20世紀初め、辛亥革命により清が滅亡した後、新たに誕生した中華民国政府が全国を統一し、近代国家を建設しようとしました。

 

その時、政府が基本的な政治方針としたのが辛亥革命を導いた孫文の政治理論「三民主義」でした。

 

今回は、『三民主義』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

三民主義とは?

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(孫文 出典:Wikipedia)

 

三民主義とは、中国・清の末期、ヨーロッパに亡命していた孫文が唱えた政治理論で・・・

  • 民族主義(民族の独立)
  • 民権主義(民主制の導入)
  • 民生主義(国民生活の安定)

の三つから成ります。

 

1890年代に構想された後、1905年に結成された中国同盟会の綱領に採用され、辛亥革命の政治理念となりました。

 

清が滅亡し中華民国が建国されてからは、軍閥の勢力争いや中国共産党との提携などを経た結果、1924年に三民主義の新たな立場が打ち出されました。

 

のちに毛沢東が唱える新民主主義にも受け継がれます。

 

当時の時代背景

清の位置

(清の位置 出典:Wikipedia)

 

1636年に満州族が中国(明)を征服して打ち立てた王朝・は、19世紀に入ると、官僚制度の腐敗と欧米諸国の進出により、しだいにその勢力に陰りを見せるようになります。

 

その決定的な転換点となったのが、1840~42年のアヘン戦争です。

 

①アヘン貿易

19世紀前半、イギリス東インド会社は、中国との貿易により、陶磁器、絹織物、茶などを独占的に輸入し、莫大な利益を得ていました。

 

しかし、イギリスから中国への輸出品がそれに見合わなかったため、イギリス国内の銀が中国に大量流出する事態が起こりました。

 

イギリスはこの事態に対処するため、インド産の麻薬・アヘンを中国に密輸し、その代金として中国からイギリスへと銀を戻すという戦略をとりました。

 

こうすれば、中国からどれだけ物品を輸入しても、イギリス国内の銀が減ることはありません。これをアヘン貿易と呼びます。

 

しかし、この戦略は当然中国の側で大問題を引き起こします。

 

事実、中国では、アヘン中毒者の増加により治安が悪化した上、国内の銀が海外に大量流出したことで、財政難に陥りました。

 

しかし、密輸を取り締まるはずの清の官僚は、イギリス商人から賄賂を受け取っていたため、清はアヘンの密輸を止めることができませんでした。

 

②アヘン戦争

そうした中、新たにアヘン密輸の取り締まりをする欽差大臣に任命された林則徐が、イギリス商人のアヘンを没収し廃棄するという事件が起こりました。

 

イギリスはこれを口実に、清との間でアヘン戦争を始めます。

 

1840年に開戦したアヘン戦争では、イギリスが最新鋭の軍艦を用いて、広州や上海などの沿岸部を次々と攻撃しました。

 

 

そして、ついに北京へと迫ろうとしたため、清は1842年に降伏し、両国の間で南京条約が締結されました。

 

この条約は、広州・福州・廈門(アモイ)・寧波(ニンポー)・上海の開港、香港の割譲、賠償金の支払いなどを取り決めたもので、欧米諸国による中国進出の先駆けとなりました。

 

③清の凋落

1844年には、南京条約に準じる形で、清とアメリカとの間で望廈条約、フランスとの間で黄埔条約が締結されました。

 

これにより、アメリカとフランスも、イギリスと同等の権利をもつことになりました。こうして清は欧米列強の植民地政策に組み込まれます。

 

また、1894~95年の日清戦争では、それまで属国とみなしてきた日本に敗北し、欧米諸国と結んだ不平等条約と同等の下関条約が締結されます。

 

 

もはや清の凋落は誰が見ても明らかとなりました。

 

前期の三民主義

(17歳の頃の孫文 出典:Wikipedia)

 

