「桃山文化」と聞きますとあれ「安土桃山文化」ではないの?とか、あの派手な文化のことかな?などと思ってもらえるでしょうか。

 

私たちのイメージ以上に様々な面での変革がおきていたこの『桃山文化の特徴』について、わかりやすく解説していきます。

 

桃山文化とは

 

 

織田信長豊臣秀吉の活躍した時代は「安土桃山時代」と言われます。

 

これは信長が政権末期に本拠地として築いた【安土城】と、秀吉が最期を迎えた【伏見城】が江戸時代初期に取り壊され、跡地に桃の木が植えられたことから【桃山】と呼ばれることになったことに由来していると言われています。

 

「桃山文化」というと秀吉時代のみを指すように思われますが、美術史上安土時代も含めることから、一般的には「安土桃山時代」の文化を「桃山文化」と呼んでいます。

 

桃山文化の特色・特徴

①活気あふれる担い手

約100年に及ぶ長い戦乱の世をおさめた、巨大な富と権力を集中させた統一政権の下、繁栄した文化が「桃山文化」です。

 

戦国の世を生き抜き新たに地域の支配者となった振興大名、戦乱や貿易を通じて大きな富をきずいた都市在住の豪商などが担い手となり、その経済力を使った雄大で豪華絢爛な社会の活気を反映させた文化を生み出していったのです。

 

この統一政権の出現は、文化の広がりや庶民への浸透を進めました。

 

また、文化の担い手が商人などの町衆になっていったことから、中世以来の来世主義が後退し、現実主義的な要素が強まりました。

 

やはり死後の浄土での幸せより今の幸せが大事と考えたのですね。

 

②異文化の影響

この頃、ポルトガル人の来航を機に西洋文化との接触もはじまります。

 

また同時期には、倭寇に代表されるように日本人自身の海外進出も活発になっていきました。

 

そのため「桃山文化」は西洋文化だけではなく、朝鮮文化や琉球文化など多彩な文化の影響を受けていくのです。

 

ここが、西洋の影響を強く受けた「南蛮文化」との大きな違いといえるでしょう。

 

 

③寺院勢力の衰退

古代や中世における神仏中心の傾向が強かった文化に対し、「桃山文化」は信長や秀吉の政策による寺院勢力の衰退から仏教色が薄まった文化であるいうことが大きな特色として挙げられています。

 

ただ、公家社会からの文化的発言力もまだあったようですので、顧問的な役割は残っていたのかもしれません。

 

この時代は、武家・町人文化を基軸としながら、前時代の東山文化なども継承しつつ、さらに伝来した西洋文化などの影響も融合させた文化を花開かせ、江戸時代につながる庶民文化の形成に大きな役割をもつ時代だったのです。

 

桃山文化を代表するもの

①城郭建築

「桃山文化」を代表するものは、なんといっても壮大な【城】です。

 

室町時代の城は山頂付近に築く砦のような自然の地形を利用した「山城」が多かったのですが、これは軍事施設としての役割が大きいものでした。

 

この時代には、次第に小高い丘の上や台地の周辺に築く「平山城」、さらに平地に築く「平城」へと変遷していくのですが、領土支配の上で交通の利便性などを高めた構造になっていったと言われています。

 

山の上に城があっては行き来も大変ですから当然かもしれませんね。

 

さらに、多重の堀や堅固な石垣、高くそびえる天守などを築く城が出てくるようになります。

 

これは城が単なる戦闘の要塞ではなく、地域の政治的中心として支配者の権威の象徴になっていったことを表しているのです。

 

②代表的な日本の城

お城を色々紹介してはきりがありませんので、特に有名なものを抜粋します。

 

城郭建築に革命をもたらしたのは、なんといっても織田信長の【安土城】です。

 

(安土城図 出典:Wikipedia

 

 

壮大な五層七重の楼閣(「天主」と称した)建築物を備え、その構造の堅固さ、財宝の華麗さはヨーロッパの壮大な城と同じくらいだと記録されていたそうですが、1582年山崎の戦で焼失しています。

 

また、豊臣秀吉の築いた【大阪城】は規模と豪華さは安土城をはるかに上回るものだったそうですが、こちらも本来の城は残念ながら焼失しました。

 

現在の大阪城にはエレベーターや売店があり、こちらは少々古の雰囲気を消失してしまった気がします。

 

(大阪城 出典:Wikipedia

 

 

現存する城郭建築の最高峰と称されるのが、池田輝政による【姫路城】です。

 

五層七階の大天守と3つの小天守がむすばれており、全体を漆喰で白く塗った優美な姿は「白鷺城」の別名を持ち、世界遺産にも登録されています。

 

