歴史上でも、影が薄く、その上とても分かりにくいとされている南北朝時代。

 

南北朝時代は、別々の天皇を擁する2つの朝廷が同時期に出現するという特殊な時代でした。

 

今回は、『南北朝時代』における代表的な出来事や代表する人物について、簡単にわかりやすく説明していきます。

 

南北朝時代とは?

 

南北朝時代は、1336年から1392年までの約56年間の時代を指しています。

 

56年ほどで終わってしまう時代と言うのも、歴史上稀です。

 

そして、鎌倉時代後期から室町時代初期にかけて、本当にたくさんの人たちが関わっていて何かとややこしい!

 

しかし、なんでこんなにややこしくなったのでしょうか。

 

南北朝問題がややこしくなった3つの理由と関連人物

 

ややこしくなった理由を簡単に3つにまとめてみました。

 

①ずっと実権を握っていた後嵯峨天皇が、後継者をちゃんと指名しないまま崩御した

②当初は「持明院統と大覚寺統が交代で天皇を出しましょう」という話になったが、途中で「そんなの納得いかない!」と言い出した天皇が何人かいた

③この後継者問題に仲裁に入っていた鎌倉幕府が滅び、同じく仲裁すべき室町幕府で内輪モメが始まり、それどころじゃなくなってしまった

 

また、重要な登場人物がとても多いので、こちらも簡単にまとめてみました。

 

  • 後嵯峨天皇・・・鎌倉時代中期の天皇
  • 大宮院・・・後嵯峨天皇の后で、後深草上皇と亀山天皇の生母
  • 後深草天皇/上皇(持明院統)・・・後嵯峨天皇の長男
  • 亀山天皇/上皇(大覚寺統)・・・後嵯峨天皇の次男
  • 西園寺実兼・・・幕府と折衝役である関東申次の西園寺実兼
  • 後宇多天皇・・・亀山上皇の皇子
  • 伏見天皇・・・後深草上皇の皇子
  • 久明親王・・・鎌倉幕府八代将軍で伏見天皇の弟
  • 北条時宗・・・後期鎌倉幕府の執権
  • 後醍醐天皇・・・大覚寺統の出。鎌倉終盤に皇位に立つ。南北朝問題の発端人
  • 足利尊氏・・・源氏の名門、武士の出。征夷大将軍で、室町幕府成立の立役者であり、初代将軍。
  • 新田義貞・・・源氏の出。後醍醐天皇についていた。
  • 楠木正成・・・後醍醐天皇について、何度も足利尊氏との和睦を推進する。
  • 足利直義・・・足利尊氏の弟
  • 高師直・・・足利尊氏の右腕であり、室町幕府の2。足利直義を妬んでいた。
  • 足利直冬・・・足利直義の養子。南朝に寝返る。
  • 足利義詮・・・足利尊氏の息子で、室町幕府第二代将軍。
  • 足利義満・・・足利義詮の息子で、室町幕府第三代将軍。明徳の和約を結び、南北朝問題に終止符を打つ

     

    さらに今回は天皇の系統が2つ登場するので、先に押さえてしまいましょう。

     

    • 持明院統・・・後深草天皇の系統。後深草天皇が譲位後に住んでいたお寺の名前に由来
    • 大覚寺統・・・亀山天皇の系統。亀山天皇の子・後宇多天皇と縁の深いお寺の名前に由来

       

      では早速、南北朝時代について詳しく見ていきましょう。

       

      南北朝時代の流れを一気に解説!

      ①ことの発端は皇位継承問題

      当時の天皇であった後嵯峨天皇は、自身の実権を握り続けるため、短期間に自分の息子を次々譲位、即位させていました。

       

      これにより、鎌倉時代の中期は実質、後嵯峨天皇の院政が取られ続けていました。

       

       

      しかし、後嵯峨天皇は自分が崩御するまで、次の天皇を正式に指名しなかったんです。

       

      息子2人に次々譲位を繰り返した後嵯峨天皇。

       

      遺言にも後継者を指名するような文言もなく、ただただ鎌倉幕府の意向に沿う様にとしか書かれていません。

       

      ちゃんと決めていれば、南北朝問題は起きなかったでしょう。

       

      ここで、彼の息子である兄の後深草天皇とその弟の亀山天皇対立が激化してきました。

       

      ②結論が出ないまま、朝廷から幕府へ意思決定が委ねられたが…

      残された後深草天皇と亀山天皇のどちらが政治を主導していくのか、揉めに揉めた朝廷。

       