1866年広東省生まれの活動家・孫文は、祖国の窮状を救うため、1894年ハワイで兄と合流し、清朝打倒を目指す秘密革命結社・興中会を結成します。

 

翌1895年には広州で武装蜂起しますが、これは失敗に終わってしまいます。

 

孫文は亡命を余儀なくされ、日本、ハワイを経由して、イギリスのロンドンに移りました。

 

彼はその地で見聞を広め、のちに三民主義と呼ばれる政治理論を構想しました。

 

①三民主義の意味

三民主義とは、民族主義民権主義民生主義を合わせたものを指します。

 

アメリカ第16代大統領リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」という有名な表現にヒントを得たものですが、内容自体は孫文のオリジナルです。

 

リンカーンの場合とは違って、衰退する祖国を救うという「救国」の発想がその根底にあります。

 

三民主義のうち、一つ目の「民族主義」とは、民族の独立を意味します。

 

具体的には「滅満興漢」、つまり満州族の清朝を打倒して、漢族の国家を打ち立てることを指しています。

 

二つ目の「民権主義」とは、民主制の実現のことです。ここでいう「民主制」は、アメリカをモデルに考えています。

 

アメリカにおける立法・行政・司法の三権分立に着想を得て、立法・行政・司法・考試・監察の五権分立が構想されました。

 

最後の「民生主義」は、平均地権によって国民生活を安定させることを指しています。

 

この「平均地権」とは、アメリカの経済学者ヘンリー・ジョージの学説に影響を受けた政策で、社会発展に伴って生じた地価の値上がり分に課税することで、貧富の差を小さくしようとしたものです。

 

ロンドン亡命中に、ヨーロッパの先進国にも貧困があることを知ったことが、こうした理論形成に影響を与えました。

 

②中国同盟会の結成

1905年、それまで滅満興漢運動を続けていた興中会、華興会、光復会などが東京に結集し、中国同盟会へと発展的に統合されました。

 

その初代総裁には孫文が就き、「四綱」と呼ばれる綱領には、駆除韃虜・恢復中華・建立民国・平均地権が掲げられました。

 

このうち、満州族の追放を意味する「駆除韃虜」と、漢族の復興を意味する「恢復中華」が、民族主義に相当し、建立民国と平均地権がそれぞれ民権主義と民生主義に相当します。

 

つまり、孫文が構想した三権主義が、中国同盟会の政治方針となったのです。中国同盟会はこれ以降、この方針に基づいて辛亥革命を主導することになります。

 

③辛亥革命

中国同盟会発足の6年後に当たる1911年10月10日、辛亥革命が勃発します。

 

 

同日、武漢で清の新軍(ヨーロッパ式の近代装備を導入した陸軍)の一部が武装蜂起すると、南方に向かって連鎖拡大しました。

 

翌1912年1月1日には、南京を制圧した革命派が中華民国臨時政府を樹立しました。その臨時大総統となったのが、辛亥革命を導いた孫文でした。

 

しかし、革命の徹底はすぐ困難に直面します。日本やイギリスなどの列強が圧力を加えてきたほか、革命派の内部でも主導権争いが起きていたからです。

 

そうした中、清は北洋軍閥の袁世凱に革命派の討伐を命じました。

 

ところが、袁世凱は内閣を組織して、軍事権だけでなく政権も掌握し、イギリスの仲介で革命派との和平を画策します。

 

そして、1912年2月、清の宣統帝を退位させ、その見返りとして、袁世凱は孫文から臨時大総統の地位を譲り受けます。

 

同年3月10日には、中華民国北京政府を発足させ、正式な初代大総統になりました。

 

④中華民国建国のその後

中華民国の建国という出来事は、中国で過去2000年に及ぶ専制君主制が終わり、アジア初の共和国が誕生したことを意味しています。

 

しかし、中華民国の実権は孫文から袁世凱へと移り、孫文ら革命派の理念は完全には実現されませんでした。

 

彼らは政府内ではなく、在野で活動を続けることになります。

 

