現在では私は当たり前なこととして、消費税等の税金を支払っています。
しかし、今から1300年以上前に課されていた租庸調という税金はどのようなものだったのでしょうか。
今回はそんな『租庸調(そようちょう)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
租庸調とは?
租庸調とは、飛鳥時代中期の646年に出された改新の詔の4条に記載されている国民に課された租税制度のことを言います。
この制度は当時の孝徳天皇(大化の改新のあとに即位した天皇)が中国の唐の律令国家を真似し、作られました。
租庸調が導入された背景と目的
(476年頃の高句麗と周辺諸国 出典:Wikipedia)
①周辺諸国との関係緊張
663年、日本・高句麗連合軍と唐・新羅連合軍との間で、663年に白村江の戦いが発生しました。
結果は日本・高句麗連合軍の大敗。日本は朝鮮半島での影響力を失ってしまいました。
その後、高句麗は668年に滅亡し、新羅が朝鮮半島を統一することとなりました。
これにより、日本は新羅より攻められる恐れがあるため対外防衛を強化する必要がありました。
また、奈良時代の東北地方は蝦夷(えみし)が治めており、朝廷の支配下となっていませんでした。そして、奈良時代末には、桓武天皇が東北地方へ軍を進めていきました。
このように国内外の軍事費・防衛費が増加していた時期だったため、きちんと農民より税金を取る制度が必要だったのです。
②初穂献納儀礼
奈良時代以前から「初穂献納儀礼」という農耕儀式があり、農民たちは収穫した稲を神に捧げる初穂料が納められていました。
朝廷はこれを利用し、初穂料を税金として徴収できないかと考えました。
そして、朝廷は農民から不満が出ないように、神に捧げるために初穂を朝廷に納めるように上手く租という税金に転換していったのでした。
③律令国家へ
大化の改新にて、朝廷は権力を持っていた豪族蘇我氏の追い出しに成功しました。
そして「これからは豪族が力を持ちすぎないように、天皇・朝廷に権力が集中するようにしよう」と中国(唐)の律令を真似することとしました。
まず、今まで地方のことは地方の豪族に一切任せていましたが、以降は天皇が地方もすべて統治しようとしました。
そこで、改新の詔では公地公民制(日本すべての土地と人はすべて国家のもの)としました。
さらに、朝廷は人民を把握するために6年ごとに戸籍を作り、その戸籍に基づいて税金を課す「租庸調」を始めたのでした。
租庸調の特徴
①租(そ)
租とは、田一段につき、二束二把の稲を納める税金で男女ともに負担義務がありました。
納める稲は収穫の約3%にあたりました。
後の706年に納入負担は一束五把に変更されましたが、実質的な負担は変わらないものでした。
収穫した稲は9月中旬から11月末までに中央に納められ、不動米(災害時の予備のお米)を除いたものが国衙に蓄えられ、地方政府の大切な財源となっていました。
②庸(よう)
庸とは、京での10日間の労役の代わりに布を中央納める税金でした。庸布と呼ばれ二丈六尺(約7.9m)を納入することとされていました。
庸は年齢により納入量の違いがあり、正丁(21歳から60歳)の納入を1とすると、次丁(61歳から65歳)は正丁の二分の一の納入とされていました。
庸は男性のみに納入義務があり、女性には納入義務はありませんでした。
また、地域によっても違いがあるもので、京や畿内は庸の税金自体が免除されていました。
③調(ちょう)
調は朝廷への服属の貢物であり、基本的には繊維製品を納める税でしたが、地域の特産品34品目での納入も認められていました。
特に、地域の特産品では、美濃国の絁(絹製品)の美濃絁と上総国の布(麻製品)の望陀布が有名で、とても上質な貢物として個別の納入規定があるほどでした。
調も庸と同じように年齢により納入量の違いがあり、正丁を1とすると次丁は正丁の二分の一、少丁(17歳から20歳)は正丁の四分の一の納入とされていました。
また、こちらも庸と同じように男性のみの納入義務となっていました。
