【問屋制家内工業と工場制手工業の違い】簡単にわかりやすく解説!

 

中世から近代にかけて資本主義が発達する過程で、新しい二つの工業生産の形態が生まれました。

 

それが問屋制家内工業工場制手工業です。

 

今回は、『問屋制家内工業と工場制手工業の違い』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

問屋制家内工業と工場制手工業の違い

 

問屋制家内工業とは、問屋と呼ばれる商人が農民などにあらかじめ原料や道具を貸し付け、それをもとに作らせた生産物を買い取る、という生産形態のことです。

 

工場制手工業(マニュファクチュア)とは、農民などを賃金労働者として雇用して、一つの作業場(工場)に集め、手作業で生産物を作らせる、という生産形態のことです。

 

産業革命が起こると、工場制手工業は機械制大工業に取って代わられましたが、問屋制家内工業は下請制度という形で現在も一部残っています。

 

中世的な封建制から近代的な資本主義へ

 

問屋制家内工業と工場制手工業という新たな生産形態が誕生した背景には、中世的な封建制から近代的な資本主義へと、社会のあり方が大きく変わったという事情があります。

 

こうした変化は、日本だけではなく、欧米やアジアをはじめ世界中の国々で見ることができます。

 

①中世的な封建制

中世的な封建制のもとでは、土地を所有するのは領主であり、農民は領民としてその土地に住まい、そこで生産物を作らせてもらう代わりに、生産物の一部を税(年貢)として領主に納める、という形態をとることが一般的です。

 

このとき、領主と領民(農民)の間には主従関係が結ばれています。

 

こうした形態は中世のヨーロッパ、秦の始皇帝の時代から清に至るまでの中国、平安時代・鎌倉時代から江戸時代にかけての日本に見られます。

 

 

②無産階級(プロレタリアート)の出現

ところが、中世末期から初期近代にかけて、土地から追い出されて都市に流入する農民が急増します。

 

その最も有名な例が、15世紀末から17世紀半ばにかけてイギリスで起こったエンクロージャー(囲い込み)です。

 

当時のイギリスでは、村が共同で農地を管理する開放耕地制が導入されていました。

 

しかし、商品経済が発達すると領主は開放耕地制を無視して、村が共同で管理していた土地を牧羊場や農場に変えるために、勝手に垣根で囲い込んで私有地にし、農民たちを追い出すという強硬策をとりました。

 

これにより、農民たちは生産手段としての耕地から切り離されてしまいます。

 

彼らは仕事を得るために都市に流入し、賃金をもらって工場で働く無産階級(プロレタリアート)になっていきました。

 

③近代的な資本主義の成立

都市に流入し、無産階級となった人々は、もはや生産手段としての土地をもっていないため、自力で生産物を作り、お金を稼ぐことができません。

 

そのため、彼らは自らの労働力を資本家に売ることで賃金を得るようになります。

 

いわゆる賃金労働者の誕生です。

 

近代的な資本主義が成立するためには、この賃金労働者の出現が不可欠でした。

 

とりわけ世界に先駆けてイギリスで資本主義が発達したのは、中世末期以降の領主の横暴なエンクロージャーにより、賃金労働者になる無産階級が大量に都市に供給されたからでした。

 

問屋制家内工業の詳細

 

中世末期から近代のはじめにかけて、物品の買入れや販売の取次ぎをする商人(問屋)は、市場で大量に売れると見込まれる商品を自ら生産するのではなく、手工業者や農民に原料や道具を渡して生産を委託し、彼らが生産した製品を買い占めるという方式をとりました。

 

この方式が問屋制家内工業と呼ばれます。

 

①問屋制家内工業の実態

問屋制家内工業では、生産者である手工業者や農民は、たいていの場合、自分の家で自分の仕事道具を使って製品を作るため、形式的には問屋から独立した生産者です。

 

しかし、資本をもたないため、自力で原料を買い集めることができません。

 

また、自力で製品を販売するルートももっていません。

 

