2020年NHK大河ドラマの「麒麟がくる」は、若き日の明智光秀が舞台です。

 

明智光秀といえば、「主君」しかり「本能寺の変」しかりで、織田信長も切っては切れない人物なのではないでしょうか?

 

今回のテーマである平手政秀(ひらてまさひで)は、織田信長と所縁の強い武将です。

 

 

では、平手政秀とはどのような人物なのでしょうか。今回は、その人物像や経歴、死因やお墓などについてもご紹介します。

 

平手政秀の生涯

(平手政秀の墓地 出典:Wikipedia

 

では、平手政秀はどのような経歴の持ち主なのでしょうか。

 

冒頭でもお話のとおり、信長の重臣だった政秀ですから、当然、同じく家臣だった光秀とも何かしらの接点があったことでしょう。

 

現在、判明している範囲で平手政秀の経歴をご紹介します。

 

 

平手政秀の生涯年表

 

  • 1492年 生まれる。
  • ???年 織田家に仕える。
  • 1534年 織田信長が生まれる。
  • 1534年 信長のもり役になる。
  • 1547年 信長初陣を果たす。
  • 1548年 斎藤道三と和睦。政秀の計らいで信長と帰蝶(濃姫)との婚約が成立。
  • 1552年 織田信秀が死去。信長が家督を継ぐ。
  • 1553年 自決する。

 

織田信長の重臣であった政秀でしたが、その最期は「自決」という波乱な最期を遂げています。

 

政秀のイメージとしては曲がったことが大嫌いな実直な方であったとお見受けするので、生きていれば光秀とも馬の骨があったのではないでしょうか。

 

それでは、平手政秀の人生はどのようなことがあったのか?詳しくひも解いていきましょう。

 

平手政秀の壮絶な人生

(平手政秀邸址 出典:Wikipedia)

 

平手政秀は、1492年5月10日に生まれました。父は、平手経英といわれています。

 

政秀の前半生の史料は少なく、織田家に仕え始めたのはいつ頃かわかっていませんが、信長の父にあたる織田信秀に仕えます。

 

そして、政秀は織田家では主に朝廷との交渉役など外交面で活躍していたといわれています。

 

①織田信長のもり役

平手政秀は1534年に織田信長が誕生すると「もり役」に就任して、織田家の次席家老も務めていました。

 

 (織田信長 出典:Wikipedia)

 

もり役とは、養育係として側に付き添うもののことをいいます。それほどまでに信秀からの信用も厚かったといえるでしょう。

 

政秀は、茶道や和歌などに通じ、信長の茶の湯に影響を与えたともいわれています。

 

例えば、1533年公家の山科言継が尾張を訪問したさいには、「種々の造作 目を驚かし候 数奇の座敷は一段なり」と後の日記で政秀の接待を絶賛したことが記されています。

 

日記に記してしまうほどに政秀邸の茶の湯を行う座敷の見事さや、もてなしぶりには感嘆させられたのでしょう。

 

信長が茶道の道具を収集したり、茶の湯に傾倒していた点も政秀に通ずるものがあるのかもしれませんね。

 

②斎藤道三との和睦と信長の結婚

1547年に織田信長が初陣を果たした際には、信秀は後見役としてサポートしました。

 

そして、1548年斎藤道三と和睦を成立させて、斎藤道三の娘である帰蝶(濃姫)と信長の婚約という功績も挙げています。

 

 

③謎の自決

信秀が亡くなって織田家が荒れる中、政秀は1553年に突然「切腹」をして、自決しました。

 

その原因となったのは、常日頃から信長の傍若無人なふるまいや奇行に胃を痛めていたため、政秀は主君の行動を諫めるために切腹したとされ美談になっています。

 

一方で、信長が政秀の長男の馬を気に入り、信長はそれを欲したことも原因になっているといわれています。

 

信長から馬を欲しいといわれた政秀の息子は、「私は馬を必要とする武士です。どうかお許しください。」と言ってそれを断ったといいます。

 

そのことで平手家と織田家の関係が不和になってしまったようです。そして、信秀は信長と平手家との板挟みになり苦悩して自決したともいわれています。

 

当時の信長は「おおうつけ」と言われており、どちらが原因であったにしても、政秀は信長の行動に振り回されて自決したようですね。

 

④明智光秀との接点は?