地域によっての違いは、京と畿内では税の軽減、そして飛騨国のみ、調の税自体が免除されていました。
④その他の税金「雑徭(ぞうよう)」
他に同時期に課されていた税金として、「雑徭(ぞうよう)」というものがあります。
雑徭とは、年60日間を上限に国内の土木工事や国衙の雑用を行う労役でした。
庸調と同じく年齢により日数の違いがあり、正丁を1とすると次丁は正丁の二分の一、少丁は正丁の四分の一でした。
また、正丁には「兵役」もあり正丁の三分の一より選ばれ、常備軍(通常の兵隊)・防人(北九州の警備)・衛士(宮城の警備)に就かされました。
常備軍は10日毎に交代で勤務し、庸・雑徭が免除されていました。
防人は3年間の勤務、衛士は1年間の勤務となり、ともに庸・調・雑徭が免除されていました。
兵役で大変だったことは、自分の食料(旅費)と武器は自分で調達する必要があることでした。
さらに、戸(家族)ごとに課されていた税金として「出挙(すいこ)」というものもありました。
春に稲や粟を農民に貸し付け、秋の収穫の中あら利息付で返済してもらうという、当初は救貧政策として行われていましたが、利息を収入にしようとした国衙が強制的な貸し付けと変質していったのでした。
貸付利息はなんと5割も取られていました。
租庸調のその後の影響
租庸調等の税金は農民にとって重い税金であり、特に庸調を運ぶ運脚や雑徭、兵役は現地へ行って帰るまでの間の食料を自分で準備をする必要があったため、帰り道で食料がなくなり、餓死をする人も多くいました。
当時の農民の貧しい生活の様子は万葉集の中の貧窮問答歌(山上憶良作)にも書かれています。
①税の負担を逃れようとする農民が増加
農民は税金から逃れよう考え、税金を納めず土地を捨てて逃げ出す農民が急増しました。
逃げ出す方法は「浮浪」と「逃亡」の二つがありました。
浮浪は今でいう夜逃げのことで、自分の田を捨てて、戸籍に登録された土地から他国へ逃げること。しかし、逃げ出した人の居場所はわかっていたので、その人は逃げ出した土地で庸・調は納入していました。
逃亡は、京などでの土木工事の際に現場から失踪することを言い、逃げ出した人の所在は不明のため、庸・調も未納になってしまいました。
そのほか、税負担を逃れる方法として「偽籍」という(庸調は男性のみの納入義務だったため)男性にもかかわらず、女性とウソの戸籍申告をする人が出てきました(中にはムラの9割が女性であるところがあったようです)。
また、僧侶は庸・調・雑徭が免除されていたことから、正式な手続きをとらずに僧侶となる「私度僧」になる人が、そして貴族の従者も庸・調・雑徭が免除されていたことから、貴族の従者となる「資人」となる人もいました。
②負担軽減の措置
795年には、桓武天皇が雑徭の労役日数を半減し、それ以降は年30日と負担を軽減されました。
改新の詔が出された当初は、農民は6歳になり支給されていた口分田は、本人の死後、朝廷へ返還しなければならず、売買も禁止されていました。
しかし、逃げ出した農民が多くいたことから、耕作されずに荒れた田が増加したため722年に「百万町歩開墾計画」により開墾が推奨。翌年723年には「三世一身法」が制定され、開墾した土地の一定期間の私有が認められるようになりました。
さらに、743年に「墾田永年私財法」により開墾した土地の永久の私有が認められました。
これらの政策は、すべての土地と人民を朝廷のものとしてきた公地公民制を崩壊させていくものでした。
まとめ
✔ 租庸調は土地・人民を把握する律令国家を目指し、国内外の軍事力を増やすために設けられた税金だった。
✔ 祖は納める田にかけられた税金で男女ともに二束二把の稲を納めなければならなかった。
✔ 庸は10日間の労役の代わりに布を二丈六尺納めなければならなかった。
✔ 調は朝廷への貢物として、布や地域特産品を納める税金だった。
✔ 他にも雑徭、兵役、出挙などの税金が存在していた。
✔ 負担を逃れようとする農民が多く出てしまった。
✔ 負担を緩和する政策をとったことにより、公地公民制が崩壊してしまった。