日本史の中で一番長い単語の一つだと思う墾田永年私財法。

 

しかし、この法律は日本の今後を左右する転換点でもあったのです。

 

今回はそんな『墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

墾田永年私財法とは?

 

 

墾田永年私財法とは、奈良時代である743年に聖武天皇によって発布された土地を開墾した分だけ自分の土地にできることが出来る法律のことです。

 

この法律によって公地公民制が崩壊して貴族や豪族たちが荘園を作り出して荘園制が誕生するようになりました。

 

墾田永年私財法が誕生するまでの道のり

(聖武天皇 出典:Wikipedia

①日本の公地公民制

645年に大化の改新を始めて以降、日本では公地公民制という日本の土地は全て天皇のものという天皇中心の国づくりを行なっていました。

 

今でこそ日本は土地の所有が認められており、土地代を払って自分の土地にすれば大体のことが出来ますが、この時は国から口分田という田んぼを貸し与えてそこから取れたを年貢として取り立てるというという感じになっていました。

 

つまり自分の土地を持っていなかったことです。

 

しかし、これでは民衆にとったら「田んぼをいくら耕しても自分のものにはならないし、さらに年貢の税率がひどいからもういっそのこと田んぼを耕すのをやめよ」というふうになってしまいます。

 

まぁ、年貢によって死ぬぐらいなら逃げた方がましですしね。

 

そのため、日本は土地を耕す人が少なくなりその分税が減少するという事態が起きてしまいました。

 

②三世一身法

税収が下がると困ってしまうのはもちろん天皇を始めとした朝廷です。

 

朝廷はなんとかして国民に年貢を納めさせたい。そのため天皇は国民にやる気を出させるために三世一身法というものを制定します。

 

この三世一身法というのは結構わかりやすいもので、土地を開墾して田んぼを作ったらそこから3世代(つまり孫のこと)までは自分の土地にすることができますよというもの。

 

つまり土地を耕せば自分のものにできるというわけです。

 

公地公民を行なっていた朝廷がついに条件付きで土地の所有を認めたことは国民にとってやる気を出させるのです。

 

しかし、三世代経ったら結局国のものに戻ってしまうため、耕したところで自分の子孫のものにはなりません。

 

そのため、国民たちは再び怠け出してしまうという事態となりました。

 

③繰り返される遷都

三世一身法を制定してようやく税収が安定すると思いきや全然効果は出ず、さらに740年代に入ると朝廷は財政難に苦しむことになっていきます。

 

実はこの時、朝廷ではいい都を作るために平城京からコロコロと都を移し替えていきます。

 

もちろん遷都の費用はタダではありませんので、遷都をするごとに莫大な金がかかり、さらには東大寺の大仏や全国に国分寺と国分尼寺を建てたことによっていつのまにか朝廷の金庫はすっからかん。超財政難に陥っていました。

 

そんな中ついに朝廷は墾田永年私財法を制定していくことになるのです。

 

墾田永年私財法の目的

①農民の意欲アップ

農民からすれば自分の土地にできるということは子供にも安心して土地を引き継ぐことができ、よほどのことがない限り生活に困らなくなるということになります。

 

だって自分の土地なんですから年貢の米のほかに麦とかの雑穀も育てるようになりましたからね。

 

このように墾田永年私財法の主な目的は農民の意欲を増して田んぼを耕して年貢を増大するというものでした。

 

②貴族・僧侶の優遇

墾田永年私財法の目的の一つに貴族や僧侶を優遇するという背景もありました。

 

この時朝廷は上にも書いた通り大仏や寺造りのお陰で超財政難になっていました。

 

しかし、この時勢力を誇っていた2つの貴族橘家と藤原家は裕福な生活を送っていたため、朝廷はこの両家に財政を援助してもらおうと思い始めます。

 

その貴族優遇の証拠に墾田永年私財法は貴族や僧侶は一般の農民に比べて沢山の土地を開墾できる仕組みになっています。

 

だってそうじゃないですか。一人の農民が土地を開墾するのと貴族の部下や奴隷たち5000人が開墾するのとどっちの方が早く終わらせることができるかという話です。

 

墾田永年私財法の内容

こういう経緯があって743年に墾田永年私財法は制定されました。

 

この法律をわかりやすく言うと「田んぼを耕したらずっと自分の土地に出来ますよ!」というもの。つまり耕したら耕した分だけ自分のものにできるというわけです。

 

こうすれば農民たちも土地を自分のものにするチャンスができたのですから再びやる気を出して開墾していくという狙いがありました。

 

墾田永年私財法の結果

 

 

墾田永年私財法の制定によってこれまでやる気を出しておらず、年貢を納めなかった農民も土地を獲得するために働き始めるようになりました。

 

ちなみにこれまでの公地公民制の時に農民に貸し与えていた田んぼのことを口分田というのに対し、墾田永年私財法が制定された後に開墾された土地を輸租田といいます。

 

しかし、この法律は思わぬ結果を生み出してしまうのです。

 

墾田永年私財法は貴族・僧侶を優遇するという側面がありました。そのため、貴族や僧侶たちもどんどん土地を開墾していくことになるのですが、その開墾した土地の広さが朝廷が想定していたよりもはるかに広大だったのです。

 

特に国から保護された興福寺や東大寺なんかは土地を開墾し過ぎたことによって朝廷内での僧侶が増大していき、後に平安京へと遷都するきっかけとなりました。

 

さらに農民の生活も自分の土地にすることができても年貢は普通にありますから良くなることはなく、農民は再び土地を放棄して逃げ出すという事態が起こってしまいました。

 

そこに目をつけた貴族や僧侶たちはこの農民の生活を保障する代わりにその土地を開墾する人である小作人にして、ますます土地を開墾していき自分のものにしていきました。

 

これによって日本中で貧富の差が拡大していくことになるのです。

 

墾田永年私財法のその後

公地公民制の崩壊と荘園制の始まり

この墾田永年私財法によって貴族や僧侶の土地が増えると元々あった公地公民制は徐々に崩壊していき、そして新たに朝廷の土地ではなく、貴族や僧侶たちの私有地である荘園が日本各地に出現するようになりました。

 

 

さらにこの荘園を護衛するためにこの頃、武士という階級が誕生していきました。

 

朝廷も最初の頃はこの私有地の拡大に反抗してこの法律を廃止にしようとしていましたが、なんせ貴族や僧侶たちはこの法律を廃止したら黙っちゃいないでしょう。

 

そのため、朝廷はこれから先この法律を廃止にせずにこの公地公民制を捨てて、この荘園から税を取り立てる方法を模索していきます。

 

この墾田永年私財法は後の日本の方向を決める重要な転換点だったと私は思っています。

 

まとめ

✔ 墾田永年私財法とは土地を耕した分だけ自分の土地にできるという法律のこと。

✔ この墾田永年私財法が出された背景には公地公民制の時に農民が土地を手放して逃げ出したという事情があった。

✔ この当時朝廷は大仏や国分寺の建造によって財政難だった。

✔ この墾田永年私財法によって貴族や僧侶たちが私有地を持ち始め、公地公民制が崩壊し、新たに荘園制という制度に変わっていった。

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