江戸時代は長きに渡って鎖国をおこなっていました。
しかし、完全に外国とのやり取りが無かったわけではなくて中国やオランダとは貿易をおこなっていたのです。
今回は、鎖国の目的は何なのか、なぜ中国とオランダだけは鎖国が許されていたのか、時代背景などわかりやすく解説していきます。
目次
鎖国の理由
①士農工商の存在
日本が鎖国をおこなった最も大きな理由は身分制度が崩れると考えたからです。
日本は江戸時代に入ると士農工商という身分制度が出来ました。
士農工商とは、武士、農民、職人、商人の順番で身分が高いとする制度で、さらにこの下にえた、ひにんと呼ばれる身分の人が居て、差別を受けていました。
これらは、農民を統制するための対策です。
当時は、武士が最も力を持っており帯刀が許され、苗字を名乗ることもOK、斬り捨て御免といった気に入らない人を斬っても良いという制度まで与えられていました。
しかし、全体の人口割合は圧倒的に農民が多く一揆や打ちこわしなどを警戒していました。
そこで、農民をコントロールするために武士の次に偉い立場を農民に与えていました。
さらに、えた、ひにんという立場を作ることによってあの身分よりも自分たちの方が恵まれていると考えることで不満が江戸幕府に向かないように考えたのです。
②キリスト教の布教
(キリシタン大名の一人 大友宗麟像 出典:Wikipedia)
そうした身分制度が作られた中でキリスト教が人々の間で知られるようになりました。
当時貿易をおこなっていたポルトガルやスペインの人々が教えていったからです。
キリスト教の影響力は大きく幕府はキリスト教を恐れました。キリシタン大名と呼ばれる大名まで現れたからです。
なぜ幕府がキリスト教を恐れたのかというと、士農工商が崩れると考えたからです。
なぜならキリスト教の教えは人類平等。キリスト教を熱心に信仰する人が増えれば士農工商に疑問を抱く人間が現れます。
そのため、キリスト教を弾圧し始めます。
③キリスト教の弾圧
1613年に江戸幕府は禁教令を発布します。
これにより、キリスト教は禁止となります。
各地に居たすでにキリスト教を信仰している信者達は隠れるようにキリスト教を信仰していました。
それに対してキリスト教の摘発、弾圧をおこなっていったのです。
キリスト教を国内で禁止にすると、これ以上キリスト教 が入ってこないように鎖国を開始します。
④鎖国の流れ
当時貿易をおこなっていたポルトガルとスペインの来航を禁止していきます。
まずは、1624年にスペイン船の来航を禁止。1629年からは、絵踏みが開始されるようになりました。
国内でのキリスト教を減らし、これ以上外国からキリスト教が入ってこないようにする政策は同時に進行していたのです。
そして、1633年にはキリスト教に触れる可能性を無くすため、日本人の海外渡航を禁止します。
1635年には外国船の来航は長崎のみとします。
1636年には長崎の出島ができ、外国とのやりとりは出島でのみおこなわれるようになり、1639年にポルトガル船の来航を禁止して鎖国は完成します。
(長崎の出島 出典:Wikipedia)
⑤島原天草一揆
ポルトガル船の来航禁止前の、1637年に島原天草一揆というキリスト教を中心とした事件が起こります。
それは、キリスト教への弾圧に耐えかねた隠れキリシタンたちが天草四郎を中心として長崎で起こした一揆です。
当時の江戸幕府のキリスト教に対する弾圧は凄まじいものがありました。
キリスト教を見つけるためにおこなった絵踏み、そしてキリスト教でないことを証明するために寺請制度という制度を作り仏教徒にしてしまうというものです。
キリスト教であるというだけで拷問を受け、牢に閉じ込められていたので、一揆が起こるまでになります。
江戸幕府はすぐにこれを弾圧、鎮圧していきます。
しかし、キリスト教は国内に広めてはいけないという確信を幕府に持たせてしまうことになりました。
その結果、2年後にポルトガル船の来航が禁止となるのです。
オランダ船と中国船の貿易が許された理由
(川原慶賀『蘭船入港図』 出典:Wikipedia)
①中国との貿易
それまでも中国との貿易は行われていました。
中国はキリスト教が盛んではなくキリスト教の布教をおこなう宣教師も来航しなかったことで継続して貿易をおこなうようになります。
場所は長崎の出島ですが、引き続き中国とは貿易をおこなっていきます。
②オランダとの貿易
オランダとの貿易も同様の理由でおこなわれます。
オランダは純粋に貿易を目的としていたからです。
そして、オランダと貿易をおこなった大きな理由は、鎖国時でも外国の情報を江戸幕府が知りたかったことです。
オランダはヨーロッパにありキリスト教を布教しない、それならば同時に外国の情報も日本に持ってきてもらおうと考えたのです。
そこで実施されるものがオランダ風説書です。
③オランダ風説書
オランダ風説書の中身は当初オランダ船の航行記録であり、立ち寄った場所やすれ違った船の数、航海にかかった日数などのカウントだけでした。
しかし、そのうちヨーロッパを中心とした欧米の様々な情報がオランダ風説書には書かれるようになります。
フランスの二月革命について、ルイ・ナポレオンが大統領に就任したことなどが記載されていたのです。
さらに驚くことにペリーの来航に関しても1年以上前に江戸幕府はオランダ風説書によって知っていたというのです。
このように、オランダ風説書が日本にもたらした海外の情報は幕府にとっても貴重だったのです。
鎖国当時の時代背景
当時は、ヨーロッパを中心にアジアに進出をしてきており植民地を求めて外国に動きが盛んにあった時代でした。
特に欧米でキリスト教の影響力は強く、日本も外国から植民地にされてしまうのではないかと考えていました。
そのため、身分制度が崩れることとあわせて外国の勢力に対して警戒をしていたのです。
日本のキリスト教信者が増えると、その信者たちから日本の情報は漏れてしまい内側からも外側からも攻められるとひとたまりもなかったのです。
日本の感覚は正しくポルトガル、スペイン、イギリスなどは日本を植民地として狙っていたという説も残っています。
こうした時代を生き抜くための鎖国政策だったということができます。
まとめ
✔ 日本が鎖国をおこなった理由は士農工商の身分制度が崩れることを恐れたため。
✔ 日本が鎖国をおこなった理由キリスト教の布教を止めるため。
✔ 中国とオランダのみ貿易を許された理由は、キリスト教の布教をおこなわなかったことと外国の情報を江戸幕府が求めたため。