【シーメンス事件とは】簡単にわかりやすく解説!!内容や背景・影響など

 

シーメンスという会社を知っているでしょうか?

 

SIEMENSのロゴをサッカーやF1で見た人もいると思います。昔はレアルマドリードのユニフォームスポンサーをやっていました。(2002-2007年)

 

シーメンス(ジーメンスとも)はドイツの企業で精密機械、電気、情報通信、交通、医療までを手掛ける世界的な大手です。

 

今回は、政界を大きく巻き込んだシーメンス事件について、わかりやすく解説していきます。

 

シーメンス事件とは

(ドイツのミュンヘン・シーメンス本社 出典:Wikipedia

 

 

シーメンス事件とは、ドイツの『シーメンス社』が日本海軍高官へ賄賂(わいろ)を渡していたという事件です。

 

1914年(大正3年)にこの事件は発覚しました。

 

当時の政界を大きく巻き込むこととなり、時の第一次山本内閣が総辞職しました。

 

シーメンス事件の内容

①シーメンスは老舗企業

シーメンスは100年前の大正時代もやっぱり大手の世界企業でした。

 

第一次世界大戦前で、まだ国内産業が未熟な日本は軍需品や電信設備、機械などは海外から輸入していました。

 

照明器具や電信設備など軍用の装備品、あるいは軍艦を日本政府が独シーメンスや英ヴィッカースといった外国企業から購入することも多かったのです。

 

②賄賂をネタに会社をゆする

そんな100年前の大正時代、シーメンスの元東京支店員、カール=リヒテルはとんでもない事件を起こします。

 

リヒテルは会社からお金を脅し取ろうとしたのです。

 

リヒテルは、シーメンスが海軍に装備品を納入する見返りに海軍高官にわいろを贈っているという証拠を盗み出していました。

 

この証拠によってわいろを公表されたくなかったらお金をよこせというのです。

 

海軍との贈収賄が明るみにでれば、企業イメージは台無しです。公表されたくないシーメンスはもみ消しを図り、証拠は処分されて一度事件は落ち着きます。

 

③裁判でバレる

しかし、リヒテルはドイツに帰ったところで脅迫罪で捕まり、裁判の過程で日本海軍との贈収賄が明らかになったのです。

 

1914年、この事件は日本の新聞で大きく報道され、世論は沸きました。

 

事件の調査の過程でイギリスのヴィッカース社からも軍艦建造にからんで賄賂をもらっていることが明らかになりました。

 

海軍に対する風当たりは強くなり、山本権兵衛内閣は世論に押される形で総辞職に追い込まれたのです。

 

シーメンス事件の背景

(山本権兵衛 出典:Wikipedia

 

 

実際のところわいろを受け取ったのは海軍の高官(少将や大佐)だったのに、なぜ内閣が倒れたのでしょうか。

 

一つには山本権兵衛が海軍出身であったことです。海軍全体が腐敗しているとの攻撃を受けました。

 

もう一つは藩閥への反感です。

 

①藩閥政治。長州の陸軍、薩州の海軍

明治期までは陸軍は長州出身者が多く、海軍は薩摩が多いという傾向がありました。

 

大正時代もその傾向は残っており、薩摩と長州はそれぞれ軍に強い影響力をもっていました。山本首相も薩摩出身です。

 

このころ陸海軍の大臣は現役武官制(現役の大将や中将が大臣になる)をとっており、軍のトップが大臣を出さないと軍部大臣が不在になって内閣を組閣できませんでした。

 

薩摩閥と長州閥は気に入らない内閣を葬り去れるカードをもっていたのです。

 

 

 

②第一次護憲運動と藩閥の衰え

1912年、西園寺内閣が陸軍の2個師団増強の要求を断った時、陸軍大臣上原勇作は辞表を出して陸相をやめたうえ、軍は次の陸相を出さず、内閣を総辞職に追い込みました。

 

これは世間の非難を浴び、次に内閣を作った陸軍出身の桂太郎は、「憲政擁護 藩閥打破」の声に押されてわずか50日あまりで退陣においこまれました。(第一次護憲運動

 

 

③海軍出身山本権兵衛

そのあとに内閣を組閣したのが海軍出身で薩摩出身の山本権兵衛です。

 

彼は軍部大臣現役武官制を廃止し、文官任用令を改正して、政党政治がうまくいくように制度を見直しましたが、1914年1月のシーメンス事件によって新聞や民衆の政府攻撃にさらされます。

 

 

ちょうど、海軍の軍備費を増やそうと税金をあげる話し合いをしているところへこの事件が起きたこともあり、世間の反発は大変なものでした。

 

日比谷公園で内閣弾劾演説大会が開かれたり、新聞が政府批判の記事をさかんにのせたりしました。

 

山本内閣は耐え切れずに3月に総辞職しました。

 

事件の影響『藩閥政治の終わりの始まり』

長州閥の桂内閣も、薩摩閥の山本内閣も世論の高まりによって総辞職に追い込まれ、薩長が日本を引っ張っていく時代は終わったのだと感じさせました。

 

大正デモクラシーが盛り上がる中、薩長出身が多い元老たちも次の首相に藩閥出身者は選べず国民に人気のあった大隈重信を首相に据えるのです。

 

ただ、誰を首相にするかの決定権はまだ元老たちにあり、政治に対する影響力は失っていませんでした。

 

 

まとめ

・シーメンス事件とは、ドイツ企業と海軍高官の贈収賄事件のこと

・事件によって山本権兵衛内閣が倒れる。

・この事件を機に、藩閥政治の終わりがはじまった。

 

おまけ

①「ごんべえ」じゃなくて「ごんのひょうえ」

山本権兵衛(やまもとごんべえ)この名前はかなりインパクトがありますよね。

 

ごんベさんのあかちゃんが~と歌いだしたくなるんですが、正しくは「ごんのひょうえ」だそうです。

 

もともとは「ごんべえ」だったのですが、やっぱり響きがアレなのでよりかっこいい読み方の「ごんのひょうえ」としたのです。

 

②日露戦争の時の海相

この山本権兵衛さんは日露戦争の時の海相です。日露戦争といえば、当時世界最強と呼ばれたロシアのバルチック艦隊を破った日本海海戦が有名です。

 

ロシアと戦って勝つために若い有能な人を引き上げたり、製鉄所や造船所を整備したり、強い軍隊の基礎ともいえる人材や設備の増強を図りました。

 

日本海海戦は戦術に注目が集まりがちですが、「素人は戦術を語り、玄人は戦略を語り、プロは兵站を語る」の言葉どおり、海相時代の山本権兵衛の仕事はまさに兵站に重点をおいたプロの仕事でした。

 

③肉じゃが、カレーライスを導入した人

兵站(補給)の重要さを知る山本権兵衛は栄養価の高いメニューを海軍の食事に取り入れました。

 

同じ時代に八甲田山で雪山訓練をしていた陸軍の携行食が「餅二切れと水」ぐらいだったのに対して、海軍では肉じゃがやカレーライスなど栄養価の高い、当時としては最新のメニューが導入されていました。

 

このメニューは兵士の健康維持に大変に役立ったそうです。

 

 

勉強を頑張る皆さん!

山本権兵衛が製鉄所や造船所の整備、兵隊への美味しい食事で海軍を強くしたように、なんでも基礎が大切です。

 

食事、睡眠、部屋の整理(ちゃんと勉強する環境になっているか)など、基本的なところを一度見直してみましょう!