      皇室内の荘園相続にもつながり、権力だけでなく土地やお財布問題にまで発展します。

       

      なかなか結論を出すことが出来ませんでした。

       

      朝廷は、幕府の意見を求めるために、鎌倉幕府へ使いを派遣するに至ります。

       

      ③幕府もどうしていいかわからず、生母のご意見を聞く

      幕府も今回のこの問題に対して積極的に関与しづらい部分もあったのか、後深草上皇と亀山天皇の生母である大宮院に、「後嵯峨上皇がどのようにお考えだったか、何かご存じありませんか?」というお伺いをたてます。

       

      そのくらい混乱を極めていたんですね。

       

      そこで生母である大宮院は、幕府に対して「亀山天皇が親政を行うことが、後嵯峨天皇の意思である」という返事を返すのです。

       

      幕府でも、そのようにするという返事を出し、かくして亀山天皇は自分の息子である後宇多天皇に位を譲り、院政を開始。

       

      問題は解決しました!

       

      ④納得いかない後深草天皇が取った行動?!

      とはいえ、この結果に兄である後深草天皇は納得いくはずもありませんよね。

       

      不満だらけの後深草天皇は、上皇の位を放棄して、出家しようとします。

       

      ⑤不穏を感じていた鎌倉幕府も対策を練っていた

      鎌倉幕府は、この結果になることはどうやら予想がついていた様で、幕府と折衝役である関東申次の西園寺実兼と相談。

       

      後深草上皇と亀山上皇の争いを避けようと、あらゆる策を巡らせます。

       

      ひとまずは、後深草上皇の皇子(後の伏見天皇)を亀山上皇の猶子として、後宇多天皇の皇太子に立てることにします。

       

      ⑥元寇が起きてバタついているうちに

      しかも、タイミングが悪いところで元寇が起きてしまい、暫くは朝廷も幕府も皇位継承問題どころではなくなってしまいました。

       

       

      ここで再び、西園寺実兼の申し出により、この問題が表面化。

       

      後宇多上皇の皇子と伏見天皇の皇子のどちらを次の後継者に取ったのでしょうか。

       

      結局は伏見天皇が即位して後深草上皇の院政開始。兄弟の間で、実権が入れ替わった形となります。

       

      そして、問題はその次の皇太子をどうするか。

       

      意見は真二つに割れ、既に「後深草上皇と亀山上皇の皇子を交代交代に」という流れになりつつありましたが、原則としては、やはり親子間での皇位継承が望ましいという考えも事実としてありました。

       

      結果は、伏見天皇の息子が後継者となりました。

       

      今回は、伏見天皇の弟であり鎌倉幕府八代将軍の久明親王も加わり、これで流れは整ったかに見えました。

       

      ⑦伏見天皇暗殺未遂事件が勃発

      浅原為頼という武士とその仲間たちが、伏見天皇の暗殺を目論むという事件が!

       

      当然ながら持明院統は、亀山上皇率いる大覚寺統の仕業だと思いました。

       

      亀山上皇は無関係であることを主張するものの、この暗殺未遂事件がきっかけで、両者はさらに深く対立していきました。

       

      ⑧幕府、ついに両統迭立(りょうとうてつりつ)を発布

      またもや幕府側にも、持明院統・大覚寺統からの味方になるよう求める要求が届きます。

       

      当時の幕府の執権であった北条時宗により、以前に決めた通り、両方の系統を交代交代で皇位継承をしていくように返事をします。

       

      これが、「両統送立(りょうとうてつりつ)」です。

       

      ⑨文保の御和談が破談

      順番で言ったら、まだ幼い大覚寺統の後二条天皇の皇子である邦良親王が跡を継ぐのですが、中継ぎに後二条天皇の異母弟―後の後醍醐天皇が立ったのです。

       

      当時は両統迭立が発生してから30年近くが経過し、現行の後始末や御家人と北条家の家臣との間での対立も起き、幕府は天皇継承問題には介入しなくなってきます。

       

      そこで、持明院統と大覚寺統の間で「文保の御和談」と呼ばれる話し合いの場が設けられますが、やはり意見は一致せず、破談となります。

       

      またもや西園寺実兼が登場し、後醍醐天皇の即位大覚寺統から皇太子を立てることが決まってしまうのです。

       

      ⑩後醍醐天皇の政治で混乱が極まる

      後醍醐天皇は、大覚寺統の血筋。

       

