江戸時代に杉田玄白らによって出版された『解体新書』。

 

日本初の医学系洋書の翻訳本で、国内に蘭学を広めるきっかけとなった重要な一冊です。

 

今回はそんな『解体新書』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

解体新書とは

(解体新書 出典:Wikipedia

 

 

解体新書とは、ドイツのヨハン・アダム・クルムスという医師が書いた解剖書のオランダ語訳ターヘル・アナトミア』を、杉田玄白前野良沢らが日本語に翻訳した本のことです。

 

江戸時代(1774年)に発行され、5巻(本文4巻+解剖図1巻)で構成されています。

 

その後の医療に大きく貢献し、そのほか蘭学の発展にもつながりました。

 

『解体新書』発行までの経緯

解体新書作成の中心人物とは

解体新書を作成した中心人物は、杉田玄白と前野良沢です。

 

解体新書というと、杉田玄白のイメージが強いですが、実は、前野良沢が翻訳における一番の功労者といっても過言ではありません。

 

ではここで、杉田玄白と前野良沢の簡単なプロフィールと、『解体新書』を語る上ではずせない『ターヘル・アナトミア』とのそれぞれの出会いをご紹介します。

 

杉田玄白は、小浜藩(福井)の医者の家に生まれ、24歳で独立し、日本橋で開業医(町医者)になりました。

 

(杉田玄白 出典:Wikipedia

 

 

その頃、同じ小浜藩出身の後輩、中川淳庵から『ターヘル・アナトミア』を紹介されました。

 

ちなみに、この中川淳庵(なかがわじゅんあん)も『解体新書』作成に加わったひとりです。

 

前野良沢は、玄白より10歳年上。

 

(前野 良沢 出典:Wikipedia

 

 

中津藩(豊前国)の医者で、47歳の時、オランダ語の研究者として有名だった青木昆陽(こんよう)にオランダ語を学びました。

 

その後、長崎のオランダ語通訳、吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)の下で学んでいる時、『ターヘル・アナトミア』に出会い、有り金をはたいて購入しました。

 

②『解体新書』作成のきっかけ

(ターヘル・アナトミア 出典:Wikipedia

 

 

杉田玄白や前野良沢らがオランダ語で書かれた『ターヘル・アナトミア』を翻訳しようと思い立ったきっかけは何だったのでしょうか?

 

それは、177134のある出来事がきっかけになりました。

 

その日、杉田玄白、前野良沢、中川順庵の3人は、江戸の千住にある小塚原刑場で行われた罪人の解剖を見学しました。

 

その時、杉田玄白と前野良沢は、偶然にも、それぞれ『ターヘル・アナトミア』を持ってきていました。

 

解剖されていく人体の内部と「ターヘル・アナトミア」の解剖図を見比べ、その正確さとクオリティの高さに驚き、感動しました。

 

これまで、玄白らが学んでいた中国の解剖書とは雲泥の差があったのです。

 

西洋医学のレベルの高さに衝撃を受けた3人は、その日の夜、『ターヘル・アナトミア』の日本語への翻訳を決意しました。

 

このとき、良沢49歳、玄白39歳、淳庵33歳。

 

ちゃんとしたオランダ語の辞書もない時代、唯一オランダ語を学んだ経験のある良沢だけを頼りに、無謀にも近い翻訳作業を始めました。

 

③『解体新書』作成の苦労

 

翻訳作業は、解剖を見学した翌日の35日からさっそく始めました。

 

未知の外国語で書かれている本を辞書も通訳もなしで翻訳するのがどれだけ大変なことかは、簡単に想像がつきます。

 

後に玄白はその当時の心境を『ターフルアナトミアの書に打向ひ、誠に艫舵(ろかじ)なき船の大海に乗り出せし如く、茫洋(ぼうよう)として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり』と回顧録で語っています。

 

舵のない船で広い海に乗り出したように、どこからも手のつけようもなく、途方にくれた様子がわかります。

 

翻訳作業では、オランダ語を習った経験のある良沢が知っている限りの単語を日本語に訳していきました。

 

それと同時に、挿絵にあった人体解剖図に記された臓器の名称を、本文中に当てはめていきました。

 

