乙巳の変から始まった政治改革“大化の改新”。

 

政治の実権を豪族の蘇我氏が握っていた状態から、天皇中心の政治にするための大きな改革でした。

 

今回は、そんな『大化の改新』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

大化の改新とは?乙巳の変との違いは?

 

 

中大兄皇子や中臣(藤原)鎌足が中心となって、政治の実権を握っていた豪族の蘇我氏を滅亡させたクーデター乙巳の変」から始まり、新政権がつくられ、孝徳天皇による改新の詔が発布された一連の政治改革のことを「大化の改新」といいます。

 

大化の改新といえば645年と覚えられがちですが「乙巳の変」が起こったのが645年、改新の詔が発布されたのは646です。

 

乙巳の変とその後

(乙巳の変 出典:Wikipedia

 

 

中大兄皇子や中臣鎌足らによって、蘇我入鹿をはじめとする蘇我氏が滅ぼされた政変(クーデター)のことを「乙巳の変」といいます。

 

①蘇我氏の独裁

622年、朝廷で政治の中心を担っていた聖徳太子(厩戸皇子)が死去してしまいます。

 

それまでは、聖徳太子と豪族のなかで最も力を持っていた蘇我氏が政治を行っていましたが、聖徳太子が死んでしまうと、蘇我氏へ権力が一気に集中し、その力は天皇家を上回るほどでした。

 

628年には推古天皇が次の天皇を誰か指名することなく崩御してしまいます。

 

次の天皇に田村皇子と聖徳太子の子である山背大兄王の名前が上がりましたが、大臣の蘇我蝦夷は無理やり田村皇子を次の天皇にさせました。田村皇子は舒明天皇となりました。

 

蘇我氏の力はさらに強まり、豪族たちは朝廷ではなく蘇我氏の屋敷に働きに行ったりする始末でした。舒明天皇が崩御し、皇極天皇が即位すると、ますます蘇我氏の独裁体制は強まっていきました。

 

そして、蘇我蝦夷は病気を患ったからと、643年に朝廷の許可もとらずに息子の蘇我入鹿に自分の紫冠を授け、大臣にしてしまいました。

 

当時、冠位十二階で授けられた冠位は個人に与えられるもので、親から子に授けていいものではありませんでした。

 

②蘇我入鹿の暗殺

朝廷の祭りや儀式を仕切る神祇官という仕事をしていた中臣鎌足は、この蘇我氏の独裁体制をよく思っていませんでした。

 

(中臣鎌足 出典:Wikipedia

 

 

そして、蘇我氏を倒そうというクーデター計画を立て始めます。クーデター計画の仲間を探しているとき、鎌足は中大兄皇子と出会いました。

 

(中大兄皇子 出典:Wikipedia

 

 

鎌足と中大兄皇子は、蘇我入鹿を暗殺する機会に三国の調という儀式の場を選びました。

 

三国の調とは、現在の朝鮮半島にあった新羅・百済・高句麗の3カ国の使者が日本にやってきたときに行われる儀式です。このときは大臣の蘇我入鹿は必ず出席するので、このときをチャンスだと思ったのです。

 

鎌足と中大兄皇子の部下によって蘇我入鹿は斬り殺され、暗殺は成功しました。

 

③蘇我氏滅亡から新政権へ

蘇我入鹿の暗殺に成功した中大兄皇子は、すぐにその父親である蘇我蝦夷を討とうと準備をします。

 

しかし、翌日に蘇我蝦夷は自分の屋敷に火を放ち、自害してしまいました。こうして、長い間強い力を持っていた蘇我氏の宗家は滅亡しました。

 

蘇我蝦夷が自害した翌日、皇極天皇は退位し、孝徳天皇へ天皇の位を譲りました。そして、中大兄皇子は皇太子となります。

 

実際、政治の実権は中大兄皇子にあり、中大兄皇子は左大臣に阿部内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂、内臣に中臣鎌足、国博士に高向玄理と旻を指名しました。

 

こうして新政権が発足し、大化の改新が進められることになりました。

 

大化の改新の目的

 

 

独裁をしていた蘇我氏を滅ぼし、新政権が発足したことで、大化の改新という政治改革が進められることになりました。

 

ではなぜ、政治改革をする必要があったのでしょうか?

 

①氏姓制度の廃止

当時、朝廷には、朝廷に仕える一族(豪族)に「氏(うじ)」の名前をつけ、それぞれの一族の身分の高さに応じた「姓(かばね)」の名前を与える「氏姓制度」というものがありました。

 

 

この氏姓制度は世襲制で、一族(氏)に与えられた姓は親から子に引き継がれることになります。

 

氏姓制度で天皇が指名できたのはあくまで朝廷に仕える一族で、どんな人物を朝廷で働かせるのかは、その一族のトップが決めていました。

 

この状態では、天皇に権力があるように見えて、本当に権力があるのは実際に役職などを与えているのは一族のトップです。

 

権力が散らばってしまっている状態から、天皇に権力が集中するようにするためにも、氏姓制度を廃止する必要がありました。

 

②律令国家の成立へ

日本は度々、遣隋使などで得た中国の制度を参考にして制度をつくったりしていました。大化の改新で目指されたのも、中国の律令制を参考にした律令国家でした。

 

律令の律は刑法のことを指し、令はそれ以外の行政法や民法、商法などのことを指します。つまり律令制とは、簡単にいえば、法律で統治された体制のことをいいます。

 

日本は律令制にもとづいて、天皇に権力が集中する中央集権国家(律令国家)を目指したのです。

 

改新の詔の発表。その内容とは?

