守護大名と戦国大名は担った役割が異なるだけでなく、守護大名が戦国大名に代わる事があった事から混同されやすいものです。

 

そこで今回は、『守護大名と戦国大名の違い』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

守護大名と戦国大名の違い

 

守護大名と戦国大名は、成り立ちが異なる大名です。存在が概念的に成立する時代も大きく異なっています。

 

違いをざっくりと説明するとすれば、以下のようになります。

 

【守護大名(しゅごだいみょう)】

 

室町時代に足利幕府より命じられた守護の中で大名としての力を付けたものの事をいいます。

 

守護は鎌倉時代より治安維持の役割を担いましたが、室町時代に権限が拡大されたことによって国の統治を進めていきました。

 

複数の国を任される事も多く、実際は守護代(代理人)が統治をしていました。

【戦国大名(せんごくだいみょう)】

 

戦国時代の間に、数群から数カ国を支配した大名の事を言います。

 

もともと幕府・守護によって各国は統治されていましたが幕府の力が弱まり、豪族や守護代と守護が対立しました。

 

それにより実効支配が必要になり戦争が生じ、勝って支配するようになったのが戦国大名となります。

 

なお、戦国大名になったものの出自は守護大名、守護代、地方豪族など多岐にわたります。

 

守護大名について詳しく解説!

 

守護大名とは前述のとおり、ある一国内を軍事・警察機能に加えて経済的な側面でも支配を深めたものの事を言います。

 

歴史を追って紐解いていきましょう。

 

①守護の成り立ち

もともと守護大名は守護制度の中で生まれたもので鎌倉時代前後から設置された役職でした。

 

御成敗式目によって成文化された大犯三箇条に基づいた権限が認められていました。

 

 

その権限は、京や鎌倉の警備と治安維持の役割を担うこと。

 

なお鎌倉期の守護はほとんど北条家の一門が担っていました。

 

②守護の権限拡大

鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政の時代や室町幕府時代でも守護制度が継続されました。

 

当初は鎌倉期の大犯三箇条の検断のみでしたが、1346年には刈田狼藉(人の田を勝手に刈る行為)の検断と使節遵行権(幕府の判決内容の強制執行権)を認めました。これによって守護の権限は大きくなります。

 

また、観応の擾乱(足利政権内の内乱)を機に半済の権利を獲得します。

 

 

これは国内荘園・国衙領から年貢を徴収できる権利でした。

 

もともと戦乱が激しい、近江・美濃・尾張3国に限られていましたが、各守護からの要望が強く、各地で認められていくこととなりました。

 

そして、1368年に出された応安の半済令によって、年貢だけではなく土地の半分割が認められることとなりました。

 

その中で各荘園領主と守護請(年貢納付の請負契約)を結びます。

 

これにより、守護は土地の実質的な支配権(下地進止権)を手に入れました。

 

③守護大名の成立と戦乱

実質的な土地の支配権を握った守護はその権力を強めていきます。

 

幕府の権力を背景に、各地域の荘園・国衙領への進出を強めていき、国衙の在庁官人らを家臣として取り込むことで守護直轄地を増やして守護領を形成します。

 

これにより、守護は守護領国制と呼ばれる支配体制を築き守護大名と呼ばれる軍団へと成長していきました。

 

守護大名が各地で成立し、幕府は連合政権となっていきます。

 

その中でも足利将軍家の一族であった斯波氏、畠山氏、細川氏や外様である山名氏、大内氏、赤松氏は数か国にまたがった支配を行います。

 

勿論、複数の国を一人の守護が管轄するのは困難であったため、国人や家臣から守護代と呼ばれる代理人を置くこととなります。

 

④守護大名と戦乱

守護大名の権力が増すにあたり、幕府も有力な守護大名の弱体化を図ります。

 

守護大名の庶流らに対して守護職の地位を高めるなどを行っていきました。

 

