下剋上という用語は中国・代の書物で陰陽寮などで必読書とされていた『五行大義』などか出典とされています。

 

鎌倉時代から下剋上という用語は使用されるようになり、下位の者が上位の者をしのぐといった中世後期に見られる社会構造の変革の風潮を表す言葉として使用されてきました。

 

今回は、この『下剋上(げこくじょう)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

下剋上とは?

 

下剋上とは下位の者が上位の者をしのぐ、下位の者が上位の者に実力で打ち勝ちその地位にとって変わるといった意味を持ちます。

 

下剋上という用語は平家の繁栄から滅亡が記された鎌倉時代後期の軍事記「源平盛衰記」や、二条河原に掲げられた室町時代初期の「二条河原落書」などに見られ、身分の低い者が実力のある身分の高い者を打ち破りその地位につくといった社会の風潮を表す言葉として主に鎌倉時代から戦国時代まで使用されてきました。

 

しかし、戦国時代において実際には下位の者が上位の者を倒すも、その座を奪うことがほとんどなく、また必ずしも上位の者を討滅するといったこともありませんでした。

 

そのため、下位の者が上位の者を倒しその地位につくといった戦国時代の社会風潮は、下剋上ではなく行跡の悪い藩主を家老たちが強制的に監禁するといった主君押込めが、戦国時代の社会風潮を表す言葉といった意見もあります。

 

下剋上という風潮の終わりは豊臣氏を滅亡に追い込んだ徳川家康が最後とされていますが、家臣が主君を強制的に監禁し、その座を奪うといった主君押込め幕末に至るまでしばしば存在していました。

 

下剋上が行われた時代背景

 

下剋上という言葉は身分の低い者が実力のある身分の高い者を打ち破りその地位につくといった社会の風潮を表す言葉として鎌倉時代から使用されていました。

 

①鎌倉時代の下剋上

平安時代中期、後期から鎌倉時代初期にかけて荘園公領制が成立しました。

 

荘園公領制とは貴族や社寺の私有地である荘園と朝廷や幕府の土地である公領を土台とした土地の支配構造です。

 

鎌倉時代初期の終わりにかけて部外者であるにも関わらず荘園、公領に侵入した者は悪党として観念されてきました。

 

鎌倉時代中期に入ってからも外部からの荘園への侵入者は荘園領主側から見て悪党と呼ばれ続けます。

 

荘園領主はその後も悪党の侵入や侵略に悩まされていましたが、正嘉年間に入ると幕府による悪党の鎮圧が行われました。

 

この頃の幕府に対抗する悪党も下剋上の一種とされていました。

 

②南北朝時代(室町時代初期)の下剋上

南北朝時代(室町時代初期)時の権威を振るっていたのはまだ武士ではなく、公家や天皇ばかりでした。

 

その社会風潮を嘲笑、反撥し派手な身なりで傍若無人な振舞いをする若者は「ばさら」と呼ばれ、その風貌や振舞いは若者の間で流行となります。

 

戦国時代においても派手な格好をし、傍若無人な振舞いをする若者は多くいましたが、ばさらではなく「うつけ」「かぶき」などと呼ばれるようになりました。

 

このばさらも下剋上の一種とされていました。

 

戦国時代の下剋上

延元元年(1336年)足利尊氏によって室町幕府が成立しました。

 

室町幕府は守護大名を通して全国を支配していましたが、将軍継嗣問題や有力守護代の争いなどによって応仁元年(1467年)から文明9年(1478年)にかけて応仁の乱が勃発。

 

 

応仁の乱以降は室町幕府の権威は低下し、実質山城国のみの支配となります。

 

室町幕府の権威が低下すると全国各地の守護大名たちに身分の低い国人や公家などが歯向かうようになります。

 

中には主君に歯向かう家臣も存在し、守護大名を倒した者たちは戦国大名と呼ばれ、室町幕府の衰退後、守護大名が実力のある下位の者に立場を奪われるといった下剋上の風潮を当時の人々は一般的な観念と考えていました。

 

戦国時代において、一家臣が主君を倒し戦国大名化した例は数えきれないほどあります。

 

下剋上とは上位の者である主君を倒したその下位の者である家臣が地位を奪うといったものですが、下剋上の多くは主君を廃立した家臣が主君の座を奪うのではなく、主君の嫡男や兄弟といった一族を新しい主君として擁立するといったものがほとんどでした。