中華民国の初代大総統となった袁世凱は、孫文ら革命派を政府から追い出すと、徐々に独裁色を強めていき、ついには帝政を復活させて、自ら皇帝になろうとしました。

 

しかし、これに対しては反対運動が起こり、さらには袁世凱自身が失意の中で病死したため、帝政の復活は阻止されました。

 

これ以降、中国は軍閥どうしが勢力争いをする混乱状態が続くようになりました。

 

後期の三民主義

 

中華民国内で軍閥の抗争が続く中、孫文は日本に亡命し、改めて三民主義を実現する機会をうかがっていましたが、まもなくそこに転機が訪れます。

 

それが1919年の五・四運動です。

 

①五・四運動

五・四運動は、1919年5月4日に起きた全国規模の反日運動のことです。

 

同年1月から開かれていた第一次世界大戦のパリ講和会議の席で、欧米列強が山東半島の権益をめぐる日本の主張を擁護したことに対して、中華民国の人々が憤慨したことが発端となりました。

 

 

五・四運動では、かねてより二十一カ条要求以来の日本の中国侵略政策に不満をもっていた知識人、学生、労働者たちが、対日交渉を担当していた政治家である曹汝霖らの解任を要求する街頭デモを行いました。

 

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(曹汝霖 出典:Wikipedia)

 

それは、やがて日本製品の不買運動や工場でのストライキにつながり、中国全土へと波及しました。

 

これを受けて中華民国は翌6月、パリ講和条約への調印を拒否することを決め、さらに対日交渉を担当した親日政治家を罷免せざるを得なくなりました。

 

この出来事は、中国人の民族意識を呼び起こすきっかけとなりました。こうして中華民国は大衆運動の季節へと突入します。

 

②国共合作

こうした中、孫文もまた自らの思想を発展させ、共産主義勢力との協力が不可欠であるとの結論に至りました。

 

そこで、孫文は当時率いていた中国国民党を改組し、中国共産党との提携を決めました。

 

このように、国民党と共産党が提携することを「国共合作」と言います。

 

 

この国共合作の下、1924年1月、広州で国民党第一次全国代表大会が開かれます。その大会で、連ソ・容共・工農扶助の三大政策が打ち出されました。

 

なお、ここでいう「連ソ」とはソ連共産党を中心としたコミンテルンと連携すること、「容共」とは共産党員を国民党に受け入れること、「工農扶助」とは労働者と農民を助けることを意味します。

 

③三民主義の新たな方向性

そして、同年に孫文は三民主義に関する連続講演を行い、民族主義・民権主義・民生主義から成る三民主義に新たな方向性を与えました。

 

それによれば、「民族主義」とは、抑圧されている諸民族の連帯と列強の帝国主義に対する闘争を通じて、中国民族の自由と独立を実現することであり、「民権主義」とは、立法・行政・司法・監察・考試の五権分立を記した憲法を作り、4つの直接民権(選挙権・罷免権・創制権・複決権)を全国民に与えることです。

 

また、「民生主義」では、従来の平均地権を発展させたほか、節制資本(巨大な私的資本を国家が管理すること)の考えも取り入れました。

 

三民主義にこうした新たな方向性を打ち出した孫文は、翌1925年に病死しますが、その発想は次の世代の革命家である毛沢東新民主主義に受け継がれました。

 

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(毛沢東 出典:Wikipedia)

 

まとめ

 三民主義とは、中国・清の末期、ヨーロッパに亡命していた孫文が唱えた政治理論のこと。

 民族主義(民族の独立)・民権主義(民主制の導入)・民生主義(国民生活の安定)の三つから成る。

 1905年に結成された中国同盟会の綱領に採用され、辛亥革命の政治理念となった。

 中華民国建国後、国共合作の下で1924年に三民主義の新たな立場が打ち出された。

 のちに毛沢東の新民主主義に受け継がれる。

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