守護大名の分裂・弱体化には一定の効果があった一方で、将軍家である足利幕府の強化には至らず、結果的に嘉吉の乱1441年に起きた有力守護による将軍の暗殺事件)や応仁・文明の乱といった戦乱の原因となります。

 

 

応仁・文明の乱以後、守護大名同士の紛争や国人一揆などによって守護の支配状況に変化が起こります。

 

その中で、守護の間に地域支配を遂げた層は戦国大名へと変わっていきますが、守護代や国人によって乗っ取られた(下剋上)場合は守護大名として没落し、別の戦国大名の台頭を許す事になりました。

 

戦国大名について詳しく解説!

(1570年頃の戦国大名版図 出典:Wikipedia

 

 

戦国大名は、守護大名などが権威をふるっていた時代より、少しあとの1500年代前後から生まれたとされる大名家となります。

 

先に述べた守護大名がルーツである場合もありますし、守護代や国人などによって守護大名の支配地域が乗っ取られて誕生したケース(下剋上)もあります。

 

①戦国大名の支配形態

戦国大名の支配形態は、守護大名と異なります。

 

守護大名はあくまで足利幕府の後ろ盾があったうえでの支配形態をとっていました。

 

しかし戦国大名と呼ばれる大名は、守護としての権利の有無を問わずに国内の統一を行いました。

 

また、有力な国人衆などを率いた独自の家臣団を構成し、貫高制などの制度により土地管理を実施。

 

そのほか戦国大名の中には、分国法と呼ばれる国内のみに通じる独自の基準を制定した国もありました。

 

分国法として有名な物には今川仮名目録(今川家)や塵芥集(伊達家)、甲州法度次第(武田家)があります。

 

ちなみに、最初の戦国大名とされているのは北条早雲が興した後北条家とされています。

 

②戦国大名の出自

戦国大名の出自は多岐にわたります。以下のように分けられます。

 

守護大名出身

武田氏・今川氏・佐竹氏・大内氏・大友氏・島津氏

守護代・家人出身

朝倉氏・長尾氏・尼子氏・三好氏・長宗我部氏・織田氏

国人等出身

毛利氏・龍造寺氏

 

③戦国大名のその後

戦国大名は室町時代後期から安土桃山時代にかけて様々な戦をおこします。

 

その中で織田家が将軍を庇護しつつ影響力を強めていきます。

 

最終的には将軍である足利義昭すらも京都から追放し、織田政権を樹立。

 

家臣である明智光秀によって本能寺の変が起き、当主織田信長はなくなりますが、後継者として豊臣秀吉が天下統一を果たします。

 

その中で戦国大名への介入も強め、それぞれの独立性が失われていくこととなります。

 

秀吉の死後、関ケ原の戦いを経て徳川氏によって江戸幕府が成立。江戸幕府では各大名と主従関係にありましたが守護制度を廃しました。

 

その中で幕藩体制に移行し、近世大名と呼ばれる大名制に移行していきました。

 

 

江戸時代の幕藩体制を経て残っている旧大名家には、徳川氏や長宗我部氏、武田氏、佐竹氏、前田氏、島津氏、毛利氏、伊達氏などがあります。

 

この中で毛利氏や島津氏は明治維新に大きくかかわることになります。

 

まとめ

 守護は鎌倉時代に成立し、室町時代に警察権だけではなく経済的な支配を進めていった。

 守護大名は守護が成長し、各国を独自で支配するようになって生まれた。

 守護大名は室町幕府体制を脅かす存在となり、様々な戦乱の原因となった。

 守護大名の中には戦国大名へと移行した大名もいたが、守護代や国人らによって下剋上をされ没落するケースもみられた。

 戦国大名は家臣団を形成し、中には分国法によって独自に領国運営を行う大名もいた。

 戦国大名は守護大名だけではなく、守護代や国人などを出自として持つ大名がいた。

 守護大名は天下統一を経て独自性を失っていくことになった。江戸時代になり近世大名へと変化していった。




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