肝心の明智光秀との接点ですが、政秀が自決した1553年は光秀が妻の煕子と結婚した年になります。

 

 

その頃は、光秀は長良川の戦いで負け、本拠を失い浪人になっていました。

 

そして、その後朝倉氏に仕えていたと推測されます。そのため、政秀と光秀に直接接点があったとは思えません。

 

ただ、こんな逸話が残っています。

 

信長は、鷹狩に行くたびに政秀への供え物として肉を空へと投げたり、政秀の死後に「政秀寺」を建立して菩提を弔ったりもしています。

 

 

政秀が亡くなったからといって、自分の行動を改めることはしなかった信長でしたが、とにかく信長は政秀が亡くなったことをとても惜しんでいたといわれています。

 

そして、家臣たちに度々、政秀の思い出話をしたそうですから、光秀も政秀と比べられたりしたこともあるのかもしれません。

 

⑤平手政秀のお墓について

信長は、政秀が亡くなった後に「政秀寺」を小牧山南、政秀の領地小木村に創建して、沢彦和尚を開山としました。

 

政秀寺は1584年の小牧・長久手の戦いで一度焼失したものの、翌年に再興され、1610年清州越で現在地に移設されています。

 

 

そして、政秀のお墓自体は現在、名古屋市の平和公園内政秀寺墓地に移されています。

 

(平手政秀の墓地 出典:Wikipedia

 

臨済宗妙心寺派の寺院です。戒名は「政秀寺殿功菴宗忠大居士」とお墓に彫られています。

 

高台にあり、信長が生きた地を眺められるような場所にあり、信長もふとした時にその方角を眺めていたかもしれませんね。

 

麒麟がくるでは平手政秀は「上杉祥三さん」が演じる!

大河ドラマ「麒麟がくる」で平手政秀を演じるのは、俳優の上杉祥三さんです。

 

 

上杉祥三さんは、1955年12月14日生まれで兵庫県出身。俳優であり、劇作家であり、演出家でありと多才の持ち主です。

 

特技は乗馬ですから、大河ドラマでもその馬術の才能を見せて欲しいですね。

 

舞台でも活躍する上杉祥三さんですが、大河ドラマも常連で「山河燃ゆ」「翔ぶが如く」「毛利元就」「元禄繚乱」「風林火山」「龍馬伝」「軍師官兵衛」「花燃ゆ」「おんな城主 直虎」と出演されています。

 

大河ドラマの先輩として、「麒麟がくる」でも他の若手の俳優女優を引っ張って行って欲しいですね。

 

また、平手政秀が登場したドラマは、一番新しいものでも2013年の「女信長」で平泉成さんが演じたものが最後です。

 

信長のもり役だったという政秀を上杉祥三さんはどのように演じてくれるでしょうか。活躍が楽しみですね。

 

 

まとめ

まとめ

 

 平手政秀は1492年に生まれ、1553年に自決する。

 

 平手政秀は信長が生まれる前から、政秀は織田家に仕えている。

 

 織田家では朝廷との交渉役など外交面で活躍していた。

 

 茶道や和歌などに秀でた一面があり、その力を公家の山科言継も絶賛していた。

 

 信長誕生後は信長のもり役になり、信長を指導し、信長の初陣を後見人としてサポートする。

 

 斎藤道三との和睦を成立させるために力を尽くした。

 

 信長と帰蝶の婚姻を結ぶのに一役買っていた。

 

 自決の原因は、信長が「おおうつけ」と呼ばれていたため、主君としての自覚を持って欲しいと自分の命をなげうったという一説がある。

 

 自決の原因には、息子の馬を欲しがった信長の願いを断ったことで、織田家と平手家が不和になったことともいわれている。

 

 政秀の死後、信長は政秀の死を悼み「政秀寺」を健創している。