江戸時代初期、幕府は大船建造の禁を制定します。

 

それは、どんな内容で、どのような目的があったのでしょうか?

 

今回はこの『大船建造(おおぶねけんぞう)の禁』についてわかりやすく解説していきます。

 

大船建造の禁とは?

(江戸時代の弁才船 出典:Wikipedia

 

 

江戸幕府が始まって間もなく、1609年9月に第二代将軍の徳川秀忠により、大船建造の禁令が制定されます。秀忠が発布したことになっていますが、実質は初代将軍の徳川家康が計画したものでした。

 

大名統制法令の一つであり、1635年6月に制定された武家諸法度の第17条でも、「大船建造禁止令」として書かれています。

 

この禁令は、特に西国大名に向けて出されたものであり、500石以上の軍船と商船を没収し、水軍力を制限するものでした。

 

その後、この禁令は改正などを経て、江戸時代後期まで続きます。そして、黒船来航にともない廃止されました。

 

大船建造の禁が作られた背景

 

 

江戸幕府が大船建造の禁をつくった時は、どのような時代だったのでしょうか。そこには、国を統一した幕府というシステムが影響しています。

 

①江戸幕府の始まり

江戸幕府は1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利をして、1603年から始まります。

 

 

幕府の体制は徳川家将軍を頭に、その下に各地の藩を統治する大名を従える幕藩体制でした。

 

そのため、各地の大名たちを統制することが国と幕府の安定を保つには重要なことでした。

 

最初に、徳川家康が13か条の法令を定めます。そこには、大名の心得や城の修築の制限、婚姻や参勤交代の制度などが決められていたのです。

 

決まりや規則を制定することで、大名の勢力を制限するという目的もあり、約300年近く続いた江戸時代の基礎を築くことになりました。

 

②大名とは

江戸幕府の大名は、3つの大名に分類されていました。親藩譜代大名外様大名です。

 

親藩は徳川将軍家の一族。譜代大名は関ヶ原以前から徳川家に仕える大名家。外様大名は、関ヶ原以後に徳川家に仕えるようになった大名家でした。

 

江戸幕府は、譜代大名に幕府の要職を与えました。これは、今までにない体制であり、各地の有力な大名家は外様大名として権力の外に置かれることになりました。

 

③幕府と海外との関係

大船建造の禁が制定され、500石以上の商船と軍船が没収されましたが、外洋を航行する朱印船は500石以上でも問題ありませんでした。

 

朱印船とは、海外交易を行う船のことで、日本の支配者の朱印状(海外渡航許可証)を携えていたため朱印船と呼ばれます。

 

朱印状が作られたのは、1592年ですが、その後徳川家康が1604年に朱印船制度を実施します。

 

そして、ベトナム、マニラ、タイなどの東南アジア諸国との貿易を行ったのです。朱印船は必ず長崎から出航して、長崎に帰ってくるのが決まりでした。

 

 

大船建造の禁の目的・内容

 

 

大船建造の禁で、日本の周りの海では小さな和船のみが航行することになります。

 

大船建造の禁は、どのような内容で、どのような目的があったのでしょうか?

 

①大名統制

江戸幕府が始まり、幕府が最初に手をつけたことは各地にいる大名をいかに幕府に従わせるか、また各大名の勢力を弱め、幕府の安定を維持させるかということでした。

 

大名統制の先駆けとなるのが、一国一城令です。

 

 

一人の大名が一つの城を持ち、そこに居住するという命令です。徳川家康は、各大名が多くの城を持ち、大きな勢力を持つことを恐れました。というのも、城は住居という他に軍事的施設ともなりうるからです。

 

この命令は、特に西国大名に向けたものでした。大船建造の禁と同じです。というのも、江戸から遠い西国には外様大名が多くいたからなのです。

 

②武家諸法度

1615年に、徳川家康が発布した13か条からなる諸大名統制法が武家諸法度です。

 

主に、文武や倹約の規範が書かれており、その他大名同士の婚姻についてや領内に逃げた罪人を匿うことを禁じるなどの決まりがありました。

 

1635年に徳川家光によって発布された武家諸法度に、参勤交代の義務と大船建造の禁令が加えられました。

 

大船建造の禁は一国一城令と同様、西国大名に向けられたものですが、江戸から離れたところにいる外様大名は関ヶ原の戦い以降徳川家の家来なので、もともと味方ではなかったため警戒していたことがわかります。

 

 

③大船建造の禁の変化

武家諸法度は、将軍の交代とともに改訂が行われました。それに伴い、大船建造の禁も改訂されています。

 

当初、西国大名に向けられて軍船と商船が対象でしたが、1635年の武家諸法度改訂の際には、全国の大名に向けられ商船と航洋船は対象外となりました。

 

その後、500石以上の大船は没収対象となり、造ることも禁じられました。

 

大船建造の禁が作られた時は商業が発達しておらず、商船も対象となりましたが、その後商業が発達して輸送目的で沿岸航行をする商船は対象外となったのです。

 

大船建造の禁が撤廃(解禁)されたのは?

 

 

時代の変化に伴い、大船建造の禁を撤廃せよという意見が出てきました。その背景には、何があったのでしょうか?

 

①禁令の撤廃を求める意見

大船建造の禁の対象は、軍用に転用できる大きな船でした。

 

この禁令が作られ、日本の水軍力は国の安定とともに低下します。江戸時代に活躍した船としては、大名が参勤交代の時に使った御座船や中型の軍用船である関船でした。

 

その後、江戸末期になり天保の改革が始まると、松代藩士の佐久間象山が老中の真田幸貫に大船建造の禁の撤廃と西洋式水軍の強化を提案しています。

 

 

また、親藩である水戸藩主の徳川斉昭も大船建造の禁の撤廃を幕府に求めました。

 

②撤廃意見の背景には

江戸時代後期に入ると、アメリカやイギリスやロシアなどの西欧諸国の船が日本沿岸に出没するようになりました。産業革命の影響で、各国が海外に資源や市場を求める情勢になってきたのです。

 

しかし、この当時の日本には水軍力というものがないに等しく、こうした外国の軍船に対処する方法はありませんでした。そのため、鎖国政策を続けるしか対策はありませんでした。

 

1853年に、アメリカのペリー黒船で浦賀に強行上陸し、日本に開国を迫ります。幕府は、黒船の圧力に屈して開国をやむなく行いますが、社会不安が広がりました。

 

 

③大船建造の禁撤廃

こうした情勢が幕府の姿勢を変えます。老中の阿部正弘も水軍力の強化の必要性を実感し、安政の改革の一つとして大船建造の禁を撤廃することになります。

 

 

開国したことにより、日本の沿岸、海岸に外国の船がいつ来航してもおかしくない状況になりました。幕府は、1853年8月江戸湾にお台場建設を始めます。

 

幕府以外にも薩摩藩、宇和島藩、佐賀藩、水戸藩などの勢力のある藩がいっせいに西洋式の船を造り、海軍を創設するようになるのです。

 

まとめ

・大船建造の禁とは、1609年二代目将軍徳川秀忠により制定された、大名統制法の一つである。

・当初は西国大名を対象にしていたが、その後武家諸法度の一つとなり、全国の大名を対象とするようになる。

・500石以上の大船を没収し、建造することを禁じる法令であった。

・500石以上でも朱印船は対象外であった。

・日本の開国とともに、大船建造の禁は撤廃される。

・その後、幕府だけでなく勢力のある藩は海軍を創設した。




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