そのため、製品を作って売るためにはどうしても問屋の力を借りざるを得ないのです。

 

この点から見れば、実質的にはこうした手工業者や農民は、賃金労働者と同じく、資本をもった商人に従属していると言えます。

 

そして、この従属の度合いも様々なパターンがありました。

 

問屋が単に製品を買い占めるだけの場合もあれば、原料や道具を前貸しして製品を作らせる場合もありました。

 

あるいは、高利貸しを兼ねた問屋が手工業者や農民に金を貸し、その負債と引き換えに製品を買いたたく場合もありました。

 

②問屋制家内工業の位置づけ

このような問屋制家内工業は、中世的な手工業から近代的な機械制大工業が主流になるまでの過渡的な生産形態でした。

 

技術の面では中世的な手工業の水準でありながら、流通の面では近代的な市場経済に対応していたため、初期資本主義の時期に最も多く見られました。

 

工場制手工業の詳細

 

工場制手工業(マニュファクチュア)とは、資本家である商人が、数人から数十人の労働者を雇用して、一つの作業場(工場)に集め、そこで手工業の技術にもとづいて製品を作らせる工業生産の形態のことです。

 

分業協業を行うことで、従来の家内工業よりも生産性が著しく高い点に特徴があります。

 

①「マニュファクチュア」という名称

工場制手工業は、英語では「マニュファクチュア」(manufacture)と言います。

 

「マニュ」(manu)は「手」、「ファクチュア」(facture)は「製造」を意味するため、本来は手工業全般を指す言葉ですが、歴史用語としては工場制手工業のみを指します。

 

②工場制手工業の様々なパターン

工場制手工業にも様々なパターンがありました。

 

製品の製造工程が単純である場合、1種類の手工業者が一つの作業場に集められ、みんな同じ作業をしました。

 

他方、製造工程が複雑である場合、それぞれの種類の手工業者が集められて、作業場内で仕事を分担して行いました。

 

③ヨーロッパの工場制手工業

ヨーロッパでは、16世紀半ばから18世紀後半にかけて、資本主義の先進国イギリスで、工場制手工業が飛躍的に発達しました。

 

特に、繊維工業や金属工業など、重要な工業部門での発達が目立ちました。

 

この時期は、歴史学では「本来のマニュファクチュア時代」と呼ばれています。

 

フランスやドイツでも、イギリスに少し遅れて、工場制手工業が盛んになりました。

 

④日本の工場制手工業

日本では幕末から明治のはじめにかけて、様々な分野で工場制手工業が取り入れられました。

 

その代表例が、和泉国宇多大津村(現・大阪府泉大津市)や尾張国起村(現・愛知県一宮市)の綿織物業、甲斐国・信濃国・武蔵国の製糸業、京都西陣の絹織物業、灘の酒造業です。

 

それぞれ奉公人を集めて、分業と協業にもとづく生産を行いました。

 

その後

 

問屋制家内工業と工場制手工業が共存していた状況は、初期資本主義の時期にしか見ることができません。

 

資本主義が発達し、産業革命が起こると、工場制手工業に代わり、機械制大工業が工業生産の主要な形態になりました。

 

問屋制家内工業も、機械制大工業の出現に伴って少なくなりましたが、現在でも下請制度の中で一部残っています。

 

まとめ

 問屋制家内工業とは、問屋が農民などに原料や道具を前貸しして生産物を作らせ、それを買い取るという生産形態のこと。

 工場制手工業(マニュファクチュア)とは、賃金労働者を雇用して、一つの作業場(工場)に集め、手作業で生産物を作らせるという生産形態のこと。

 どちらも、中世的な封建制から近代的な資本主義へと移行する過渡期(初期資本主義)に現れた。

 工場制手工業には、農民から生産手段を切り離し、賃金労働者に変えるという側面をもっていた。

 産業革命が起こると、工場制手工業は機械制大工業に取って代わられたが、問屋制家内工業は現在でも下請制度という形で一部残っている。