 

その一例として陶晴賢があげられます。陶晴賢は天文20年(1551年)、主君である大内義隆を討ち取りました。

 

しかし、自らが主君の座にとって代わるのではなく大友義鑑の次男である大内義長を新しい主君とさせています。

 

戦国時代の社会風潮は下剋上ではなく主君押込めといった意見も

下位の者が上位の者に実力で打ち勝ちその地位にとって変わるといった社会風潮を下剋上と呼びます。

 

しかし、実際には下位の者が上位の者を倒すもその座を下位の者が奪うことはほとんどなく、また必ずしも上位の者を討滅するといったこともありませんでした。

 

そのため下剋上は文字通りの意味を持っておらず、家臣が主君を倒すといった戦国時代の社会風潮は主君押込めであるといった意見もあります。

 

主君押込めとは鎌倉時代から江戸時代まで武家社会において見られた慣行です。

 

行跡の悪い藩主を、家老たちが強制的に監禁するといったもので、いわば家老たちのクーデターのようなものでした。

 

戦国時代に行われた主君押込めの一例として父の武田信虎を追放した武田信玄の例が挙げられます。

 

武田信玄は次男に家督を譲ろうとしていた父・武田信虎を天文10年(1541年)強制的に隠居に追い込み、武田家の家督を継ぎました。この際、父・信虎の追放の後押しをしたのは武田信玄についた家臣たちの後押しがあったとされています。

 

下剋上のその後

 

下位の者が上位の者を倒し、その地位につくといった下剋上の成功例としてあげられるのが織田信長です。

 

 

(織田信長 出典:Wikipedia)

 

 

織田信長は天文24年(1555年)主君である下尾張守護代の織田信友を打ち破ると、続いて自らが尾張守護に擁立した斯波義銀を追放しました。

 

その後も対立した将軍・足利義昭を元亀4年(1573年)に追放し、地位と権力を手にしました。

 

しかし、織田信長自身も明智光秀による下剋上によって討たれ亡くなります。

 

織田信長亡き後、織田信長の家臣であった豊臣秀吉が天下人となりますが、徳川家康によって豊臣家は滅亡に追い込まれることとなりました。

 

豊臣家を滅亡に追い込んだ徳川家康は、江戸幕府を開き初代征夷大将軍となります。

 

 

(徳川家康 出典:Wikipedia)

 

 

徳川家康亡き後、将軍職は徳川一族が代々受け継いでいくこととなり、約260年あまり徳川家が日本を支配することとなりました。

 

そのため、将軍職が世襲制となった江戸幕府を開いた徳川家康が下剋上の終止符を打った人物とされています。

 

江戸幕府が開かれ下剋上の風潮が社会から消えたものの、主君押込めの風潮は幕末に至るまで見られました。

 

幕末の主君押込めの一例として家臣から追放寸前に追い込まれた上杉鷹山の例があげられます。

 

名君として名高い江戸時代中期の大名である上杉鷹山は「寛三の改革」と呼ばれる産業復興と財政支出半減を行いました。

 

しかし、この改革にあたって改革中止を希望する藩の重役と対立することとなり、上杉鷹山は一時、反対派の重役たちから主君押込めが行われる寸前まで追い詰められました。

 

まとめ

 下剋上とは下位の者が上位の者をしのぐ、下位の者が上位の者に実力で打ち勝ちその地位にとって変わるといった意味を持つ。

 身分の低い者が実力のある身分の高い者を打ち破りその地位につくといった社会の風潮を表す言葉として主に鎌倉時代から戦国時代まで使用された。

 鎌倉時代の悪党も、南北朝時代(室町時代初期)のばさらも下剋上の一種として考えられた。

 戦国時代において実際には下位の者が上位の者を倒すも、その座を奪うことがほとんどなく、また必ずしも上位の者を討滅するといったこともはなかった。そのため下位の者が上位の者を倒し、その地位につくといった戦国時代の社会風潮は主君押込めといった意見があげられる。

 主君押込めとは行跡の悪い藩主を、家老たちが強制的に監禁するといったもので、いわば家老たちのクーデターのようなものであった。

 徳川家康によって江戸幕府が開かれ下剋上の風潮が社会から消えたものの、主君押込めの風潮は幕末に至るまで見られた。




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