【比叡山焼き討ちとは】わかりやすく解説!!女子供を殺害した理由・内容・その後など

 

第六天魔王と恐れられた戦国時代の武将、織田信長が行った“比叡山焼き討ち”。

 

信長による極悪非道なイメージが持たれている戦いですが、今回はそんな『比叡山焼き討ち』についてわかりやすく解説していきます。

 

比叡山焼き討ちとは

 

 

比叡山焼き討ちとは、1571年(元亀2)9月12日、天台宗の総本山比叡山延暦寺(現在の滋賀県大津市)で起きた織田信長と延暦寺の戦いのことをいいます。

 

このとき、織田信長は延暦寺の僧侶や学僧、子供など、あらゆる人の首を容赦なくはねたと伝えられています。

 

事件の場所『比叡山延暦寺』

(延暦寺 1642年再建 出典:Wikipedia

 

 

現在の滋賀県大津市にある比叡山延暦寺は、観光名所としても有名です。

 

その歴史は古く、古代まで遡ることができます。

 

①日本仏教の母山

比叡山は古代より大山昨神(おおやまくいのかみ)という神様が鎮座する山として崇められてきました。

 

そしてこの山を拠点に仏教を広めていったのが、最澄です。

 

最澄は788年(延暦7)一乗止観院というお寺を建て、比叡山を開きました。

 

比叡山は朝廷から日本の争乱を鎮め・護る寺として期待され、年号の「延暦」を寺の正式名称として賜りました。

 

鎌倉時代以降は、浄土真宗の親鸞聖人・浄土宗の法然上人・時宗の一遍上人・臨済宗の栄西禅師・曹洞宗の道元禅師・日蓮宗の日蓮聖人など、日本仏教の名だたる宗派の開祖たちを育てました。

 

そのため、比叡山延暦寺は「日本仏教の母山」と呼ばれています。

 

②武力を持つように…

名僧を輩出した比叡山延暦寺の権威は高まり、「山」といえば「比叡山」とされるほどでした。

 

権威が高まるにつれ、比叡山延暦寺の僧たちは武力を持つようになります。

 

天皇に自分たちの主張を通すなどして、比叡山延暦寺は「寺社勢力」として財力・武力・権力を強めていきました。

 

独立国のような状態にまで力をつけた比叡山延暦寺は、奈良県の興福寺と「南部北領」と呼ばれ、恐れられていきました。

 

比叡山焼き討ちに至るまで

(織田信長 出典:Wikipedia

 

 

信長によって比叡山が焼き討ちされてしまうまでには、延暦寺と信長の対立と、信長と他の武将たちによる戦いの道のりがありました。

 

①比叡山領の横領

比叡山と織田信長が敵対したきっかけは、京都にまで勢力をのばしていた織田信長による比叡山の寺領(延暦寺の領地)を横領したことによると言われています。

 

この横領について、延暦寺の僧侶たちは朝廷に働きかけ、信長に寺領を返すよう命じましたが、信長は従いませんでした。

 

このとき、織田信長自身も足利義昭を室町幕府第15代将軍にさせるなどして、大名の中でも一層力をつけていました。

 

②浅井・朝倉軍をかくまった延暦寺

足利義昭が将軍となり、畿内の大名は新しい将軍に挨拶をするよう求められました。

 

しかし、義昭は信長が将軍にさせた人物。

 

それを良く思わなかった朝倉義景は、義昭と信長への挨拶を拒否します。

 

これに腹を立てた信長は、1570年(元亀元)朝倉義景がいる越前へ侵攻します。

 

しかし、信長自らの妹、お市を嫁がせた浅井長政率いる浅井軍に背後を襲われてしまいました。

 

浅井氏は朝倉氏とは古くから同盟関係にあったので、義理の弟にあたる信長を裏切り、朝倉氏との関係を優先したのです。

 

一見優位に見えたこの戦いで、挟み撃ちにされそうになった信長は撤退を余儀なくされます。

 

しかし、形勢は逆転し、信長は浅井・朝倉軍に勝利します。(姉川の戦い

 

