つとしてあげられます。
今回は、天狗党の乱がなぜ発生したか?その理由や結果、その後の国内に与えた影響など、わかりやすく解説していきます。
目次
天狗党の乱とは
(天狗党の乱 出典:Wikipedia)
天狗党の乱とは、1864年(元治元年)に筑波山で挙兵した天狗党によって起こされた一連の争乱のことです。
天狗党とは水戸藩を中心にして結成された尊王攘夷派の一派です。
この戦いは、幕末最大の悲劇とも言われています。
天狗党の乱の発生まで
①水戸藩の尊王攘夷派の誕生
1829年、水戸藩では第9代藩主に水戸斉昭が就任します。
水戸斉昭は尊王攘夷派の藤田東湖らを登用し、財政再建や軍備の増強などを進めるなど水戸藩の改革を始めました。
(藤田東湖 出典:Wikipedia)
藤田東湖とは、水戸学を確立させた人物として知られています。
水戸学とは国学を重んじる学問です。つまり、日本の伝統や文化を研究して重んじる学問ですね。
反対の見かたをすれば日本のことを重んじるわけですから外国のことは排除するわけです。
これが天皇を敬い大事にし、外国が来たら力づくでも追い払おうとする「尊王攘夷」の考えが生まれてくるわけです。
藤田東湖の唱えた尊王攘夷の考え方は薩摩藩や長州藩の多くの幕末の志士たちに大きな影響を及ぼすことになります。
このような尊王攘夷派の人々が水戸藩内で力を持ち始め、次第に過激な事件を起こすようになり、天狗党と呼ばれるようになります。
天狗党の名前の由来は、今でもなんだか威張って調子に乗っている人を天狗になっていると言います。
天狗党という名前もそのような意味合いで付けられました。
②怒る孝明天皇と桜田門外の変
(孝明天皇 出典:Wikipedia)
1858年、幕府の大老井伊直弼はアメリカと日米修好通商条約を締結します。
これは当時の孝明天皇の許可を得ないまま締結されました。当然、孝明天皇は激怒します。
孝明天皇はもともと外国が嫌いな性格でした。
激怒した孝明天皇は水戸藩に向けて「なぜ条約を結んだんだ!詳しく教えなさい!外国を追い払うよう幕府は改革しなさい!!」などの通知を出します。
このような通知が水戸藩に直接出されたことに対して、幕府の井伊直弼は水戸藩の陰謀として多くの尊王攘夷派を弾圧します(安政の大獄)。
これに対して、1860年、急進的な尊王攘夷派は井伊直弼を暗殺し(桜田門外の変)、さらに勢いを増していきます。
1862年には、後に天狗党を挙兵する藤田小四郎が京都で桂小五郎、久坂玄瑞などと会って尊王攘夷派の結束を固めています。藤田小四郎は藤田東湖の四男です。
③天狗党の誕生
1863年、孝明天皇はかねてから幕府が表明していた横浜港の鎖港を早く実行しなさいと催促しますが、幕府は進んで実行しようとはしませんでした。
これ怒った藤田小四郎は江戸幕府に鎖港を促すために仲間62人と挙兵しましたが、次第に各地から浪士や農民らが天狗党に加わるようになります。
数日後には150人、その後の一番多い時で約1,400人の大集団に膨れ上がりました。
挙兵した後、天狗党は日光東照宮で攘夷のための準備をするために栃木県の日光を目指しますが、水戸藩内で攘夷派が排撃されていると聞いて引き返します。
この時の天狗党は約700人に達していました。とうぜん、食糧やお金も不足していますよね。
すると天狗党は近くの町や村を襲い、金品を強奪したり、放火や要求を拒んだ村人らを惨殺するという暴挙を繰り返します。
水戸藩の内部抗争と幕府の対応
①水戸藩の内部抗争
水戸藩では桜田門外の変以降、過激な思想を唱える者は力を失い、幕府に忠実なグループが次第に勢力を持つようになり、諸生党を作ります。
藤田小四郎ら天狗党が挙兵するとこの諸生党は水戸藩内の過激派を排除しようと抗争を繰り返すようになりました。
この抗争を鎮める目的で江戸から水戸藩に向けて、水戸藩の支藩の松平頼徳が派遣されることになりますが、ここに諸生党などによって排除させられていた天狗党の一派が加わり大勢力となり水戸に向かうことになります。
ここに後から藤田小四郎らが参戦して争いが始まります。
諸生党側にはあとから幕府軍が援護したために、藤田小四郎らは敗れてしまいますがなんとか逃れその仲間約1,000人と新たに集結することになるのです。
②一橋慶喜を頼る天狗党
新たに集まった天狗党は京都に向かって進軍することになります。
なぜ京都に向かうことになったのでしょうか。
挙兵の理由は横浜港の鎖港を江戸幕府に訴えるためでした。
しかし、この間に蛤御門の変が発生し、孝明天皇が長州藩の征討を優先するように命令を出したために、これまでの横浜港の鎖港は後回しになってしまいます。
そのため、天狗党は江戸幕府に向かう理由がなくなってしまったわけです。
そこで天狗党は、京都にいる一橋慶喜を通して朝廷に尊王攘夷の主張を伝えようと京都を目指して進軍することになります。
(禁裏御守衛総督時代の慶喜 出典:Wikipedia)
一橋慶喜は徳川斉昭の子供ですね。
天狗党は同じ水戸藩出身の一橋慶喜を頼って行くわけです。
③天狗党の降伏
天狗党は京都へ向かうことになりましたが、挙兵当初のような周辺の町や村を襲うようなことは改められ、迎え入れてくれる村には抵抗しないという決め事を作っていました。
また、天狗党の進路と考えられるところには追討令が出されていましたが、これに従う藩はごくわずかでほとんどが傍観している感じでした。
天狗党は京都に向かう途中、各地で戦闘を繰り返しながら進軍していきます。
その道のりは、日に日に包囲網が広がり、大変困難を極めました。
最後には追われて福井県まで迂回することになります。
そんな中、一橋慶喜が自ら天狗党の討伐の指揮を執っていることを知ると、天狗党は京都への進軍は無理と決め降伏しました。
天狗党の乱の結果
降伏して捕らえられた天狗党は828名、その内352名が斬首刑され、さらには水戸藩ではその家族までが処刑されました。
これによって天狗党はことごとく粛清されますが、江戸幕府が滅びると、再び実権を握り今度は諸生党の勢力を報復とばかりに次々に処刑するという悲劇が起こりました。
天狗党の一連の争乱によって、水戸藩では多くの有能な水戸藩士が亡くなり、明治維新後の新政府のメンバーには水戸藩の名前はありませんでした。
まとめ
・天狗党は水戸藩で誕生した尊王攘夷を主張するグループ。
・その天狗党が各地で起こした事件・争乱をまとめて天狗党の乱と呼ぶ。
・この天狗党の乱によってたいへん多くの有能な人材が亡くなった。
・天狗党の乱によって水戸藩は衰退し、明治新政府で要職に就く人物を輩出できなかった。