2009~2015年に大改修工事が行われましたが、2013年に天守がひさしぶりにみえると、白すぎるとも話題になっていましたね。

 

(姫路城 出典:Wikipedia

 

 

日本には、江戸時代までの創建当時の天守を残している城が12あり、そのうち国宝に指定されているものが5つあります。

 

これらはいずれも16~17世紀に建てられており、外観や山名などから姫路城の「白鷺城(はくろ)」に続き、松本城「烏城城(からす)」犬山城「白帝城(はくてい)」彦根城「金亀城(こんき)」松江城「千鳥城(ちどり)」の別名で呼ばれていたりします。

 

③彫刻

(西本願寺の襖絵と欄間彫刻 出典:Wikipedia

 

 

豪華絢爛な城のインテリアはやはり豪華なものでなくてはならないでしょう。

 

室内には書院造が取り入れられ、柱や欄間(らんま)には豪華な彫刻がなされました。

 

これは仏教美術の衰退から、欄間彫刻が盛んになったことも影響しています。

 

ちなみに、欄間とは障子やふすまと天井までの空間のことですが、この時代以降は神社仏閣だけではなく、一般の住宅にも多く取り入れられるようになっていきますので、古い日本家屋では見ることが出来ます。

 

④絵画と調度品

(狩野永徳の『唐獅子図屏風』)

 

 

ふすまや屏風にも華やかな絵が描かれるようになりますが、これらは障壁画(しょうへきが)と呼ばれました。

 

濃絵(だみえ)という金箔地に極彩色で描いた装飾性の強い種類もあり、特に狩野永徳や弟子の狩野山楽などの狩野派の画家が中心となって活躍しました。

 

代表作は「唐獅子図屏風」ですが、挿絵などで有名ですね。

 

また、この頃から蒔絵(まきえ)と呼ばれる漆器に金箔を蒔き付ける技法によりできた調度品も見られるようになります。

 

お重の漆器などに綺麗な絵が入っているのを見たことがあると思いますが、江戸期に入るとさらに発展していったようです。

 

⑤茶の湯と茶道の確立

(千利休 出典:Wikipedia

 

 

茶の湯が大名や大商人たちの交流の場になっていく中、文化の担い手として力をつけていた町衆の一人であった堺の千利休は、豊臣秀吉や諸大名の庇護を受けながら茶道を確立させていきました。

 

豪華絢爛な文化の中で、茶道だけは禅宗の影響を受け、名誉や富よりも内面の精神性を重視し、質素な「わび茶」の作法を完成させていくのです。

 

一方では秀吉が黄金の茶室を作ったり、豪華な茶器をコレクター達が求めたり…と「大名茶」と呼ばれる桃山文化らしい派手な茶の湯も存在しました。

 

⑥庶民の芸能

このころ庶民の間で、気軽に口ずさめる短い歌が「小歌」として流行しました。

 

また、室町期には琵琶などに合わせていた浄瑠璃が、琉球(沖縄県)から伝わった三線(さんしん)を基に創られた三味線に合わせて語られるようになっていきます。

 

いずれも以後三味線を伴奏とする芸能として発展していくのです。

 

また、17世紀初めに出雲大社の巫女と伝えられる出雲の阿国(いずものおくに)が京都ではじめた「かぶき踊り」が人気を集めました。

 

(歌舞伎図巻に描かれた女歌舞伎)

 

 

彼女は元々「ややこ踊り」という幼い少女二人の踊りで注目されていた女性芸能者でしたが、斬新な演出をほどこした一連の歌舞を発表します。

 

それが「阿国歌舞伎」であり、やがて多くの追随者を生んで「女歌舞伎」が流行するのです。

 

後に江戸期には「女歌舞伎」が禁止され、「若衆歌舞伎」が行われるのですが、こちらもまた禁止されたので「野郎歌舞伎」が実施されるようになっていきます。

 

それが本流となり、現在でも日本の伝統芸能として高い人気を誇っています。

 

女人不在に歌舞伎世界が、創始者は女性だったというのは少々皮肉な話ですね。

 

まとめ

・桃山文化は安土桃山時代の活気みなぎった社会を反映した雄大で豪華な文化。

・町衆を中心とした現実主義的な文化であり、仏教色は薄かった。

・城郭建築の代表作となる城が数多く築城され「安土城」「大阪城」「姫路城」は有名。

・障壁画や欄間彫刻など豪華な城を彩る芸術作品が生まれ、発展していった。

・西洋文化をはじめとする異文化の影響をうけた多彩な文化だった。

・「茶道」や「歌舞伎」など、現在まで続く芸能がうまれ、発展していった。




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