今回は明治時代に設立した、自由民権運動をおこなう政治団体“愛国社”“愛国公党”“立志社”それぞれの詳しい解説と、違いについてわかりやすく解説していきます。

 

自由民権運動とは

 

 

政治団体が設立されるきっかけとなったのが、自由民権運動です。自由民権運動というのは、明治時代に起きた政治運動です。

 

1874年(明治7)の民撰議院設立建白書の提出をきっかけに始まったとされています。運動の内容は、以下のものがあげられます。

運動の内容

  • 憲法の制定
  • 議会の開設
  • 地租の軽減
  • 不平等条約改正の阻止
  • 言論の自由
  • 集会の自由の保障

 

この運動は、1890年(明治23)の帝国議会が開設される頃まで続きました。そして自由民権運動により、各地で政治団体が設立されます。

 

その中心的な存在だったのが、愛国公党・愛国社・立志社でした。それでは、具体的にはこの三つの政治団体は、どのような違いがあるのでしょうか。

 

愛国社・愛国公党・立志社の違い

①愛国公党〈民撰議院設立建白書を提出〉

愛国公党は自由民権運動の初期に誕生。まだ議会の開催前に活動をしていたというのもあり、その誕生は時代的に早すぎたのではと言われています。

 

民選の議会開設を政府に要求した民撰議院設立建白書を提出したのち、自然消滅します。

 

②立志社〈土佐の政治団体〉

立志社は、愛国公党が自然消滅したのち、板垣退助らが土佐(現在の高知県)で結成されました。

 

土佐州民以外は社員にならない、いわゆる地方ローカルの団体です。

 

③愛国社〈立志社が立て直した全国組織〉

板垣退助によって結成された愛国社ですが、西南戦争を機に一度は自然消滅を迎えています。しかし、自由民権運動が武力から言論へと運動の転換をすると、土佐の立志社のメンバーによって愛国社の再建が行われます。

 

愛国社は、立志社のように地方ローカルの団体ではなく、全国の政治団体を統合した一大結社となったのです。

 

ここからは、それぞれの特徴と歴史を設立した順に解説していきます。

 

愛国公党

 

 

1874年(明治7)1月12日に東京都で結成されました。征韓論に敗れ、明治六年の政変で下野した板垣退助福島種臣らが設立します。

 

 

愛国公党の第一の課題は、天賦人権論に基づいて、基本的人権を保護し、政府に民選議員設立を要求することでした。

 

①民選議院設立建白書の提出

1月17日、板垣退助や福島種臣らは、政府に対して『民選議員設立建白書』を提出しました。

 

内容は、政治権力が天皇や人民にはなく、官僚にあることを批判し、士族(武士)や豪農商の代表者から民選議院を設立することを主張しました。

 

このとき、建白書には板垣と福島のほかに、後藤象二郎、江藤新平、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、吉沢滋が署名しています。

 

②自然消滅

愛国公党は日本でも初期の政治団体でしたが、のちに板垣退助や片岡健吉らが帰郷し、江藤新平は佐賀の乱に加わったため、活動は停止。その後、自然消滅を迎えました。

 

立志社

 

 

1874年(明治7)4月16日に高知県で結成されました。板垣退助、片岡健吉、山田平左衛門、植木枝盛、林有造らによって設立されます。

 

①士族救済

立志社は、帰郷した板垣退助が片岡健吉、林有造たち旧土佐藩士族の有志を集めて、人権自由の確立を目指して立ち上げられた政治団体です。

 

そのため、初期は士族(武士)の救済を第一の目標としていました。

 

②西南戦争と立志社建白

1877年(明治10)2月に西南戦争が起こります。立志社内では、この戦争に同調して挙兵を企てる一派が生まれました。

 

 

一方、植木枝盛、吉田正春らは、戦争参加に反対する一派でした。そして、天皇への上申書(意見書)「立志社建白」を作成します。その内容は、独断的な内閣や兵制・税制・外交の失敗などを挙げた政府への批判と、地租の軽減、徴兵制度の廃止、民撰議院の設立を提案しました。

 

愛国社

 

 

1875年(明治8)2月22日に、板垣退助が大阪で旧愛国公党の同志を再び集めて結成されました。

 

本社は東京ですが、そのほかにも全国各地に支社がありました。日本で最初の全国的な政治団体です。

 

①西南戦争と自然消滅

愛国社に加盟する全国各地の政治団体とは、本社に委員を送って情報交換や連絡をすることになっていました。

 

しかし、結成後間もなく、板垣退助が参議に復帰します。加えて、西南戦争が勃発し、西郷軍に参加した者も多く、一度は自然消滅を迎えます。

 

②愛国社の再建

西南戦争が終わり、自由民権運動は武力による打倒政府という考え方から、言論と大衆組織による運動へと転換します。

 

そして、1878年(明治11)4月、立志社が中心となり、愛国社の再建が決定されました。

 

9月には全国各地から13団体の代表が大阪に集まり、愛国社再興会議が開催されました。そして、翌年の1879年(明治12)11月には、国会の開設を目標とし、全国規模で請願運動を組織することを決定。愛国社は、全国的な国会開設運動の中心的存在となっていったのです。

 

③国会開設運動と愛国社の解散

愛国社が再建され、国会開設を求める全国的な運動は、それまで士族(武士)中心だったものが、新たに豪農豪商(財力や勢力のある農民や商人)の出身者も加わった運動へと転換します。

 

愛国社は立志社が中心となり運営されていましたが、その運営体制に対する批判が高まり、1880年(明治13)3月、愛国社としてはべつに国会期成同盟の大会が開催されることになりました。

 

 

そして、愛国社は旧立志社派の人々によって継続しますが、1880年(明治13)11月26日、東京において解散となりました。

 

まとめ

・自由民権運動というのは、明治時代に起きた政治運動。

・愛国公党は、民選議院設立建白書を提出したのち、自然消滅した。

・土佐で誕生した立志社は、士族救済を目指した。

・愛国社は西南戦争を機に一度は自然消滅するが、立志社によって建て直される。

・立志社は地方ローカル、愛国社は全国規模の政治団体。




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