 

 

 

蘇我氏を滅ぼすことに成功した中大兄皇子らは、即位した孝徳天皇を通じて大きく4つに分けた「改新の詔」を発布します。

 

①公地公民制

改新の詔第1条では、天皇や王族、豪族らが土地と人民を個人的に所有することを廃止し、国家が直接支配するとしました。私地私民制から公地公民制への転換を表していました。

 

それまで、天皇や王族が所有していた土地を屯倉(みやけ)とよび、支配していた人民は名代・子代とよばれていました。また、豪族の所有地は田荘(たどころ)とよび、支配していた人民は部曲(かきべ)とよばれていました。

 

公地公民制を唱えた第1条では、こうした個人的な所有・支配を認めず、天皇が統一して土地と人民を支配する体制に整えようとしました。

 

しかし、実際は後の時代まで豪族による田荘と部曲の所有が認められていることもわかっており、この公地公民制自体が本当に実施されたのか、疑問視されるようになってきています。

 

②国郡制度

改新の詔第2条では、初めて首都を定めて、国と郡を設置する国郡制度を定めました。

 

全国をおよそ60以上の国にわけ、その国をさらに郡にして分けました。新たに国など地方の組織を整理することで、地方を治める役人を新たに置くことができたりします。今までは豪族が個人的に所有・支配してきたので、天皇による中央集権化を図ることができました。

 

しかし、後の時代には国の下に郡が置かれていたのはわかっていますが、この大化の改新があった時代には、実際は郡ではなく「評」であったことが様々な史料からわかっています。

 

③班田収授法

改新の詔第3条では、戸籍をつくり、その戸籍に基づいて、朝廷(政府)から人民に田んぼ用の土地が貸し与えられる「班田収授法」を定めました。

 

班田収授法では、人民に朝廷の支配地(公地)を貸し与え、借りていた民が死んでしまうと、その土地はまた朝廷に返されました。この制度は、中国で行われていた制度を模したものではないかと考えられています。

 

しかし、実際に全国ではじめて戸籍を作られたのは大化の改新から20数年後経ったあとに作られたとされる「庚午年籍」だとされています。

 

そのため、この改新の詔で発布された班田収授法は実施されなかったか、土地を貸すなどはせず、なんらかの人民調査が行われた程度だろうと考えられています。

 

④租庸調の税制

改新の詔第4条では、人民(公民)に税や労役を負担させることを定めました。

 

4条では、いわゆる租庸調が定められました。

 『租』・・・収穫された米の3〜10%を税として納めること。

 『庸』・・・朝廷のある京都へ労役する代わりに、布や米、塩などを納めること。

 『調』・・・麻や絹などの繊維製品を納めること(地方の特産品でもよい)

 

この租庸調は、中国の制度を真似して、日本風にした制度でした。

 

大化の改新のその後

 

 

当時にしては大変大きな政治改革だった大化の改新。その後の世の中はどのように動いたのでしょうか?

 

①白村江の戦い

孝徳天皇が崩御すると、孝徳天皇の母である皇極天皇が、斉明天皇と改めて即位しました。

 

斉明天皇は東北地方まで朝廷の支配を拡大させるなどしましたが、その一方で、友好関係にあった百済という国が、唐と新羅の連合軍に攻められ、滅亡するという事件が起きました。

 

百済を助けるために兵を送ることを決めた斉明天皇と中大兄皇子ですが、斉明天皇は自らが朝鮮半島に行く途中で崩御してしまいます。

 

そして、662年、白村江の戦いで日本は唐・新羅連合軍に大敗してしまいました。

 

戦いのあと、中大兄皇子は北九州地域の防衛を強化するなど、大陸の勢力に備えたといいます。

 

②大化の改新は本当にあったのか?

1967年(昭和4212月、藤原京があった奈良県橿原市から「己亥年(699年)十月上総国阿波評松里」と書かれた木簡(古代に使われていた文字が記された木の札)が発見されました。

 

国郡制度の郡ではなく、評という文字が土地を表していたことがわかったのです。

 

この木簡の出土により『日本書紀』に書かれていた改新の詔は、『日本書紀』が編纂された奈良時代に書き替えられたものであることがわかりました。

 

また、乙巳の変での蘇我入鹿暗殺も、外交に関連する儀式の最中にわざわざ暗殺をするだろうか?という疑問も残されており、大化の改新には不明な点が多いことは事実です。

 

しかし、この時代に日本が律令国家へなるための何らかの変革があったのは確かなので、今後も研究が続けられます。

 

まとめ

・「乙巳の変」から始まり、新政権がつくられ、孝徳天皇による改新の詔が発布された一連の政治改革のことを「大化の改新」という。

・中大兄皇子や中臣鎌足らによって、独裁体制だった蘇我入鹿をはじめとする蘇我氏が滅ぼされた政変のことを「乙巳の変」という。

・大化の改新の目的は、主に氏姓制度の廃止と律令国家の成立にあった。

・新政権に変わると「公地公民制」「国郡制度」「班田収授法」「租庸調の税制」を含めた「改新の詔」が発布された。

・『日本書紀』に書かれた改新の詔は編纂時に書き替えられたものであることがわかっている。

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