長瀞などの観光地が今でも人気スポットとなっている埼玉県秩父市。

 

しかし、昔は今とは違って自由民権運動などの本拠地として知られており、とても物騒な場所でした。

 

どうして秩父は物騒な場所になっていったのでしょうか?

 

今回はそんな秩父で起こった大騒動『秩父事件(ちちぶじけん)』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

秩父事件とは?

(秩父困民党無名戦士の墓 出典:Wikipedia

 

 

秩父事件とは、1884年(明治17年)に起こった農民が政府に対して税率の減少を訴えて起こした大反乱のことです。

 

この秩父事件が起こった当時は自由民権運動の真っ只中に起こりました。

 

さらにこの反乱の規模が大きかったことから秩父事件は福島事件と並んで『激化事件』の代表例となっています。

 

秩父事件が発生した背景

①農作物の大暴落

当時日本は松方デフレという不況が起きて、まだ産業が育っていなかったため日本の経済は大打撃を受けていました。

 

特に農業はデフレによる農作物の大暴落によってもともと苦しかった農民の生活がさらに苦しくなってしまいました。

 

 

②ヨーロッパ大不況による生糸の大暴落

明治時代の日本の重要輸出品は生糸でした。

 

生糸のもとである養蚕は秩父地方の重要な産業の一つでここで育てた生糸をフランスなどに輸出していました。

 

そのため、秩父とフランスは強い関係があって秩父での最初の小学校はフランスの援助によって建てられました。

 

しかし、1873年から起こったヨーロッパ大不況によって輸出していたフランスの生糸価格が大暴落してしまいます。

 

そのため、生糸による利益を頼りにしていた秩父の経済は壊滅的なダメージを受けてしまます。

 

さらに秩父地方の養蚕農家の人々は生糸の利益をもとにしてお金を借りていたため、生糸が売れなくなってからはお金を返すことで精一杯となってしまいます。

 

そして、追い打ちをかけるように政府は増税を進め生活は悲惨なものになっていました。

 

自由民権運動の激化と自由党員の暴走

(自由党 板垣退助 出典:Wikipedia)

 

 

秩父事件を起こした主要人物は自由党という党の党員でした。

 

①自由党の崩壊

皆さん自由党という党はご存知でしょうか?

 

もちろん2018年現在あるあの自由党ではありません。

 

自由党は明治六年の政変で政府をやめた板垣退助という人が国会開設の詔を受けて作った党です。

 

 

この党は大隈重信が作った立憲改進党に並んで日本で最初に作られた政党でした。

 

まぁここまでは良かったのですが・・・この党はもう内部対立ばかりで、板垣退助の留学に反対した党員が離党したり、岐阜事件で板垣退助が暗殺されかけたり(板垣死すとも自由は死せずはこの時に言った言葉)、そのうえ集会条例による政府の弾圧が重なって党は崩壊寸前の状態でした。

 

 

さらに党内の過激派が農民と結託して事件が起こしたりしていました。(福島事件・高田事件・加波山事件など)

 

 

そして、帰国した板垣退助はこの党の未来に絶望して10万円(今の価格だと2億円)を集めるか、解散するかを選ばせ、結局10万円集まらず結局党は解散することになりました。

 

②秩父の人たちとグループ結成

自由党は解散してしまいましたが、地方には自由党の過激派がうじゃうじゃいました。

 

特に自由党員がいたのがこの当時貧困に困っていた秩父でした。

 

自由党員は農民たちと結託して生活を良くしようと訴え、1884年に自由党員と農民が中心となって『困民党』と組織ました。

 

そして、政府に対して税の軽減や自由政府の設立などを訴えます。

 

訴えるだけならいいのですが、困ったことにこの困民党のトップは目的のためなら手段を選ばない過激派でした。

 

秩父事件の勃発と結果

 

 

自由党が解散してから2日後の10月21日、ついに秩父地方のとある神社で1万人の農民を集めて武力蜂起をしました。

 

この蜂起の勢いはとてもすごく、翌日には秩父を制圧して役所などの借金の書類などを破り捨てました。

 

ここまでは良かったものの、残念ながらこの当時電信というハイテク機器が日本で導入され、この事件は役所からすぐさま東京の政府に伝えられました。

 

政府はすぐさま警察や軍隊などを秩父に出動させてこの蜂起を鎮圧させるように命令します。

 

11月4日には秩父の困民党は軍によってほとんどが壊滅します。

 

しかし、困民党はめげずに長野県に逃げ込んで活動を続けますが、結局その動きも鎮圧されてしまいました。

 

秩父事件によって事件に加担したおよそ4000人が逮捕されました。

 

秩父事件の主要人物7名には死刑判決が下り、執行。その後も裁判は行われ、最終的には3800人が処罰されました。

 

まだまだ起こる激化事件

 

 

自由党員は秩父事件に懲りるどころか再び事件を起こします。

 

次は自由党員が秩父事件以降に起こした事件を見てみましょう。

 

①名古屋事件

名古屋では大金持ちからの強盗計画を立てて政府転覆を起こそうとします。

 

しかし、この計画は失敗。23人が逮捕され3人が死刑となりました。

 

②飯田事件

長野県飯田では名古屋監獄(刑務所)や警察署などを火薬で爆破して革命を起こそうとします。

 

しかし、秩父事件以降火薬の取り締まりが厳しくなり警察にバレてしまい失敗。あえなく逮捕されてしまいます。

 

結局、事件の主要人物6人が10年以下の禁固刑という判決が下りました。

 

③静岡事件

静岡では日本で一斉に武力蜂起を起こして政府転覆を計画していたのですが、相次ぐ事件の鎮圧によって政府の要人を暗殺するという計画に変更されました。

 

しかし、この計画も政府にバレて25人が逮捕。最高15年の懲役の判決が下されました。

 

④大阪事件

大阪では1885年 壬午軍乱などで朝鮮がちょっとゴタゴタな状態になると自由党員は『日本を見習って近代化していこう!』と考えていた金玉均を支援します。

 

しかし、政府はこの動きに対して清と協力して甲申事変を起こし金玉均を失脚させます。

 

この動きに反発した自由党員は韓国でクーデターを起こして金玉均をまた政治の舞台に復帰させようとします。

 

しかし、この計画は事前に発覚してしまい140人が逮捕されました。

 

まとめ

 秩父事件とは秩父の人たちが自由党員と結託して起こした大規模な反乱のこと。

 秩父の人たちと結託した自由党は2日前に解散していた。

 秩父の人たちは生糸価格の大暴落や農産物の下落などが立て続けに起こり貧しい生活を送っていた。

 反乱は一時は秩父全体を制圧したけど最終的には政府に鎮圧され3000人以上が逮捕された。

 自由党員は秩父事件以降も事件を起こしていった。

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