翻訳を始めた当初は、『眉とは目の上にはえる毛なり』というシンプルな一文でさえも、翻訳するのに丸一日かかったといます。

 

あまりに気の長い、骨の折れる作業だったため、仲間の中にはあきらめて去っていく人もいました。

 

しかし、さすがは医者や学者のインテリ集団。翻訳を始めて1年ほど経つ頃には、1日に10行ほどは翻訳できるほどに成長したそうです。

 

④『解体新書』完成

(適塾所蔵『解体新書』 出典:Wikipedia

 

 

ついに、翻訳開始から3年半後の1774、本文4巻、解剖図1巻の5巻からなる『解体新書』が出版されました。

 

この時『解体新書』に記された作成者の名前をみると、杉田玄白、中川淳庵、石川玄常(いしかわげんじょう)、桂川甫周(かつらがわほしゅう)の4人の名が連名で記されています。

 

翻訳の中心人物で、最後まで翻訳作業を行っていた良沢の名がないのはどうしてなのでしょうか?

 

実は、そのはっきりとした理由はわかっていません。一説には、『解体新書』の翻訳内容に満足しておらず、翻訳者として名前を載せることを拒んだともいわれています。

妥協を許さない、志の高い人ですね。

 

解体新書の内容

 

巻の一総論

形態・名称、からだの要素、骨格・関節総論及び各論

 

巻の二

頭、口、脳・神経、眼、耳、鼻、舌

 

巻の三

胸・隔膜、肺、心臓、動脈、静脈、門脈、腹、腸・胃、腸間膜・乳糜管、膵臓

 

巻の四

脾臓、肝臓・胆嚢、腎臓・膀胱、生殖器、妊娠、筋肉

※5巻目はは解剖図1巻

 

『解体新書』の影響・結果

 

①蘭学のさらなる発展

西洋科学書の日本で初めての本格的な翻訳書として『解体新書』が出版されると、蘭学を学ぶ機運が急速に高まり、日本で蘭学という学問が広がる大きなきっかけとなりました。

 

蘭学とは、ヨーロッパの自然科学や歴史、文化などを主にオランダ語で研究する学問のことです。

 

『解体新書』以降、蘭学を学ぶものが増え、玄白と良沢の弟子「大槻玄沢」は、蘭学の入門書『蘭学階梯(らんがくかいてい)』を出版。

 

さらにその弟子の稲村三伯(いなむらさんぱく)は日本最初の蘭日対訳の辞書『波留麻和解 (はるまわげ)』をつくりました。

 

 

②杉田玄白の回顧録『蘭学事始』

杉田玄白は、1815年、晩年83歳の時、『解体新書』を翻訳した当時の回顧録を書き、『解体新書』を出版するまでの苦労話や蘭学が発展していく経緯を記しました。

 

しかし、この回顧録は、出版されたわけではなく、写本で残されだけでした。

 

そのため、幕末から明治の混乱と激動の中、写本の存在ははっきりせず、時代に埋もれた書物になってしまいました。

 

そんな回顧録に再び光を当てたのが福沢諭吉でした。

 

 

諭吉は、友人が古書店でたまたま見つけた玄白の回顧録を手に取り、読み進めると感動のあまり涙を流したというエピソードが残っています。

 

その後、諭吉は、杉田玄白の子孫杉田廉卿(れんけい)から許可をもらい、1869(明治2年)に玄白の回顧録を『蘭学事始(らんがくことはじめ)』として復元し、出版しました。

 

(明治2年発刊『蘭学事始』 出典:Wikipedia

 

まとめ

・『解体新書』は、ドイツのヨハン・アダム・クルムスという医師が書いた解剖書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』を日本語に翻訳した本のこと。

・『解体新書』は、1774年に発行され、5巻(本文4巻+解剖図1巻)で構成されている。

・『解体新書』の主な著作者は、杉田玄白、前野良沢。

・『解体新書』の出版は、日本国内に蘭学が広まる大きなきっかけとなった。

・杉田玄白は晩年、『解体新書』作成の苦労話などまとめた回顧録を記し、それを明治時代になって出版したのが福沢諭吉だった。




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