      後醍醐天皇は、両統迭立を保つ鎌倉幕府の姿勢が天皇の権力集中を妨げると考えていました。

       

      解決するには、鎌倉幕府をやっつけるしかない!そう考えていました。しかし、後醍醐天皇の計画はそのたびにバレてしまい、後醍醐天皇自身が隠岐へ流されたりもしました。

       

      同時に、元寇での鎌倉幕府からの恩賞不足等が原因で、地方武士からは愛想をつかされ始めた鎌倉幕府。

       

      後醍醐天皇の討幕が失敗に終わっても、武士たち内部での討幕の機運も高くなり、鎌倉幕府が滅びるのも時間の問題となりつつありました。

       

      そう、その中には源氏の名門足利尊氏や同族の新田義貞、そして楠木正成もいました。

       

      彼らの活躍で、鎌倉幕府は崩壊したのです。

       

      ⑪後醍醐天皇、自分の天下と思い建武の新政を始める

      これを見た後醍醐天皇は、待ってました!とばかりに、建武の新政をスタート。

       

       

      建武の新政とは簡単に言うと・・・

      ・朱子学に基づく天皇主権の政治体制→大義名分論

      天皇自らが政治を行う

      という体制なのですが、

      性急すぎる改革が目立つ

      ・これにより業務が停滞

      ・あらゆる方面に反感を買う

      不安定な政治体制

      というデメリットの数々・・・。

       

      新体制の不安定さを目の当たりにした関東勢は、北条氏の残党が騒乱(中先代の乱)を起こします。

       

       

      これを見た足利尊氏はなんと、後醍醐天皇の相談なしに中先代の乱を鎮め、武士からの信望を高めていきました。

       

      しかし後醍醐天皇は彼を圧し、足利尊氏は九州に落ち延びることとなってしまいました。

       

      そこで手を差し伸べたのは持明院統

       

      足利尊氏を最終的に支持し、足利尊氏は「建武式目十七条」を定め、持明院統である光明天皇を擁立し、「武家政権」そう室町幕府を開きます。

       

      ⑫諦めの悪い後醍醐天皇、南朝を開く

      新田義貞楠木正成は、後醍醐天皇につき従っていました。

       

      楠木正成は、後醍醐天皇に足利尊氏との和睦を提言するも、後醍醐天皇派(大覚寺統)の公家たちは一蹴。

       

      楠木正成は半ばやけくそになり、最後は湊川の戦いで足利尊氏に敗れ、命を落としてしまいます。

       

      征夷大将軍となった足利尊氏によって京を追い出された後醍醐天皇は、吉野へ逃げ延びますが、ここでも彼は諦めませんでした。

       

      後醍醐天皇は吉野で、正当な天皇だと主張し、南朝を開きました。

       

      ここに、北にも南にも朝廷ができるという、南北朝時代が誕生しました。

       

      しかし他の武士も各地で敗北し、南朝の軍はあっという間に数を減らしていくのでした。

       

      ⑬後醍醐天皇崩御で時勢は北朝へ

      そんなさなか、後醍醐天皇は1339年に崩御

       

      これにより、南朝の大義名分が薄れてき、時勢は北朝に傾いてきました。

       

      ⑭室町幕府でもけんか勃発

      それでも、生き残っていた南朝方の武士は、北朝との戦いを続けていきます。

       

      しかしこのあたりで、北朝に属している室町幕府でも、足利尊氏(兄)と足利直義(弟)による、多数の人を巻き込んだ兄弟げんかである、観応の擾乱が発生!

       

       

      源氏はもう内紛や内輪もめが絶えませんね。

       

      ⑭-1.観応の擾乱のきっかけは?

      政務担当であり副将軍状態足利直義を妬んでいた、足利尊氏の側近であり、室町幕府のNo.2だった高師直(こうのもろなお)とその周辺が対立を起こします。

       

      実質南朝軍を打ち破っていた高師直は、足利尊氏の弟である足利直義が不要であると考えたからだとか。

       

      更に悲しいことに、足利尊氏と直義は元より仲が良かったことでしょうか。

       

      ⑮南北朝を統一したいのに、出来なかった足利尊氏

      室町幕府の初期は、さらに混乱を極めます。

       

      観応の擾乱で揺れている北朝をしり目に、南朝方の軍勢が勢いを増し、何と三種の神器を奪ってしまいます!