姉川の戦いで敗北してしまった浅井・朝倉軍ですが、生き延びた兵たちは比叡山延暦寺に逃げ込みます。

 

延暦寺は逃げ延びた浅井・朝倉の兵をかくまうことにしました。

 

これを知った信長は「自分の味方をすれば、横領した寺領を返す。従わないのなら焼き討ちする」と延暦寺側に伝えました。

 

数度に渡る信長からの申し出を拒んだ延暦寺には、とうとう信長の軍が迫ったのです。

 

③そして、焼き討ちが行われる

(比叡山の焼き討ち 出典:Wikipedia

 

 

1571年(元亀2)、比叡山延暦寺へ信長は夜のうちに3万の兵を送ります。

 

早朝には織田軍による総攻撃が始まりました。

 

比叡山は古代から神山とされてきたため、仏の罰が下るのではないかと考えた信長の重臣は「悪い僧は仕方ありませんが、修行を積んだ高僧は見逃したらどうでしょうか」と進言したといいます。

 

しかし、信長は家臣の進言は無視し、比叡山からは4日間も黒煙が上がり続けたとされています。

 

比叡山のほとんどが焼かれ、男女関係なく、比叡山にいた3000〜4000人が殺されました。

 

『信長公記』には僧侶から女や子供まで手にかけたという記述が残っており、信長の恐ろしさが史料として残っています。

 

しかし、近年の発掘調査では、比叡山延暦寺の焼けた土層は信長が焼き討ちする前のものばかりで、信長が焼き討ちしたと思われる形跡はほんの一部だと確認されています。

 

そのため、比叡山すべてを火の海にしたことや、3000〜4000人の首を斬ったという話は、大げさに記録されたのではないか?という説も出ています。

 

比叡山と信長のその後

 

 

織田信長によって焼き討ちされた比叡山延暦寺。

 

そして天下統一に向けて勢力を拡大していた織田信長は、その後どうなったのでしょうか。

 

①土地を分配

比叡山焼き討ちの後、信長は家臣の明智光秀にその後の処理を任せました。

 

明智光秀は没収した寺領を、織田軍の家臣である明智光秀・柴田勝家・丹羽長秀・中川重政・佐久間信盛の5名で分配しました。

 

武将5名それぞれ、自分の領地を持っているので、分配された領地には自分の部下を置いて土地を治めました。

 

特に、明智光秀は分配された土地に坂本城を築き上げました。

 

②逃げ延びた僧たち

信長による比叡山焼き討ちから、命からがら逃げ出した僧たちもいました。

 

彼らはその後、甲斐国を治めていた武田信玄を頼ります。

 

武田信玄は彼らを受け入れ、焼かれた延暦寺をもう一度建て直そうとします。

 

しかし、1573年(元亀4)武田信玄は病気で死んでしまい、延暦寺復興は遠のいてしまいました。

 

③本能寺の変のその後

比叡山を焼き討ちし、天下統一へ向けて勢力を拡大していた信長も1582年(天正10)に滞在していた京都にある本能寺で、家臣であった明智光秀の軍の謀反により自害しました。

 

信長によって阻止されてきた比叡山復興が叶うのは、焼き討ちから約13年後のことです。

 

信長の後を継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)に、延暦寺造営に必要な費用を送られたといいます。

 

まとめ

・1571年(元亀2)、織田信長と比叡山延暦寺の戦いのことを「比叡山焼き討ち」という。

・比叡山延暦寺は日本仏教の各宗派の開祖たちを育てたため、「日本仏教の母山」と呼ばれている。

・比叡山延暦寺は「寺社勢力」として財力、武力、権力を強めていった。

・織田信長は比叡山の寺領を横領したといわれている。

・「姉川の戦い」で逃げ延びた浅井・朝倉の兵を、延暦寺はかくまうことにしたが、信長の反感を買った。

・焼き討ちでは比叡山のほとんどが焼かれ、男女関係なく3000〜4000人が殺された。

信長の焼き討ちから13年後、秀吉によって延暦寺復興が企てられた。