       

      更に、これを見た足利直義の養子である、足利直冬までも南朝方へ寝返ってしまい、解決しないまま足利尊氏の死去、そして息子の足利義詮(あしかがよしあきら)が二代将軍へとなりました。

       

      しかし、二代将軍がいても落ち着かない情勢に、満を持して登場するのがあの有名な人物です!

       

      ⑯待ってました!足利義満さん!

      数々の擾乱が巻き起こりながらも、やっと腰を据えて制度整備をしようとした足利義詮も、就任後わずか4年で病死。

       

      ここで登場するのが、当時10歳だったあの、足利義満!彼が第三代将軍となります。

       

      実は、足利義満の時代に南北朝問題が解決するのです!

       

      ⑰足利義満の行った政治改革

      足利義満は、先ず京都の警察機能を幕府に一元化します。

       

      そして、公家や寺社と数々の交渉を行いつつ、奈良だけでなく、各地で権威の誇示に務め、東国、西国の武士や南朝方にまでプレッシャーをかけたのでした。

       

      世間的に地位を高めつつ、自らの身辺警備を固め、ちょっとのことで自分の地位が揺れ動かないようにしたのです。

       

      その集大成が、南北朝の合一です。

       

      ⑱ついに明徳の和約で南北朝問題が解決・・・?

      さらに足利義満の手腕はとどまることを知りません。

       

      各地で将軍としての力を誇示した足利義満の最後の和平交渉は、南朝。

       

      そして、室町幕府と南朝の間に和約を成立させます。これが、明徳の和約です。

       

      しかし、これはあくまで「室町幕府と南朝の間のみ」であって、北朝は蚊帳の外状態です。

       

      当然ながら、当時の北朝の後小松天皇らは反発します。

       

      和約の中では「今後の皇位は両統迭立とする」とされていました。

       

      合一後、なんと後小松天皇は旧南朝方ではなく、自らの皇子である称光天皇を後継者にしましたのです。

       

      これには当然、旧南朝方が猛反発します。

       

      さらに称光天皇が皇子のないまま崩御したため、応仁の乱あたりまで旧南朝方(=後南朝)は反発しています。

       

      しかし、応仁の乱がその頃始まったため、これ以降の天皇後継者問題は歴史の表舞台から姿を消し、埋もれてしまうのでした。

       

      南北朝の最後は、実にすっきりしない終わり方だった、と言う訳です。

       

      まとめ

       

      長くなりましたが、南北朝時代をまとめると、下記の通りです。

       事の発端は、後嵯峨天皇が遺言で後継者を明言しないことから始まった。

       結論が出ないまま皇位の継承は続くも、揉めに揉めて両統迭立によって交代交代で天皇の位を譲ることで話はまとまる

       天皇の中継ぎ問題で事態はさらに悪化。文保の御和談が行われるも、破談に終わる

       その後西園寺実兼により、後醍醐天皇の皇位継承と大覚寺統の後継が決定

       後醍醐天皇は天皇が実権を握るべきと考え、鎌倉幕府の打倒を企てるも未遂に終わり、沖へ流される

       打倒、鎌倉幕府の機運は武士の層にまで働き、足利尊氏、新田義貞、楠木正成らの活躍によって鎌倉幕府は滅亡

       後醍醐天皇はこれをチャンスとし、建武の新政を開始するも、各所からの反発が

       特に大きかった中先代の乱を足利尊氏は独断で鎮めるが、後醍醐天皇により追放を受ける

       そんな足利尊氏を持明院統が支持し、足利尊氏は室町幕府を設立。初代将軍となる。

       諦めの悪い後醍醐天皇は、吉野へ逃れ、自分が正当な天皇の後継者であるとし、南朝を開く

       後醍醐天皇についていた楠木正成は、何度も足利尊氏と和解するように説得するも失敗。後に足利尊氏に打ち取られてします。

       後醍醐天皇の崩御により時勢は北朝へ傾くも、戦いは終わらず、室町幕府内では足利尊氏と足利直義による観応の擾乱が起きる

       失意のまま足利尊氏死去、息子の足利義詮が二代目将軍へ。

       足利義詮も将軍就任後わずか4年で死去。当時10歳の足利義満が第三代将軍へ。

       足利義満は、政治改革により自分の地位を確固たるものに成功。最終的に明徳の和約で南朝との和解に成功。

       再度しっかりと両統迭立を和約でとりつつも、持明院統も大覚寺統もそれを破る。

       応仁の乱が勃発し、歴史上南北朝問題は埋もれてなくなっていくのだった。




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